第Ⅹ話 前編【約束のケーキと再会】其の三
「アリーチェそろそろ大丈夫そうだ――」
固まった腕を、ずっと握っていてくれた手がスッと離れると、少し冷たく感じた。泡立て器から固まっていた指を離し、腕を軽く振った。すると、少しずつ感覚が戻ってきた気がする。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「――あとは混ぜて焼くだけだ」
すっかりと冷めてしまったカスタードは気がかりだが、ここまで頑張ったんだ。きっと綺麗に焼き上がってくれる。そう信じ、もう一度泡立て器を握りしめた。
メレンゲを半分よりも少なめで掬い上げ、カスタードクリームに混ぜていく――材料屋でクンパさんに教えてもらった事だ。重たい物を合わさる場合、比重を合わせるのが重要だと教わった。比重についても詳しく教えてくれ、すぐに約束を守ってくれた。
両方のボールを持つと、あきらかに重たいのはカスタードクリームだ。メレンゲを一部混ぜると生地が白さを増しサラサラと流れるようになった。
――よし、残りもこのまま混ぜよう。
ボールに残ったメレンゲを綺麗にさらい、もう一つのボールに入れた。お湯を沸かしていたアリーチェが戻ってくると、不思議に思ったのか尋ねてきた。
「今度は逆に混ぜるですー?」
「あぁ、生地の重さで潰れないように、上からメレンゲを入れて混ぜた方がいいらしい」
アリーチェが言っているのは、シフォンケーキとは逆に合わせたからだろう。ベースになる生地を上から合わせた方がいいと教えてくれたのはアリーチェだ。
シフォンケーキはメレンゲが多くて強い。だが、スフレチーズはメレンゲの量よりもベースになるカスタードクリームの方が圧倒的に多い。それなら、この場合は逆の方がいいはずだ。
「エルさま、博識ですねー」
「三人に教えてもらったからな」生地を見下ろし、混ぜながら口だけで応えた。
「三人?」
「あぁ、サルヴァにクンパさん。それにアリーチェ――君もだ。本当に助かってる」
一通り混ぜ終わり、顔を上げるとアリーチェは違うところを向き顔を隠していた。
……アリーチェは何をしているんだ。たまに驚くほどしっかりしていると思えば、不思議な行動をとる時もある。
生地も八割程混ぜ終わり、残るのは最後の微調整をどこまでするかだ……。メレンゲを残しすぎても膨らみすぎる。逆に潰しすぎても膨らまないのだろう。
シフォンケーキとは違い、焼くのも湯煎焼き。
試したいが時間も限られている。明日の朝に間に合わせるなら出来ても、あと一度出来るかどうか――。
「……アリーチェも一緒に状態を見てくれないか?」
「私もですー?……した事ないからわからないですよー。いいんですー」
「あぁ。――不安……なんだ」
「これで本当に合っているのか、届けることが出来るのか。それに……間に合うのか」
ずっと抱えていた不安をアリーチェに吐き出した。
何気なしに救うと息巻いて始めたケーキ作り。簡単に出来ると思い込んでいた。知識はミーナから貰っていたから……。でも、いざ始めてみると卵の割り方も知らずに苦戦し、ルセットに書かれた通り出来ない自分に嫌気がさした。
ミーナの笑顔を取り戻したいと、みんなの前では虚勢も張った。笑顔になれるかどうか確証なんてないのに……。
今朝、港でソウに言われたことで気づいた気持ち。それでもう一度前を向けた。
みんなに手伝ってもらえて、あと少しの所まで来られている。
クンパさんもサルヴァも、それにアリーチェにも本当に驚かされてばかりだった。シフォンケーキが作れるようになって少し……うぬぼれていた。それが自分だけで出来たわけじゃないのに。
俺の実力なんてみんなに比べればないに等しい。でも、支えてくれる。
それが分かったから――。
「――一緒に作り上げたいんだ。みんなに助けてもらって、あと少しまで来れた。だから――少しだけ勇気が欲しい。このケーキを作り上げるために」
「それならー……それなら、もう少しだけ混ぜましょうか。気泡が荒くふわりとしています、もう少しだけサラサラにした方が膨らみも均一に焼き上がると思います」
「――わかった。アリーチェがここだと思うところで腕をガシッと掴んでくれ」にやりと片方の口を上げた。
「フフフ――わかりましたー、ガシッですね。お任せくださいエルさまー」
真面目なアリーチェも悪くないが、親しみのあるアリーチェの方が俺には合っている気がするな。
ヘラに持ち替え、生地を底から上へと折るように重ねていく。掬い上げた生地は軽くふわりとしていて、上へと重ねるとスーっと伸びるように消えていく。ゆっくりと底から持ち上げるのを繰り返した。
先程のふわりとした感じは残しながらも、生地のさらりとした感じが増してきた。
そろそろかと思いヘラを止めようと思ったところで、腕をガシッと掴まれた。
「「そろそろですー」」
アリーチェが言いそうなことを言ってみたが、二人の言葉が被り二人で大笑いした。
ひとしきり笑い終えると、型を二つ運び中に紙を敷いた。
以前、材料屋で見ていた紙は、今朝スフレチーズの型で使うと老婆に教えてもらった。それならばと、高さのある紙の方がいいと教えてくれたのはクンパさんだ。
二人にも助けられている。型よりも大きく飛び出す形で、内側の側面と底に紙を入れた。底には丸い紙をもう一枚。
「二枚入れるんです?」
「その方が型を外すときに良いらしい」
型に紙を敷き、ボールを傾け出来上がった生地をとろりと流し入れていく。流れ落ちる速さはシフォンケーキよりも早く、半分流すのに時間はかからなかった。続けてもう片方にも同じく流しいれ、長い木の針で中をぐるぐると円を描いて混ぜた。
「何してるんですー」
「あぁ、気泡を満遍なく混ぜるために中を混ぜる必要があるんだそうだ」
混ぜているとぷくりぷくりと小さな泡が浮き、混ぜているとその泡が潰れて馴染んでいった。
深めの金属盆には底に厚手の布、サルヴァが去り際に言っていたことだ。湯銭焼きはじんわりと火を入れるための技法で、窯に直接あたる部分は先に火が通り膨らんでいくからと置いていった物だ。
お湯の温度も高すぎず、湯気は上がるが湧かないぐらいにしている。
熱すぎても同じことが起こるだろうと言い残していった。
アリーチェが、一度沸かして置いておいた湯を運び、金属盆へと静かに流して入れていく。
厚手の手袋をつけ金属盆を持ち上げると、ずしりとした重さが腕にかかった。
中で揺れ動くお湯が生地に入らないように気を付けながら運ぶと、窯の扉をアリーチェが開いた。
大丈夫――大丈夫だ。
心の中で自分に言い聞かせ窯へと入れると、静かに扉を閉めた。
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お読みいただきありがとうございます。
卵を割るところから始まり、何度も失敗しながら進んできたケーキ作り。
思い通りにいかないことばかりですが、その度に教えてくれる人がいて、支えてくれる人がいました。
一人では作れなかったケーキ。
だからこそ、一緒に作り上げたい。
あと少し。
本当にあと少しです。
次回更新は6月10日㈬19時30分です。
次も読んでいただけると嬉しいです。




