第Ⅹ話 前編【約束のケーキと再会】其の四
焼き上がるまであと少し。最初は百八十度で二十分、扉を開けずに百六十度に温度を落として三十分。最後は百二十度で十分の合計一時間。ルセット通りだが、最初に見たときはシフォンケーキの倍の時間もかかるんだと驚いた。
サルヴァに尋ねても、湯銭焼きは時間がかかるといていたので間違いはないのだろう。
それにしても、何度も時計を見ながら温度を変えるのは大変だった。何もしていなければ時間は進まずに、何度も時計を見てはまだかと思い。アリーチェと話していると時間が過ぎそうになって慌てて窯へと急いだ。
だが、そんな時間を潰すのもあと少しだ。もうすぐ時間になる。
サルヴァと約束した夕食の時間にはギリギリ間に合いそうだ。
「――時間だ」
窯の前まで行くと、厚手の手袋を受け取り手にはめた。
――明日こそミーナに届けるんだ。だから、うまくいっていてくれ。
心の中で願いながら扉を開けると、シフォンケーキの時よりもはるかに多い湯気がモクモクと上がった。
湯気が落ち着くと、窯の中で膨らんだスフレチーズが見えた。
「……くそっ……」
真ん中は盛り上がり、大きく割れて開いている。二台ともが同じように膨らみ、割れていた。
期待していただけに落胆は大きく、すぐに言葉が出なかった。
――うまくいったと思い焼いてみたが、やっぱり失敗だったみたいだ。
窯から取り出すと、湧き上がってきた香りが届き驚いた。
卵のような乳のような、すべてが混ざった不思議な香りだ。
割れ目からバニラの粒が見えるが香りはしない。
香りだけではおいしそうとはとても思えなかった。
見た目も、三つの山のように膨らみ割れた部分が崖のようにも見える。そんな不思議な焼き上がりに自然と肩を落とし力が抜けた。
「失敗か……」
カスタードクリーム――いや、クリームチーズを混ぜるときか?それともメレンゲ……いやすべてが疑わしく感じる。どこが悪かったのか工程ごとに思い浮かべて考えてみたが、思い当たる所が多すぎる。一人では答えが出なかった。
「――アリーチェ失敗したのはなぜだと思う?」
「そうですねー、気になったのはカスタードクリームにクリームチーズを混ぜた所ですー。今思うとー急に冷えちゃったと思うんですー、それに裏濾したのもまずかったかもしれないですー。裏漉しすると、ダマは取れるんですけどー、カスタードクリームの固まる力も弱くなったのかなって思いましたー。私が濾したらなんて言ったので……」
「いや、アリーチェがいなかったら、もう一度カスタードクリームを作っていただろう。それで失敗していたら分からなかった事だ。だから、気にしないでくれ。それよりも、夕食の後に、もう一度作ろうと思うんだが手伝ってくれないか?」
「お任せくださいですー。もちろん最後までお付き合いいたしますー」
「頼りにしているよ。――そろそろ夕食の時間だ。アリーチェも一緒に行こう」
「えっ?片付けもありますー作られるなら計量だって――」
「それは、後でいい。サルヴァに頼んで三人分作ってもらってるんだ……よかったら一緒に食べないか」
「――わかりましたー。エルさまとご飯を食べられるなんて幸せですー」
「ははっ、夕食を一緒に食べるだけで幸せなんて大げさだよ――」
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
ダイニングへ向かうと、サルヴァが迎えてくれた。
「準備は出来ております。どうぞお席へ」
いつもの自分の席に座り、アリーチェも席へと進めた。アリーチェは戸惑いながらサルヴァの方を向いた。
「――本来なら家人が席に着くことは失礼にあたるのだが、エルネスト様直々の指名だ。ご相伴にあずからせていただきなさい」
笑顔で返事をすると、向かい合うように俺の前に座った。
「では、私は一つ目の皿をお持ちいたします」
サルヴァはそう言うと厨房の方へと下がって行った。
「――エルさまー……本当に良かったんですかー」
「まだ言っているのか?サルヴァも言っていただろ、俺の指名だと。今日は俺が招いた形――つまりは客だ。気にしなくていいよ」
「ですが……」
離れからここまで、何度も同じ事を尋ねられた。俺と一緒に食事するぐらい良いじゃないかと何度も言ったが、まだ気にしているようだ。
「それに――いずれ領主を継がないといけない。その時には来賓を招きこのような場もあるだろう。今日は俺の練習に付き合ってくれないか?」
アリーチェはクスリと笑い口を口を開いた。
「――ずるいですねー、そんな事言われたら断れないじゃないですかー」
「そうか?」通じたみたいだな。これで気に病む事もないだろう。
「それならー、キースさんも呼んできますー?きっとご指導いただけますよー」
「それはやめてくれ!食事どころじゃなくなる」
クスクスと笑うアリーチェは悪戯した子供のようだった。その表情は明るく、先ほどまでの心配はなくなったみたいだ。
「お待たせいたしました。一皿目でございます」
読んでいただきありがとうございます。
ようやく焼き上がったスフレチーズケーキ。
ですが、結果は思い描いていたものとは違う形になってしまいました。
ここまで積み重ねてきたからこそ、今回の失敗はエルにとって決して小さなものではありません。
ですが、支えてくれる人がいるからこそ、また立ち上がることができる。
何度転んでも前へと進む。
次回更新は6月12日(金)19時30分です。
更新の間隔が空いてしまい申し訳ありません。
じっくりと物語を紡いでいますので、今しばらくお待ちいただけると幸いです。




