第Ⅴ話 後編【材料屋とシフォンケーキ】其の三
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メレンゲをなんとか作ることが出来た。次の作業は――ルセットへと目を落とす。
メレンゲの一部を粉を加えた、卵黄に入れてすり混ぜる。
全体が均一な状態になれば、残りのメレンゲに入れ、切るようにさっくりと混ぜ合わせる。
――やっぱりわからない。
ルセットに書かれている、“切る”とはどういう事だ。分からないが、とりあえずメレンゲの一部を持ち上げた。
持ち上げると、ツヤやかな部分は表面だけで、ボソっとメレンゲが切れた。置いていただけで、切れた部分がボソボソとしている。
まだ少ししか経っていない。それなのに、出来上がった時とは、状態が変わっていた。
――上手くいったと思ったのに…………くそっ。
卵も使い切り、もう一度作り直すことは出来ない。
仕方なく、持ち上げた一部を卵黄に入れ、均一になるよう慎重に合わせていく。メレンゲが少しずつ混ざり、生地が白っぽくなってきた。
サラサラと流れ落ちていた生地が、メレンゲを混ぜると少しだけゆっくり落ちるぐらいになった。
ボソボソなメレンゲも生地に混ざると、ほとんどわからない。残りのメレンゲを加え、分からないが切るように混ぜた。
切るようにと気にしながら混ぜても、やはり意味がわからず、手が止まった。
ボールを回しながら――縦に動かす……。
何かが頭に引っ掛かった。どこかで見たことがある気がする……。必死に頭の中にある記憶をさかのぼった。
「見てみてエル君、ああやって混ぜるんだね」
ミーナが好きなケーキ屋……。
思い出したのは、祝願祭が始まる少し前、ミーナと行ったクンパッパでのことだ。
ガラス越しに見える厨房では、パティシエが生地を作っているのが見えた。あの時も早く店を出たくて、ミーナの声に反応はしても、ちゃんと見ていなかった。
「これで合ってるのか……」
確かこうやって――。ボールを回しながら、底から生地を混ぜていく。
すると、生地が混ざり始め、ボソボソだったメレンゲが生地へと馴染んでいく。くすんでいた生地にも、少しずつ艶が出てきた。全体を混ぜ終わり、ヘラを持ち上げると、生地はスルスルとうねるように落ちていく。
「――ここまで出来た。俺一人で、ここまで……」
帰ってきてから一人で厨房へと籠り、必死で手を動かした。卵を割るだけなのに、落ちた卵はぐしゃりと飛び散り、いくつも失敗して無駄にしてしまった。メレンゲはボソボソ、牛乳は吹いてあふれた。誰もいない厨房で、あたふたしながらルセットと向き合った。ミーナに届けたいそれだけで――。
一人でここまで出来たことが嬉しくて、体が震えた。
あとは型に入れて焼くだけ。ルセットにもそう書いてある。
型を横に置き、ボールを持ち上げた。
呼吸を整え、真ん中にある突起へ当たらないように注意して、ゆっくりとボールを傾けた。
トロトロと流れる生地は、リボン状に型へと流れ落ちていく。
型の半分よりも少し上まで生地が入り、傾けていたボールを片手に持ち替えた。ボールに残った生地をヘラで流すと、生地は型の七分目ほどになった。
ルセットに載っている作業はあと三つ。
型を少し持ち上げて、数度台に当てて落とし、生地をならす。窯の中央に入れて、百七十度で三十分焼く。焼きあがったら衝撃を与えないよう静かに出し、逆さまに置き粗熱を取る。
見たところ、残り工程は、そんなに難しそうではない。
型を持ち上げて台へと落とす。すると幾度か落とした後に底から生地が漏れ、台へと落ちてきた。
もう一度、持ち上げて底を見ると突起が付いた底の隙間から、わずかに生地が出てきている。底に着いた生地を布巾で拭くと、わずかに底が斜めに上がり隙間から生地が流れてきている。
――そうか。底はくっついていない、少し押すだけで動くのか。
どうして外れるように出来ているのかは、わからない。取り外し出来ないと、困る事でもあるのだろうか。
――考えてもわからない……そのうちわかるだろ。
気持ちを切り替えて型を窯へと運んだ。
窯には、鉄の扉と木製の取っ手がついている。扉の横を見ると、丸い温度計。盤面には零から二百五十まで数値が刻まれ、針は百七十を指していた。
取っ手に手をかけ扉を横に開くと――。
「――っつ!」
窯の中から、むわりと浴びたこともない熱気が体を抜け、声を上げた。
かなり熱い、窯の中へと型を入れ静かに扉を閉めた。
――ここから三十分。
時計を見ると、時間は四時を過ぎたばかり。館へ帰ってきたのは午後の二時前、材料を量り生地を作るだけで二時間もかかった。早いのか遅いのかもわからない。
「パティシエって大変なんだな……」
クンパッパの主人には、失礼なことをしてしまった。
もっと、簡単ですぐに出来ると思っていた。
――いつか、謝りに行こう。作ったケーキでミーナが元気になれば、一緒に……。
不安は拭えない、出来るかもわからない。でも、いつか必ず、そう心に誓った。
台へと戻ると散らかった器具が山と積まれている。焼けるまでの間に使った器具を洗い場へと運び、洗って干した。焼けるまではまだ時間がある。ルセットを手に取り、時間が経つのを待った。
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時計へと目を向けると、窯を入れてからちょうど三十分。窯へと戻り、取っ手に手をかけ手が止まった。
「熱いよな……」
窯のそばにかかっていた、厚手の手袋をはめ、もう一度取っ手に手をかけた。
軽く深呼吸し、少しだけ窯を開ける。すると、もわりと湯気が扉の上から抜けていくのが見えた。
――やっぱりだ。少しだけ開けるとそこまで熱くない。
さっきはいきなり、扉を開け切ったから熱かったんだとわかった。
扉を開けるとすぐに湯気がおさまった。もう湯気が上がっていないことを確認してから、扉を開いていく。
窯の中で、ふっくらと膨らんだシフォンケーキ。
扉を開けると、中から甘い香りがする。あんなにもボソボソだったメレンゲが、驚くほどに膨らんでいる。
全体が茶色く焼け、表面がボコボコと膨らみ、割れた部分が少しだけ白っぽい。
――これでいいのか……?
恐る恐る窯に手を入れると、上と下からの熱が強くて痛い。指先が焼き上がったシフォンケーキに触れると、触れたところがシュワりとした弾力で、少しだけ沈んだ。左右からそっと持ち上げ、急いで窯から出した。
焼き上がったシフォンケーキは、型よりも上に膨らんでいる。見たところ失敗している様子はなさそうだ。
持っていると、少しずつ手が熱くなり始めた。急いで移動し、台へと静かに置いた。
手袋の中がこもった熱で、すごく熱い。手袋を外すと手は真っ赤になっていた。
「熱すぎる、どうやってこんなの持つんだ」
真っ赤になった手を振り、息を吹きかけたが、まだ熱い。
台に手をつくと、ひんやりとした台の冷たさが、手に残った熱を吸い取っていく。
「はぁー……」
大きく息を吐いた。
あんなに熱いとは思わなかった。ケーキを作るパティシエも凄いが、料理人も凄いんだな。
【美食のうさぎ亭】で食べた、あの揚げパンは本当に美味しかった。火傷するんじゃないかと思うほど、熱が口の中で暴れまわった。でも、揚げていたティアのお父さんは、そんな素ぶりは見せていなかった。
いつも、熱々の料理を出してくれる館の料理人たち。出てきたお皿を持つとじんわりと熱かった覚えがある。運んできた料理人も、いつもと同じ笑顔で運んでくれていた。
記憶にある様々な料理やケーキを思い出すと、何も考えず食べていた自分が少し悲しくなってくる。
扉を二回叩く音が聞こえた。顔を上げ返事をすると、扉が開いた。
「エルネスト様。本日の夕食ですが【鶏もも肉のロースト、季節のサラダ、カブのポタージュ】となっております。他にご希望はございますか?」
入ってきたキースが、いつものように尋ねてきた。
いつもなら、それでと答え他に希望を言ったことはない。
だが、台の上に広がった材料の中に、あるものを見つけ良いことを思いついた。
「夕食に食べたいものがあるんだけど、説明が難しいから後で行くと伝えてもらえるかな」
キースが、一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「かしこまりました」
それだけ言い残して、キースは去っていった。
焼けたシフォンケーキを見ると型よりも下に沈んでいる。ルセットには逆さまに置いて冷ます、と書かれていたことを思い出し、焦って逆さまに置きなおした。
――多分これでいいはずだ。
シフォンケーキが冷めるまでの間、思いついたことをするために、台に広がった材料を急いで片づけていく。
砂糖の袋の口を折り、小麦の入った袋を縛った。牛乳は冷蔵棚へと入れ、油の入った瓶にはしっかりと蓋をした。
――残っていた材料はこれだけだ。残りは……。
台に置いていた、バニラのさやと卵黄の入った器を手に取ると離れの厨房を出た。そのまま、本邸の一階にある厨房へと足を向けた。
第Ⅴ話後編其の三をお読みいただきありがとうございます。
今回はエルが一人でシフォンケーキを焼き上げる回でした。失敗を繰り返しながらも、少しずつ形になっていく過程を書けたかなと思っています。
このケーキがどうなるのか――ぜひ楽しみにしていただけると嬉しいです。
次回更新は明日19時30分です。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。




