第Ⅵ話 前編【夕食と卵】其の一
離れから本邸の厨房までは、庭園を通った方が早い。手に持った二つの材料、バニラのさやと卵黄の入った器を落とさないように急いで抜ける。
外に出ると日は傾き、沈む夕日が美しく、輝いて見えた。庭園を歩いていると、風に乗って街の音が聞こえてくる。少しだけの喧騒と、笑い声。一人きりの厨房は少しだけ寂しさを感じていた。
――ミーナがいたら、騒がしかったんだろうな。
庭園の真ん中で足を止め、街の音に耳を傾けた。
張っていた糸が少しだけ、ほんの少し緩んでいく、そんな気がした。傾けた街の音は、風に流され聞こえなくなった。
庭園を抜け、厨房の裏口から中に入った。中に入るとキースが料理人と話をしているところだった。
「エルネスト様、他にご要望があると伺ったのですが」
料理人が俺に気付き、話しかけてきた。
「これを使って、何か作って欲しいんだ」
手に持っていた器を渡した。蓋を取ると中には卵黄がかなり多めに入っていた。
「こちらを使ってですか……」
料理人は顎に手を当て、少しだけ迷っているそぶりを見せた。少し考え、料理人は口を開けた。
「少し卵を足せば、オムレツが作れますので、そちらでもよろしいですか?」
――よし、予想通りだ。
「それで大丈夫。卵を割るところを見せてもらえるかな」
「えぇ、構いませんが……」
「――それと料理を作るところを見ていたいんだけど、いいかな」
料理人が驚いた表情を浮かべ、笑顔で答えた。
「はい、ぜひ見ていてください。美味しいものをお作りいたします」
そう言うと、料理人は材料庫へと向かった。厨房を見回すと、いつのまにかキースの姿は厨房にはいなかった。戻ってきた料理人の手には二つの卵。それを台へと置き、小さなボールを手に取った。
ボールの側面に、卵を当てるとカンッと高い音が響く。片手で持っていた卵をボールの上へと運ぶと、手を動かしたと思ったその時、卵がトロリとボールへと落ちた。
「えっ……」
俺が驚いた声を上げると、料理人の手が止まり、ゆっくりと顔を上げこちらを見てきた。
「何かございましたか?」
慌てたように料理人に尋ねられ、驚いただけだと答えた。
「――卵って片手で割れるんだな。驚いたよ」
「慣れもありますが、コツがあるんですよ」と嬉しそうに口にした。
「よければ……教えてもらえないかな?」
「構いませんよ」と笑顔を浮かべた。
「では、もう一度――」
また卵を片手に持ちボールの側面へとコツンと当てた。
「ここからコツがございます。握っている手を見ていただけますか?」
目線を、卵を持つ手に向けた。
「卵を開くように親指と人差し指で卵の上を持ち、小指でもう片方を動かないように固定します。そのあとは握っている手のひらを開いていくと――」
卵の殻が真ん中から半分に割れ、中から卵がトロリとボールへと落ちた。
「そうやれば、綺麗に割れるんだな。俺にも出来るかな?」
料理人が何か言い淀むような表情を浮かべた。
「……難しいかと思います。失礼ながらエルネスト様の手では卵を片手で握り込むには、小さ過ぎるかと――」
自分の手を見ると卵を握るには少し頼りない。
――片手で卵を握るのは、まだ無理そうだ。
「そうか、それが出来れば、殻が入らずに卵を早く割れると思ったんだけど……」小さく息を吐いた。
「――なるほど、そういうことでしたか。それでしたら良い方法が御座いますよ」と言い、料理人は材料庫へと向かうと、卵をいくつか持って戻ってきた。
「殻を入れずに割るにもコツがあります。卵を割る時は、机の角や器の縁でヒビを入れてはいけません」
料理人の話が一段深くなった。
「……角で割ったらダメなのか」――あれだけやったのにな。
さっきまで卵を割るのは、器の縁に当ててヒビを入れていた。その方が、真っ直ぐにヒビが入り割りやすかったからだ。
「はい。机の角などや器の縁では、ヒビが細かく入ってしまいます。ですので、机の面か、今のようにボールの側面の尖っていない部分に当てるのが基本なのです。このように――」
卵を二つ取り、ボールの側面と縁にそれぞれ当てて台に置いた。置かれた卵を見ると差がよくわかる。
縁に当てた卵は、真ん中にまっすぐなヒビが入っている。その割れ目には、細かい殻がたくさん付き置いただけでぽろりと外れた。側面に当てた卵を見ると、ヒビが大きく入るだけで細かい殻は外れていなかった。
「なるほど、そうすれば卵黄を破らずに卵が割れそうだ」
卵から料理人へと視線を移すと、料理人はまた考えているそぶりを見せ口を開けた。
「――もしかしてなのですが、卵黄と卵白を分けてお使いになりたいのでしょうか?」
そうだよと短く答えると、「それでしたら良い方法がございます」と料理人は言い、卵を手に取った。その手で今度は台に卵をコツンと当てた。
今のところはさっきまでと同じだ。何が違うのかと、その手を見ていると、卵の上と下に両手の指を当て、ヒビの入った割れ目を上へと向けた。
ヒビの入っている所から指を下に動かすと、卵がまたトロリと流れ出てくる。
だが、今回は今までと少し違う。落ちてきているのは卵白だけで、卵黄は殻の中に残ったままだ。
そのまま、殻を左右に分けると卵白はボールへと落ち、卵黄だけが、片方の殻に残った。
「こんなやり方があったのか、凄いな――」
今までの割り方を思い出すと、全て下へと向けて割っていた。だが、これは逆だ。上に向けて割る、そんなこと思いつきもしなかったと、素直に驚きを口にした。
「――この割り方を、料理人は普通しません。このように割るのは、分けて料理に使う場合と、もう一つ」
「お菓子を作る時に、よくやる割り方なのです」
「ケーキを作る時の割り方か……」
詳しく聞くと、お菓子作りでは卵を分けて使う事の方が多いそうだ。卵――全卵として使うことも多いが、そこに卵黄を足したり、逆に卵白を足したりする場合もあり、別々に量る為の方法だと教えてもらった。
「――詳しいんだな、料理の事以外も……」
「喜んでいただきたいですからね」
料理人は、夕食の仕込みを進めながら答えた。
「料理人にとって、食べていただけるように工夫を凝らすのはもちろんですが……」
少し言葉が詰まりながら続ける。
「何より食べていただいた方の、笑顔が見たくて作っている事の方が大きいですね」
料理を作る手は止まらずに動き続けている。野菜を切り、鍋で煮ていく。鶏肉に塩と胡椒、少しの香草を付け冷蔵棚へと入れた。
「今日は嬉しい日です。エルネスト様が夕食に何か追加を頼まれたのは初めてでしたからね」
「料理人として腕が鳴る思いです」
料理人は手を止めこちらへと向くと笑顔を浮かべた。
「……それは」
今日は、卵の割り方を見れるかと思ってここにきた。割り損ねた卵を渡せば、オムレツになるだろうとも思っていた。
向けられた笑顔が少し辛かった。
「――理由は関係ありません。喜んでいただけるなら、それだけでいいのです」
料理人の言葉は、いいんですよと言われた様で心が軽くなった。離れにこもって何かしていたことは、多分館の家人たちには知れ渡っているはずだ。卵を持ってきた事で、おおよその見当もつくのだろう。
――助けてもらうってこういうことなのかな。
「――ありがとう」
俺は短く礼を伝えた。料理人は嬉しそうに仕込みへと戻った。
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
料理人は無駄のない手つきで、次々に仕込みを終わらせていく。
蕪と玉ねぎを薄切りにして、少し塩を振って置いておく。冷蔵棚から取り出した鶏肉が、表面にうっすらと水分を浮かべている。にじみ出ている水分を拭き取り、また戻した。
――台が汚れていない、作業が丁寧だな。
離れでの事を思い出し、見比べると差は歴然だった。汚れた台。散らかった器具、そのままにしていた材料。
だが、目の前ではこまめに台を拭き、使った器具はそのまま洗い場へ。出した材料は必要なものだけを取り出し、使うそばから片付けていっている。
動きに無駄がなく、作業は静かで早かった。その動きを目で追うのが楽しい。下味をつけるのも、野菜を切るのを見ることもすべてが新鮮だった。
ふと、手に持っていたもう一つの事を思い出し台に置いた。
買ってきたバニラだが、一度使った物の使い方まではルセットに書いてなかった。その一本を指で持ち上げ、くるくると回していると「――それは、もしかしてバニラですか?」料理人から声がかかる。
顔を上げると、仕込みは全て終わっているようだった。仕込んだ物が料理ごとに分けられ、並んでいる。
「あぁ……使い方がわからないんだ。新しい物は書いていたんだけど、一度使った物しか手に入らなくて」
「砕いて砂糖に混ぜたりして使えるらしいから買ってきたんだ。でも、刻もうと思っても、小さな欠片ぐらいにしかならないんだ――」
スッと伸びた手がバニラを一つ掴み持ち上げた。カラカラに乾燥したバニラを観察して、左手を顎にかざした。
「……難しいですね。料理で刻むものとは違い、これは硬すぎますね。――濾して使うにも、バニラは溶けませんからね」
眉間に皺を寄せ考えてくれたが、難しいようだ。何か分かればと思い持ってきたんだが、厳しそうだな。
「――もしかしたら、あれが使えるかもしれませんね」
「あれ?」
俺は首を傾げた。
今回もお読みいただきありがとうございます。
第Ⅵ話前編は、エルが「卵」と向き合う回になりました。
エルも少しずつですが、料理だけじゃなく人との関わり方も学び始めています。
こういう積み重ねを書いていくのが楽しい回でした。
次回は夕食パート本番です。
飯テロ回になる予定なので、お腹が空いている時はご注意ください。
次回の更新は明日の19時30分です。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




