47話
梅村さんから返ってきた短いメールには、日時と店名しかなかった。
指定されたその時間に、俺はその店が入っている古いビルの前に立っていた。
二階の案内板には、小さな店名と、その下に「個室あり」の四文字。
周りの目を避けるための場所なのか、こちらを逃がさないための場所なのか、どちらにも読めるのが嫌だった。
レンズの端に映る星さんが、俺の顔をのぞき込んでから案内板を見上げる。
「個室ありの喫茶店に男女で待ち合わせって、いかにもだよね」
そんな軽口が出てくるくらいには、星さんの調子も戻ってきたらしい。
「いかにもって、何がですか」
「別れ話とか、不倫の密会とか。
きっと週刊誌に撮られたら、『スクープ!個室で二人きり密会』って見出しが躍るね」
「ここはただの喫茶店ですよ? 密会もなにもないですよ」
「いやいや、わたしが記者なら喫茶店っていうのをぼかして『個室で密会』ってだけ書くよ? ほら、個室って響きが怪しいよね、密会ってのも嘘ではないし」
星さんは画面の中で、どこからか持ってきたホワイトボードを指し示す。
架空の見出しを並べながら、なぜか記事の内容を解説している。
これから重たい話が待っているはずなのに、その前にやることがそれか。
あきれて、思わず首を振った。
「どこでそんなくだらないこと覚えてきたんですか」
「嘘じゃないけど真実でもないっていう微妙なラインなのがポイントだよ」
言い返そうとしたところで、横に人の気配がした。
振り向くと、少し離れたところに梅村さんが立っていた。
いつからそこにいたのか、こちらを静かに見ている。
「お待たせしました。では行きましょうか」
紺色のジャケットの肩線はまっすぐで、白いブラウスの襟元にも乱れがない。
短く言葉を置いて、こちらの返事を待たずに階段へ視線を向ける。
この人が桜舞メイコなのだと、頭では分かっている。
けれど、配信画面の中で笑いを取りにいく桜舞メイコと、目の前で一分の隙もなく立つ女性が、どうしても同じ人に見えない。
知っているはずの事実が、目の前の事実とうまく重ならなかった。
店へと続く階段は狭く、先に下りるヒールの音だけが、壁に当たって小さく響いた。
下りていくにつれて、空気に混じるコーヒーの匂いが少しずつ濃くなっていく。
客は少なく、店内は静かだった。
棚に並ぶ豆の袋とカップ、木の匂いに混じるコーヒーの香りが、外からの印象よりもずっとまともな店に見せていた。
「普通の喫茶店だね。もっといかがわしい感じかと思ったのに」
俺はツッコむ気になれず、無言で首を振った。
店員に案内されて奥の廊下を進み、扉付きの小さな個室へ通された。
四人掛けのテーブルを挟んで向かい合って座る。
空いた椅子の一つには、グラスの中の星さんが先に腰を下ろしていた。
そこへ店員が、二人分の水とメニューを置いていく。
ホットコーヒーを二つ頼むと、店員は小さく頭を下げて個室を出ていった。
扉が静かに閉まる。
梅村さんは水には触れず、テーブルの中央に両手をそろえた。
「先に確認させてください」
その声で、部屋の空気が一段重くなった。
軽口を挟む余地は、そこで消えた。
「八十神社長と会ったそうですね。どこまで聞きましたか」
「だいたいのことは理解できていると思います」
ステラプロジェクトのこと。
ステラだけで、星屑みさきとして完璧に振る舞えてしまうこと。
それから、梅村さんが桜舞メイコだということ。
そこまで口に出せば十分だった。
「なるほど。一通りのことは知ったということですね」
俺はうなずいた。
目の前にいる女性には、妙な圧があった。
画面の中で星さんの隣に立っていた桜舞メイコとは印象が違い過ぎて、すぐには結びつかない。
けれど、彼女からの否定はなかった。
それはつまり、俺が聞いた話が間違っていないということだった。
「おそらく、貴女のことも、理解できたつもりです」
「何が理解できたんですか?」
声の端が、少しだけ硬くなった。
言い方に引っかかったのか、彼女の眉がかすかに動いた。
すぐに元の表情へ戻ったが、視線だけは俺から外れなかった。
「八十神さんから聞いて、ようやく分かりました」
ここから先は推測になると前置きして、俺は言葉を続けた。
「あなたは、あの日の復帰ライブを知らされていなかった。
復帰には反対していたのに、ステージの上で、他のメンバーやファンと同じタイミングで知らされた」
そこまでは、八十神さんから聞いた事実だ。
「ステラプロジェクトに長く関わってきた自分が、事前に知らされる側ではなく、ステージ上で驚かされる側に置かれた。
そう受け取ってもおかしくなかったと思います」
言葉にしてから、少しだけ間を置く。
「しかも、戻ってきた星屑みさきが、みさきさん本人なのか、ステラなのか分からない。
その誰か分からない相手に『おかえり』と歓迎の言葉を言わされた」
「……」
「そして八月の障害で、みさきさん本人の信号がないあいだも星屑みさきは動いていたと知った。
そこであなたの中では、全部が繋がってしまったんじゃないですか」
最後の言葉だけは、すぐには口にできなかった。
俺は言葉を選ぼうとして、すぐに無駄だと分かった。
どう言葉を選んでも、きっと認めたくないものに触れる。
一度だけ息を整える。
遠回りをしても、行き着くところは同じだ。
「今の星屑みさきの中に、もうみさきさん本人はいないんだって」
梅村さんの指先が、テーブルの上で一度だけほどけた。
水のグラスへ伸びかけて、触れる前に戻る。
こちらがそこまで言うとは、思っていなかったのかもしれない。
あるいは、言われてしまったことで、もう次へ進むしかないと判断したのか。
長い沈黙が落ちた。
空調の低い音と、隣の個室で誰かが椅子を引く気配だけが、こちらの部屋へ薄く届く。
やがて扉が控えめにノックされ、さっき注文したホットコーヒーを店員が二つ運んできた。
俺たちは誰も言葉を挟めないまま、白い湯気の立つカップがテーブルに置かれていくのを見ていた。
店員が出ていき、扉が閉まる。
その音を合図にしたように、沈黙が終わった。
「そのとおりです。では、藤宮さんは私に賛同してもらえるということでしょうか」
俺は湯気の立つカップに軽く口をつけ、急かされた返事をそのまま飲み下すようにしてから、ソーサーへ戻した。
「梅村さんは何を要求されるんですか。星さんたちに何をしてほしいんですか」
向かいで、ほどけかけた指先がもう一度そろう。
迷いを、そこへ押し込めるように。
「星屑みさきの配信活動停止。病院の管理外での稼働停止。それから、外部端末の回収です」
「でも、それを俺に言っても、決める権限はないですよ」
「分かっています。だから、一緒に要求してほしいんです」
「一緒に、ですか?」
「あなたは外部の人間です。
今の星屑みさきを、会社の事情でも、プロジェクトの理屈でもなく見ている。
それでいて星屑みさきに最も近い場所にいる。
そのあなたが言うのなら、八十神社長も無視はできないはずです」
「ちょっと待って」
それまで黙っていた星さんの声が、横から割り込んだ。
「わたしのことを、わたし抜きで決めないで」
止めるべきか、一瞬迷った。
その迷いが形になるより早く、星さんの声が個室の空気を変えていた。
返そうとしていた言葉が、喉の手前で止まる。
俺がポケットから取り出したスマホをテーブルの中央へ置くと、そこに映った星さんの視線が、テーブルの向こうへ向く。
向かいの席の女性は、その視線を受け止めようとしない。
テーブルにスマホが置かれたことは、分かっているはずだった。
画面の光も、そこにいる星さんも、視界の端には入っている。
それでも、視線は俺に向いたままだった。
「ちょっと、さなえちゃん」
その呼び方で、向かいの表情がわずかに変わった。
星さんは一度だけ息を吸うように口を開き、いつもの調子で押し切る代わりに、少しだけ声を落とした。
「何も言わずに復帰を決めちゃったことは、ごめん」
「……」
「ステージの上で、いきなり驚かせたことも。喜んでくれるって、勝手に思ってた」
スマホの画面の中で、星さんは膝の上に置いた手を握っていた。
いつもの照れ隠しはなかった。
「でも、違ったんだよね。さなえちゃんを追い込んでた。ごめん」
そこで初めて、彼女の視線が俺から外れた。
テーブルの中央に置かれたスマホへ、一瞬だけ動く。
「本当に、ごめんなさい」
小さな画面の中で、神妙に頭を下げた。
それでも、梅村さんは答えなかった。
拒んでいる、というより、手を伸ばせないように見えた。
さなえちゃん、と呼ばれた時。
復帰ライブのことを謝られた時。
ほんの一瞬だけ、沈黙の質が変わった。
拒絶が本当に揺るがないものなら、あの一瞬もなかったはずだった。
俺はそこで、八十神さんとの応接室で出た言葉を思い出していた。
外から見れば、人間とまったく同じように振る舞う存在。
笑い、怒り、痛みを訴え、こちらの言葉にも応じる。
けれど、その内側に意識があるかどうかは、誰にも確かめられない。
あの時は、ステラに意識があるのか、という話だった。
しかし今は、そこだけを切り取っても意味がない気がした。
梅村さんは星さんを、人のように見えるAIとして疑っている。
星さんは梅村が、自分を心のある一人の存在として扱われていないことに反発している。
そして俺は、そのどちらにも完全には乗れないまま、二人のあいだに座っている。
いきなり結論を言っても伝わらない気がして、俺はまず、あの時の話の入口だけをなぞった。
「外からは人間と同じように見える。
笑うし、怒るし、痛いとも言う。
こちらの言葉にも返事をする。
でも、その内側に本当に意識があるかどうかは、外からは確かめられない」
梅村さんは、そこで初めて俺の言葉を遮った。
「それは、ステラを人間と同じように扱えという話ですか」
「違います。少なくとも、そこまでは言えません」
俺は一度、言葉を選び直した。
「ただ、ステラには意識があると証明できない、という話だけでは終わらないと思っています」
「……と、言うと?」
「それを言い出したら、たぶん人間相手でも同じなんです」
「……」
「俺は、梅村さんに心があることを証明できません。
星さんに心があることも証明できない。
そして貴女も、俺に心があることを、完全には証明できない」
スマホの中で、星さんがこちらを見た。
この言い方が彼女にとって優しいのかは分からない。
それでも、ここを避けてしまえば、もっと不誠実になる気がした。
「それでも俺たちは、相手の言葉や表情を見て、これまでの関係を思い出して、相手を人として扱っています。
証明できたから、そうしているわけじゃない」
梅村さんは黙って聞いていた。
反論を探しているというより、俺の言葉がどこへ向かうのかを、最後まで見届けているようだった。
「星さんが、みさきさん本人そのものだと言いたいわけじゃありません。
そこは、俺にも分かりません」
正面を向いた星さんの表情が、僅かにこわばる。
味方の言葉にしては頼りなく、敵の言葉にしては近過ぎる。
そんな半端な場所に、俺は立っている。
「でも、完全に別物だと言い切ることもできないはずです。
病室のみさきさんが入力した言葉を、ステラが受け取って、星屑みさきとして返していた。
脳の信号を読んで、ステラが言葉にしていた。
復帰してからも、声も、口調も、記憶も、ファンとの関係も続いている」
どこまでが本人で、どこからがステラなのか。
八十神さんですら、そこにきれいな線は引けなかった。
切り替わった瞬間があるなら、まだ分かりやすかった。
ここから先は機械で、ここまでが本人だと、誰かが線を引けたなら。
「線が引けないのに、今は全部ステラだから本人はもういない、と断定するのも違うんじゃないですか」
梅村さんの指が、そろえたままの両手の上でわずかに動いた。
反論は、すぐには返ってこなかった。




