第Ⅷ話 後編【クレームパティシエールと絶望】其の三
「クレームパティシエールは、しっかりと冷えてからしか使えないのだ。その店にもよるが、この店では一晩寝かせてから使うようにしているのだ」
そのまま続けたクンパに、香りが落ち着くからだと教わった。一晩置く事で、香りが全体に馴染んで均一になるんだそうだ。
「昨日炊いたパティシエールまだ残ってたのだ?」
「少しなら残ってますね」若いパティシエが、先ほど炊いた物と同じぐらいの量が入った、カスタードクリームを取り出して来た。
「少し残りすぎなのだ――明日は二十に調整しておくのだ」
「了解です」
「――あの……二十とか一ってなんですか?」
「あぁ、この店のカスタードを炊く量だよ。今さっきシェフが炊いたのが一倍の基本量。店で使うのは二十倍して炊いてるんだ」
――あの量を二十倍……とんでもない量だ。
流石は人気店だと驚きを隠せなかった。
若いパティシエが説明を終えると、わなわなと震えたクンパが声を荒げた。
「馬鹿者!なのだー。パティシエールの炊く量で、店の売れ行きまでわかってしまうのだ。つまり、バレると……税金が上がってしまうのだ……」
「エル、この事は黙っているのだ。絶対に秘密なのだ」
がっしりと肩を掴まれ、迫る顔に「はい」と答えるしか出来なかった。
「ブハッ――シェフ、子供騙しちゃダメですって」
「お前にはわかったのだ?」
「それはわかりますよ。流石に炊く量は無理がありますって。ハハハハッ」膝を叩いて笑い出してしまった。
「エル騙して悪かったのだ。難しい顔してたから、和まそうと思っただけで悪意はないのだ。でも、炊く量は秘密なのだ。その日に炊くと思っている人も多いからあんまり広めない方がいいのだ」ガハハハとクンパは笑った。
笑い終えると、クンパは小さなスプーンを二つ準備した。今炊いていた物と炊き上がっていた物。二つを少しずつ取り、手を伸ばしてきた。
「食べ比べてみるのだ。そうしたらわかるのだ」
「――ありがとうございます」
炊き上がっていた方から、先に口へと運んだ。
口に入れるとヒヤリとした冷たさが舌に伝わった。ブルンとした舌触り、少し口の中で転がすと、じわりと柔らかくなりトロリと溶けた。バニラの甘い香りがふわりと上がり、口の中へ広がった。
次に、炊き上げたばかりの方を口へと運ぶと、先ほどよりも冷たさはない。だが、まだ冷え切っていないからなのか、かなり柔らかくブルンとした食感ではなかった。
口溶けも早くすぐに溶けた。だが、甘さが少しだけ強く、バニラの香りは少しだけ弱く感じる。
――置いている時間で、こんなにも差が出るのか。
食べ比べてみると一目瞭然。クンパの言っていた通り、炊いたばかりよりも一日置いておく方が美味しい気がした。
「――全然違うんですね、驚きました」
「そうなのだ、だからクレームパティシエールは店の顔になるのだ」
「置いておいた方が甘さが控えめに感じたんですけど、ルセットが、違うんですか?」
クンパが一瞬驚いた顔をした。
「常温に近いほど甘さが強く出るのだ。逆に冷えているほど甘さは感じにくいのだ。でも、普通はそこまで甘さの違いが分からない者も多い、エル中々良い舌を持っているのだ」
少しだけ褒めてもらえた気がして嬉しかった。温度で甘さが変わる、クレームパティシエールの作り方、色々な事をクンパは教えてくれた。
「ありがとうございます。とても勉強になりました、帰って作ってみます」
「うむ、頑張るのだ。それとエル、コレをやるのだ」
お礼を言って帰ろうとするとクンパに手渡されたのはルセットだった。
「――これは?」
「今作ったパティシエールのルセットなのだ。これで作ってみるのだ」
「えっ……でも、これってお店の秘密なんじゃ――」
「――もらってあげて。この人、あなたの事相当気に入ったみたいだから」フフフと奥さんは笑った。
「違うのだ。そんなんじゃないのだ――」
図星を突かれたのか、クンパは否定もそこそこに違う方へと首を曲げた。
「ありがとうございました」もう一度頭を下げ、店を後にした。
裏口から出ると、店の前までクンパと奥さんの二人が見送ってくれた。
――菓子職人のクリームか……凄かったな。
教えてもらった物を、帰ったら試してみよう。ミーナの好きな味になるかもしれない。
振り返ると、二人は手を振ってくれていた。
怒られて当然な事をした俺を許してくれた二人には感謝しかない。
もう一度、頭を下げ帰宅を急いだ。
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
館に帰ると、頼んでいた物を受け取ったアリーチェが待っていてくれた。
「エルさまーおかえりなさいませー。もう皆さん結構前に帰られましたよー」
クンパに教えてもらうのに夢中で時間を忘れていた。アリーチェも随分と待たせてしまったようだ。
「すまない、アリーチェ。離れへは自分で運ぶから、あいつらが持って来た物をもらうよ」
「えー全然大丈夫ですー。それに型を買って来てもらったって事はーもう一回作るんじゃないんですかー?」
バレていたか、日は落ちているがまだ十八時を過ぎたぐらいだ、今から作っても二十時には終われるだろう。
「――あぁ、もう一度作ろうと思っている」
「お手伝いが、いるんじゃないですかー?」
「それは……いてくれたら助かるけど」
「それならー私がお手伝いしますー。そのかわり、お願いがあるんですー」
――アリーチェがお願いとは珍しいな。
何を言われるのかわからずに、少し身構えた。
「今度のお休みに三つ離れた街に帰省しようと思ってるんですー。おばあちゃんにお土産でミルクシフォンを作らせて欲しいんですー」
「――そんな事でいいのか?」
「はい、それが良いのですー」
「わかった、離れにある器具も厨房にある材料も使ってくれて構わない。キースには言っておくよ」
「あっ、それは大丈夫ですー。最初からキースさんには許可を得てますー」
……それなら、なぜそんなお願いをしたんだ?
読んでいただきありがとうございます。
一人で悩んでいたエルが、少しずつ周囲から知識や想いを受け取っていく。
クレームパティシエールは、実際かなり奥が深いクリームです。
炊きたてと、一晩寝かせた後では香りや甘さの感じ方も結構変わります。
「冷たいと甘さを感じにくい」は、お菓子作りだと結構重要だったりします。
シンプルなお菓子ほど誤魔化しが効かない――。
そんな話になっていたら嬉しいです。
次回更新は5月21日19時30分です。
次回もお付き合いいただけると嬉しいです。




