第Ⅷ話 後編【クレームパティシエールと絶望】其の二
裏口から厨房に入ると、何人かのパティシエと販売員が談笑していた。そのうちの一人が気づき声をかけた。
「あれシェフ買い出しに行かれたんじゃなかったんですか?」
「面白い奴に会ったから戻ってきたのだ」そういうとみんなの視線が俺の方を向いた。
「今から〝パティシエール〟を作るのだ。計量頼めるのだ?」
「了解でーす」
若いパティシエが、てきぱきと動き材料を取り出した。
「一でいいですか?」
「それぐらいでいいのだ」
それを聞くと、ルセットを覚えているのか何も見ずに計量を始めた。
――パティシエールってなんだ……それに一ってどういうことだ?
よくわからずに考えていると、販売員の一人が声をかけてきた。
いつもよくしてくれている、顔なじみの販売員。この人がおじさんの奥さんだとは知らなかった。
「この間はあの人がごめんなさいね。悪い人じゃないんだけど、高飛車なところがあって――根は可愛いんだけどね」奥さんはフフフッと笑った。
「何を話しているのだ?」
「何もないわよ。あなた――ちゃんと謝ったのよね?」
「あ……当たり前なのだ。僕様ちゃんと謝ったのだ。なぁ小僧」
「はい、おじさんはちゃんと謝ってくださいました」
「おじさんじゃないのだ。クンパなのだ。そう呼ぶことを許してやるのだ小僧」
「あなた。小僧じゃないわよね?」
急に背筋がゾワリとした。奥さんの表情は笑っているのになぜかすごく冷たく感じた。
「そっ、そういえば名前を聞いてなかったのだ、こぞぅ……坊や名前は何なのだ?」
「僕はエルネストって言います。エルって呼んでくださいクンパさん」
名前を告げると、少しだけ目が大きく開いたが、すぐに戻った。
「――そうか、お前だったのか」
小さく何かを呟いた気がしたが、良く聞こえなかった。
クンパはそのまま俺の顔をじっと見て固まった。
「えっと……何か顔についてますか?」
訪ねようと思った時だ、若いパティシエから声がかかった。
「シェフ、準備出来ましたよ」
「わかったのだ」
短く言うと、作業台の方へと振り向き、その後に続いた。
「今から作るのは、クレームパティシエール。一般的にはカスタードクリームと呼んでいるのだ」
「カスタードクリームの作り方を教えてやるのだ」
「カスタードクリームですか……でも、どうして?」
クンパがカスタードクリームの作り方を教えてくれる意味が分からない。なぜ、カスタードクリームなのか。
「エル、お前の問い。足りない物に対する僕様の答えなのだ」
「クレームパティシエールは、別名〝菓子職人のクリーム〟ともいうのだ。素朴な菓子には生クリームだけでは、深みが足りないのだ。ジャムにも相性があって、合わない事もあるのだ。でもクレームパティシエールだけでは重すぎて、シフォンケーキの軽さには合わないのだ」
「――だから、クレームパティシエールと生クリームを合わせた〝クレームディプロマット〟これが僕様の答えなのだ。これなら卵のコクと生クリームのコク、違う二つの風味が入って深みが重層的になるのだ」
あの一瞬で、足せる物を考えてくれていたのか。その知識に驚いた。
そういうとクンパは、牛乳とバニラの入った鍋に少しだけ砂糖を加えて火にかけた。残りの砂糖はボールに入った卵黄に入れると、すぐに泡だて器を持ちガシャガシャと力強く混ぜ始めた。泡立て器を握る手には、伸びた腕にいつくもの火傷のような後が見え、右腕だけがやけに太い。
――どうして鍋に砂糖を加えるんだろうか?
「牛乳には砂糖を入れて温めた方がいいのだ。牛乳を温めたときに出来る膜が、砂糖を入れると出来なくて早く温まるのだ」
「このクリームは早さが大事なのだ――。出来るだけ早く小麦粉に火を入れてやるだけで、くちどけが変わるのだ」
力強く混ぜたボールの中では、卵黄に空気が入っているのか白っぽくなっている。クンパの隣から振るった小麦粉を若いパティシエが入れると、最初はゆっくりと、粉気がなくなると手早く混ぜ合わせた。
すぐに温まり湯気の上がった鍋を持ち静かに注ぐと、鍋底にヘラをあて牛乳を綺麗にこそげ落とした。
鍋を作業台へ置くと、大きな裏漉しのような物を置いた。
流れるような作業に一つも無駄がない。プロの仕事をする姿に見惚れ動けなかった。
その傍でクンパは牛乳と卵黄を混ぜて、ボールを持ち上げ鍋へと注いでいく。ボールの中身をヘラで綺麗に攫うと、裏漉し器にはバニラのさやだけが残った。
「ここからが注意なのだ。家庭用の炉と業務用の炉では火力が違うのだ。家庭用は火元が一つに対して業務用は内と外の二重に火が出る、家庭用なら鍋の外に出ない程度の火加減にするのが重要なのだ」
そう言うと、火元へと鍋を置き火をつけた。最初は鍋を覆うほどの強い火を、火元を調節し外火は弱く内火を強くした。
「ここからなのだ――」
泡立て器を鍋に入れると、すごい速さで混ぜ始め鍋の縁を泡立て器が走る。なべ底をこそげ落とすように泡立て器の底を掌で押さえ、円を描くように押しながら鍋の中を回した。時折握ると中央の火元が強い部分を左右にこすり、全体が均一に火が入るように調整しているようだ。
「この炊き込みが重要なのだ。これが弱いと小麦粉に火が通りきらずにくちどけの悪いザラッとした舌触りになるのだ。この感じをよく見ておくのだ」
視線を手元の鍋に移すと、ポコポコと小さな泡が鍋の縁から上がり、モッタリとしてきた。そこからさらに過熱するとぼこっと上がる泡が大きくなり鍋の底から上がった。モッタリとしていたクリームが急にサラッと流れるような状態へと変わる。
「わかったのだ?これが小麦粉に火が通った証なのだ。モッタリとしていたのは小麦粉が水分を含んで重くなっただけ、そこからさらに火を入れることでサラッと流れる状態になるのだ。クレームパティシエールは、この流れるぐらいにサラッとしたところまで火を入れる、火入れのクリームなのだ。常に混ぜ続けていないとすぐに焦げてくる、均一に火を入れないとダマが出来て使い物にならない。手間のかかるクリームなのだ――だが、その分味は保証するのだ」
――そんなに奥が深いのか……。
今まで無意識に食べていたカスタードクリームがこんなにも奥深く、作るのが大変だとは思ってもみなかった。ミーナもカスタードクリームは好きだった。滑らかな舌触りが良いと言っていたが、職人の努力の結晶だったんだな。
絶えず動く手は話しながらも止まっていない。たまに俺の方を見ながら手を動かし続け、鍋の中にひとかけらのバターを入れ火を止めた。
「これで火入れは終わりなのだ。あとはバターが溶けるまで混ぜ、金属盆に入れて冷やせば出来上がりなのだ」
若いパティシエが、氷の入った金属盆と、何も入っていない空の金属盆を準備し空の方に鍋を返した。流れ落ちるクリームはサラサラと流れダマ一つない。熱気と共に、甘い香りがふわりと広がった。
炊く前は薄いクリーム色だったが、炊きあがってみると見たことのある淡い黄色のクリーム色。ある程度流れ落ちるとヘラで鍋を綺麗にさらい、金属盆に流したクリームをヘラで均した。
「冷やし込みが足りないと、すぐに劣化して腐ってくるのだ。冷やすときも出来るだけ早く冷やしてやるのだ」
流した後も底から返して混ぜ全体を冷やしていく。手のひらを逆さに向け、流したカスタードクリームに近づけ、またクリームを底から混ぜた。
「――あの、今のは何をしたんですか?」
「あぁ、これは癖みたいなものなのだ。手の甲でクリームの温度を確認していたのだ」
――そんな事までわかるのか。
クンパの目は真っ直ぐ向いている。手の甲を真ん中、外側をぐるりと動かし手を止めた。
「よし、完成なのだ」
金属盆の中で、淡い黄色のクリームが艶を帯びて揺れている。冷めると一段と甘い香りが強くなった。
――これが、菓子職人のクリーム。
読んでいただきありがとうございます。
クレームパティシエール――“菓子職人のクリーム”。
カスタードクリームって、実はかなり“職人技”なんですよね。
エルと一緒に「なるほど」と思ってもらえていたら嬉しいです。
そして、いつもお読みいただき本当にありがとうございます。
昨夜の更新でep1~ep50の総PV数が1000を超えました。
正直そこまで読んでもらえるとは思っていなかったので、素直にうれしいです。
次回の更新は5月20日19時30分です。
これからも物語にお付き合いいただけると幸いです。




