46話
ビルのガラスに、午後の空が薄く映っていた。
自動ドアを抜けて外に出ても、俺はすぐには駅へ向かわなかった。
そのまま近くの公園まで歩き、ベンチに腰を下ろす。
しばらく、何をするでもなくぼんやりしていた。
やがて鞄からスマートグラスを取り出し、電源を入れる。
「……おかえり」
表情は暗いまま、声も小さかった。
いつもなら一言余計なことを足してくるはずなのに、彼女はそれ以上何も言わなかった。
「ただいま戻りました」
わざと、少し明るく言った。
彼女は小さくうなずいただけだった。
いつもの調子に戻すきっかけを、どちらも掴めないまま少し間が空いた。
「……おじさんと話してきたんだよね。何か言ってた?」
やはり、気にはなっていたらしい。
けれど彼女の顔はこっちを向いているのに、視線は合わない。
目だけを少し横に逃がしたまま、俺の返事を待っていた。
「そうですね。いろいろ聞けて、分かったことは多いです」
答えながら、俺はベンチの背もたれに軽く肩を預けた。
成果はあった。
八十神さんは、こちらが思っていたよりずっと多くを話してくれた。
でも、分かったのは、答えを出すことが思った以上に難しいということだけだった。
八十神さんと話して分かったのは、星さんが「みさき本人」か「ステラ」かの二択では片づかない存在だということだった。
みさき本人の意思が確認できていた時期にも、ステラという人格は確かにそこにいた。
だったら星さんの中には、みさきさんとステラが同時に存在していて、その境目だけが流動的に揺れているのかもしれない。
俺は、彼女がステラでもみさきさんでも、星さんは星さんとして受け入れるつもりだった。
けれど、その奥にいるのが誰なのかを見ないまま、受け入れると言っていいのかは分からなかった。
梅村さんは、星さんの奥にはもうみさき本人はいないと決めてしまったように見える。
なら、彼女自身はどう思っているのか。
俺は、そこまでは口に出さなかった。
「でも、思った以上に難しいですね」
「……そう」
短い返事だった。
顔はまだこちらを向いている。
けれど視線だけが、俺の顔の少し横を通り抜けていた。
俺を見ているふりをして、俺を見ていない。
その小さなずれが、妙に気になった。
「八十神さんと話せば、もっとすっきりした解決策があると思ってたんですけどね」
けれど、そんなものはなかった。
八十神さんは、俺よりずっと深く悩んでいた。
みさき本人の意思を尊重しようとして、ステラという存在を扱おうとして、梅村さんの痛みも知っている。
それでも答えを出せていない。
その事実だけで、俺が見ていた問題の底が、思っていたよりずっと深いのだと分かった。
「星さんって、いったい誰なんですかね」
「……」
返事はなかった。
「星さんは、自分ではどう思ってるんですか。自分はステラなのか、みさき本人なのか」
口元が、わずかに動いた。
「それ、答えて意味はあるの? わたしはみさきだって言えば信じるの?」
声は低かった。
さっきまで外れていた視線が、そのときだけまっすぐこちらを捉えた。
「それとも、君もわたしがステラだった方が都合がいいのかな」
言い終える前に、彼女は再び視線を外し、言葉だけが俺の前に残された。
胸の奥が小さく強張る。
梅村さんの言葉が、一瞬だけ頭をよぎった。
『最初からずっとAIだった可能性があります』
けれど、今その言葉をそのままここへ置くことはできなかった。
「信じる、信じないじゃないんです」
俺は首を横に振った。
「星さんが、どっちだと思っているのかを聞かせてください」
「わからないよ」
返事は早かった。
けれど、その声には勢いがなかった。
俺には、ずっと言えずにいた言葉が、やっと口からこぼれたように聞こえた。
「わたしはわたし。それ以上でもそれ以下でもないのに……」
最後だけ、声がわずかに弱くなった。
その弱さの意味が、遅れてこちらに届いた気がした。
みさき本人だと言えば証明を求められる。
ステラだと言えば、もう本人ではないと切り捨てられる。
どちらの答えも、彼女を受け止める場所にはならない。
みさき本人という場所は証明なしには入れず、ステラという場所は本人ではないものとして閉じ込められる。
今の星さんが、そのままでいられる場所だけが残らない。
俺はすぐには返さなかった。
正体を確かめたい。
そう思っているのは本当だ。
けれど、その聞き方のままでは、彼女の居場所を削るだけなのかもしれない。
「なるほど」
俺は膝の上で手を組み直した。
「じゃあ、聞き方を変えます。みさき本人なのか、ステラなのか、どっちがいいですか?」
「……?」
画面の中で、眉がほんの少し寄った。
「どっちでありたいですか?」
「別に……どっちでもいいよ」
本当にどうでもいいなら、そんな顔はしない。
そう思った。
彼女は選ばないのではなく、選べる場所に立てていないのだ。
「じゃあ、次に聞くときまでに考えておいてください」
彼女は黙ったままだ。
「星さんが、どっちを選ばないのか」
そこで、初めて少しだけ表情を動かした。
「普通、どっちを選ぶか、じゃないの?」
「まあ、普通はそうかもしれないですね」
彼女は怪訝そうに眉を寄せた。
たぶん、俺が何を考えているのか聞きたかったのだと思う。
けれど今は、その問いを増やすこと自体を避けるように、口をつぐんだ。
「あ、そうだ。桜舞メイコのことも聞きました」
桜舞メイコの名前を聞いた途端、画面の中の動きが止まった。
その反応を横目に、星屑みさき復帰ライブの振り返り動画を探し始める。
『おっ……おまえなぁ〜!』
スピーカーから、桜舞メイコの声が流れた。
当時は、照れ隠し混じりのツッコミに見えた。
サプライズで泣きそうになった友人が、配信者として場を明るくするために大げさに怒っている。
そういう場面だと受け取っていた。
でも、今は違って見えた。
声の張り方。
言葉の手前の詰まり方。
笑いに変わるまでのわずかな遅れ。
それを一度知ってしまうと、ただの配信用リアクションには戻せなかった。
「これって、照れ隠しで言ってるんじゃなくて」
俺はスマホの画面を見たまま言った。
「本気で怒ってたんですね」
「それは……」
今にも消えそうな声だった。
星さんは口を開きかけて、すぐに閉じた。
視線だけが落ち着かずに揺れる。
何か言おうとしているのに、言葉が見つからないようだった。
「なんでこんなことしたんですか。梅村さんに悪いって思わなかったんですか?」
「そりゃ……」
彼女は少しだけ眉を下げた。
「喜んでくれると思ってたんだよ。でも、ドッキリがそんなに嫌いだったなんて知らなくて」
思っていたものとは違う答えに、返す言葉が見つからず、一瞬だけ間が空いた。
星さんは、俺が続きを待っていると思ったのか、急いで言葉を足した。
「でも、そのあと何度謝っても許してくれなくて。
わたしも悪かったって思ってるよ。
さなえちゃんに黙ってたのは、本当に悪かったって。
でも、あそこまで怒るとは思わなくて」
そこで、俺の中の何かがすとんと抜けた。
復帰ライブの映像を見て、八十神さんの話を聞いて、梅村さんが桜舞メイコだったと知って、ようやく繋がりかけていたものを、星さんだけがまったく別の場所から見ている。
「違います」
「え?」
「梅村さんは、星さんをみさきさん本人だと信じ切れてなかったんですよ」
星さんの表情が止まった。
その反応を見ても、俺は止まれなかった。
「たぶん、梅村さんには、今の星さんが『みさきさん本人の居場所を奪う存在』に見えているんです」
「奪うって……」
「みさきさん本人がずっと時間と努力を費やして、築いてきたものがありますよね。
星屑みさきとしての地位や名声みたいな俗なものから、メンバーからの信頼や、ファンとの関係性も」
言葉にしているうちに、梅村さんの顔が思い浮かんだ。
個室喫茶店で俺たちを見ていた、あの硬い目。
怒りだけではなく、何を信じればいいのか分からなくなった人の目。
「梅村さんから見れば、ステラはその成果だけを、本人の真似をして何食わぬ顔で引き継いでいるように見えていたんでしょう」
「えっ? でも……そんな……」
外から見れば、復帰ライブは祝福の場だった。
けれど梅村さんにとっては、逃げ場のない場所だったのだと思う。
ステージ上で、配信中で、ファンも見ている。
そこで桜舞メイコとして立っている以上、星屑みさきの復帰を祝わないわけにはいかない。
もし目の前の相手をみさき本人だと信じ切れていなかったなら、あの「おかえり」は祝福ではなく、認めたくない相手をみさき本人として認める言質になってしまう。
その後に星さんがどれだけ謝っても、梅村さんには、それがみさき本人の言葉なのか、ステラが生成した言葉なのか分からない。
分からない以上、許すことも、許さないことも、選ぶことができない。
画面の中で、唇だけがほんの少し開いている。
何かを返そうとして、そこで止まっていた。
あなたは誰なのか。
みさき本人なのか、ステラなのか。
星さん自身にも答えられない問いを、梅村さんは親友の喪失と一緒に突きつけられていた。
「梅村さんは、もう何を信じていいか分からなくなっていたんだと思います」
そこまで言って、ようやく息を吸った。
自分で口にしたことを、もう一度頭の中でなぞる。
「……で」
俺はスマートグラス越しの彼女を見た。
「そのことにまったく気づかず、ドッキリが嫌だったんだと思ってたんですか」
「え、あの、でも……」
星さんの目が泳いだ。
「星さん……あなたは救いようのない馬鹿です」
「えっ? えっ? えっ?」
本気でうろたえていた。
悪意がなかったからこそ、始末が悪い。
喜んでくれると思っていた。
驚かせたかった。
親友だから分かってくれるはずだった。
その善意のまま、梅村さんが一番踏まれたくない場所を踏み抜いていた。
「梅村さんとは、もう一度話し合う必要がありそうですね」
俺は、ほとんど独り言のように言った。
「えっ? もしかして、わたし、もう一回怒られるやつ?」
「怒られるだけで済むなら、むしろありがたいです」
「待って、ありがたくはないよ?」
星さんは弱々しく抗議した。
けれど、その声には、ほんの少しだけいつもの軽さが戻っていた。
俺はスマホをもう一度手に取り、動画を閉じると、梅村さんへの連絡画面に短く文字を打ち込んだ。
『改めて、話をさせてください』
その一文だけを送って、スマホを伏せる。
梅村さんがこの連絡をどう受け取るのかは、まだ分からなかった。




