第Ⅴ話 前編【材料屋とシフォンケーキ】其の一
ソウと別れた俺は、言われた通り港の奥にある店を目指していた。
日が昇りだすと港は海鳥が鳴き声を上げ、祭りとは違った日常の喧騒が広がっている。昨夜から漁に出ていた船は戻り、捕れた魚を下ろしている。港は一段、磯臭い匂いが強さを増した。捕れた魚はすぐに市場に運ばれて並んでいく。それを買い付けに来た人たちが港へと下りてきているのとすれ違った。
港は三日月型の湾の中央にある。左右を川に挟まれたこの街は、教会を境にして北と南から道が伸びている。その二つがぶつかるこの場所は、やけに広い。
「もう少し、場所を聞いてきたらよかった……」
――いや、あの男は、そういう肝心なことは教えなかった……わざとかもしれない。
少しだけ短く息を吐き、俺は詳しい場所を聞かずに、あの場を離れたことを後悔した。
港へと下りてくる人波にのまれ思うように抜けることが出来ない。祝願祭の朝、ここに来るのは初めてで、こんなにも人がいることを知らなかった。
人の切れ間に一つの路地を見つけ、そこへ向け人波を抜けた。
「港の奥――こっちか?」
路地へ入ると、人の声が遠ざかり自分の足音が響いた。
朝日は昇ったが、裏の路地はひんやりしていて薄暗い。この辺りはあまり人が来ない場所だ。
街の路地はほとんど知っている。だが、この路地沿いにそんな店を見たことがない。
この道も南区へ抜ける路地の一つで、軽い上り坂になっているはずだ。
路地の先を見ると、少しだけ傾斜になった道が続いている。少し進んだ路地の中央あたりに、一つだけ街灯のついた店があった。
【材料屋】看板には薄れた文字でそう書かれている。扉の脇にかかった街灯がチチチチッと点滅している。
見るからに怪しげな店の佇まい、扉には金具はなく呼び鈴もない。扉の下、その脇に巻かれて置かれた鎖。
「……開いているのか?」
扉に手をかけ引くが、扉は動かない。押し戸かと押すがやはり扉は動かない。
「どうやって開けるんだ――閉まってるんじゃ」
「――横にずらすんだよ」
扉の前で悩んでいると、中から声が聞こえた。
――横?
扉へ手をかけ横へと力を入れた。すると扉は横へと移動し、扉が開いた。
「驚いた……こんな扉見たことない」
横に動く扉なんて、初めて見た。今まで見てきたのは、内か外に開くものだけだった。
「変わってるな――」
「入るんなら早く入んな」
中から聞こえる声が、少し大きくなった。
路地よりも薄暗い店内。中はよく見えないまま、恐る恐る足を踏み入れ扉を閉めた。
中に入ると乾いた粉の匂いが、わずかに漂っていた。
「――いらっしゃい」
声と共に店内の灯りが強くなった。
声のした方へと首を動かすと、老婆が灯りを店内へと移していた。
「おや、随分と若いお客さんだね。あんた――いや……何でもないよ」
「それで、今日は何を買いに来たんだい」
老婆は何かを言おうとして躊躇ったように聞こえた。
だが、そんなことを気にしている時間は俺にはなかった。
「ケーキを作る材料をください」
「ケーキ?なんのだい?」
「いえ、だからケーキの材料をください」
聞き返されている意味が分からなくて、同じことを返した。
「あんたね、ケーキって言ってもたくさん種類があるだろうに、〝何を〟作りたいんだい」
老婆があきれた顔で返事をした。
――何を?何を作ればいいんだ……。
ケーキ……甘い物――軽くて、少し甘い。
「何を作ればいいかは、わかりません」
「でも、なにか。なにか作れそうなものの材料をください。――軽くて……ほんのり甘くて、えっと……」
問われた言葉の、答えになるものは出てこなかった。
それが通じたのかはわからないが、老婆は「……はいよ」と短く言い奥へと下がった。
店内の奥で、何かを詰めている音が聞こえた。
灯りのともった店内には袋に入った小麦、数種類の砂糖など色んなものが置いてある。
店内の一部は器具で埋め尽くされ、大きさの違う型や器具が所狭しと並んでいた。
「――こんだけあれば作れるだろうよ」
奥から戻ってきた老婆の手には、大きな紙の袋。袋を受け取るとずしりとした重みが腕にかかった。
袋の中には、砂糖と小麦が二種類。それと卵が二十個。さらにいくつかの器具と大きさの違う型が二つ入っていた。
袋の中身を見下ろしながら、足が少しだけ止まった。
「何を作りたいのかは知らないけど。基本の材料はこの三種類さね」
「あとこれも受け取んな」
閉じて渡されたのは〝ルセット〟と書かれた紙。
「えっと……これは?ルセット?」
聞きなれない言葉だった。
「ルセットってのは、料理人の用語さね。――要はレシピだよ」
開くとそこには、シフォンケーキと書かれていた。
材料と作り方が、細かく並んでいる。
「足りない物は、そこいらの市場で買えるだろうさ。残りは自分で探しな」
「――ありがとうございます」
両手に抱えた、荷物で扉を開けた。
「――足りない物や探してるものがあったらまたおいで、少しぐらいなら教えてやるよ」
「はい」
後ろからかかった老婆の声に返事をして店を後にした。
「作り方」を知らなくても、「作りたい」という気持ちは残る。
今回はそんな始まりの一歩の回でした。
まだ何も出来ていないエルですが、
次は自分の手で形にしようとします。
その一歩を、見届けてもらえたら嬉しいです。
次回の更新は明日19時30分です。
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また次回、引き続きお付き合いください。




