45話
ふと壁の時計が目に入った。
思っていたより、針が進んでいる。
この部屋へ通されたのは、昼を少し過ぎた頃だったはずだ。
話し始めてから、もう短針が次の数字に近づくほどの時間が過ぎていた。
それだけの間、俺は八十神さんと向き合っていたらしい。
聞きたいことは、まだ山ほどある。
何から確かめればいいのか、自分でも整理できていない。
それでも、これだけは今、聞かずに終わらせるわけにはいかなかった。
そう思った瞬間、喉の奥が少しだけ詰まった。
「……もうひとつだけ、いいですか」
八十神さんが顔を上げる。
「変な聞き方に、なるかもしれません」
自分でも、逃げた前置きだと思った。
それでも、一度その形にしないと、言葉が出てこなかった。
「星屑みさきは、いつまで続けるつもりですか」
言った瞬間、部屋の温度が一段下がったような気がした。
八十神さんは答えなかった。
星さんは……星屑みさきは、みさきさん本人がいなくても動いてしまう。
ステラというAIだけで、声を返せる。
笑える。
配信者としてそこに立てる。
つまり、みさき本人がこのまま病気で亡くなっても、星屑みさきだけは継続できてしまう。
みさきさん本人が生きているあいだは、まだ曖昧でいられる。
今返ってくる言葉のどこまでが本人で、どこからがステラなのか、分からないままでいられる。
けれど、もしみさきさん本人が亡くなったら。
その瞬間から、星屑みさきの声は、もう本人から届いたものだとは言えなくなる。
どれだけ同じ声で、同じ顔で、同じように笑ったとしても、それはステラというAIが星屑みさきを続けている、という形になってしまう。
そのことを、遠回しに聞いたつもりだった。
でも、遠回しにしたところで、残酷さが薄まるわけじゃない。
「……すみません。違います」
指先に力が入った。
「みさきさん本人が亡くなったら、どうするんですか」
今度は、言い換えなかった。
八十神さんは、すぐには答えなかった。
視線が一度、テーブルの上に落ちた。
唇がわずかに開きかけて、閉じる。
短い沈黙のあと、八十神さんは息を吐いた。
「何らかの区切りは、つけるだろうね」
八十神さんは穏やかな口調で、ゆっくりそう言った。
「そのことは、復帰させると決めた時から考えていた。あの子とも話はしていたよ」
「どうするか、決まっているんですか」
「詳しい形までは、まだ決まっていない」
八十神さんは、そこで一度言葉を切った。
「ただ、そのことは考えている。
時が来たら、何らかの形で区切りをつける。
何もなかったように続けるつもりはないよ」
八十神さんは、そこで少しだけ視線を上げた。
「それに、ALSは個人差が大きい病気だ」
声は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
「藤宮君は、ホーキング博士を知っているかな」
「車椅子の物理学者、ですよね」
名前くらいは知っている。
けれど、それが今の話とどうつながるのか、すぐには分からなかった。
「彼も、若いころにALSを発症した。
医師から長くはないと言われたそうだ。
けれど、ある時期から進行が非常にゆるやかになって、そのあと何十年も生きた」
八十神さんは、そこでわずかに首を振った。
「もちろん、病気が治ったわけではない。
誰にでも同じことが起きると言いたいわけでもない。
みさき本人の状態を楽観していい、という話でもない」
そこまで言ってから、八十神さんは俺を見た。
「ただの希望的観測だと言われるかもしれない。
それでも、みさき本人がこのまますぐに終わると決まったわけではないんだ」
胸の奥に、鈍いものが沈んだ。
答えを聞けたはずなのに、少しも楽にならなかった。
それでも、八十神さんが何も考えずに星屑みさきを続けているわけではない。
そのことだけは、分かった。
その後の沈黙を破ったのは、外からの小さなノックだった。
扉が少しだけ開き、受付で見た秘書の女性が顔を出した。
「あのー……そろそろお時間なんですけど……」
語尾が、申し訳なさそうに細くなる。
あまりにも普通の業務連絡だった。
さっきまで部屋に沈んでいた重さが、少しだけ所在なさそうに浮いた。
「おっと、もうこんな時間なのか」
八十神さんは部屋の時計に視線を移し、わずかに眉を上げた。
秘書の女性は、すみません、とでも言うように小さく頭を下げる。
「いや、助かったよ」
八十神さんの声から、さっきまでの硬さが少しだけ抜けていた。
俺も、つられるように肩の力を抜いた。
応接室に張り詰めていた空気も、ほんの少しだけ和らいだように感じた。
秘書の女性は俺に軽く会釈をして、すぐに扉を閉じた。
それを合図にするように、八十神さんは膝に置いていた手を離し、ゆっくりと腰を浮かせた。
俺も鞄を手に取る。
聞くべきことは聞いた。
少なくとも、そう思うしかなかった。
「また聞きたいことがあるなら、いつでも連絡をくれていいよ」
八十神さんは、立ち上がりながらそう言った。
「ありがとうございます」
思っていたより素直に、声が出た。
そのまま終わるはずだった。
けれど、立ち上がりかけたところで、ひとつだけ引っかかりが戻ってきた。
「最後に、ひとつだけいいですか」
八十神さんは、扉のほうへ踏み出しかけていた足を止めた。
「梅村さんって、何者なんですか」
八十神さんは問いの意味を量るように、俺の顔を見ている。
「話を聞いていると、ただのミラージュの社員とか、技術側の人とか、そういう感じじゃなかったので」
みさきさんの親友だとしても、親しいという理由だけでステラのプロジェクトに深く関われるとは思えなかった。
「ああ……」
八十神さんは、そこでようやく何かに思い当たったように息を漏らした。
「そうか。君は、そこを知らないままだったか」
「そこ?」
俺が聞き返すと、八十神さんは腕時計に目を落とした。
時間を気にした、というより、言葉を選ぶために一度視線を外したように見えた。
八十神さんは短く考え込んだあと、小さく息を吐いた。
「守秘義務もあるので本来は話すべきではないんだが、ここまで関わった以上隠しておくことも難しいか」
何をそこまで慎重に言おうとしているのか分からず、俺は黙ったまま次の言葉を待った。
「梅村君は、桜舞メイコだ」
「……は?」
間の抜けた声が出た。
桜舞メイコなら知っている。
星屑みさきの復帰ライブでステージに立っていた、同じ箱のメンバーだ。
突然現れた星屑みさきを前に、誰より分かりやすく固まっていた姿も、映像の中に残っている。
「じゃあ、復帰ライブの時のあれは……」
そこまで言いかけたところで、廊下の向こうから控えめな足音が近づいた。
八十神さんが扉のほうを見る。
「すまない。時間だ」
八十神さんは短く会釈すると、先に応接室を出て廊下の奥へ去って行った。
俺は鞄を持ち直し、外で待っていた秘書の女性に案内され、そのままエレベーターから一階の出口まで戻った。
廊下を歩いているあいだも、梅村さんのことが頭から離れなかった。
桜舞メイコ。
みさきさんの親友で、ステラのプロジェクトにも深く関わっていた人。
その立場を知った今、彼女の言葉や行動の意味も、少し違って見えてくる気がした。
星さんに、もう少し詳しく聞いた方がいいのだろうか。
ミラージュ本社を出ると、外の空気は思っていたより冷たかった。




