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44話

「ステラが、自分から名乗ったんですか」


 考えるより先に声が出ていた。

 気づいた時には、八十神さんの話を遮ってしまっていた。


 八十神さんは、言いかけた言葉を飲み込むように口を閉じた。

 驚いたというより、こちらが何に引っかかったのかを見定めている顔だった。


 応接室の中で、空調の低い音だけが残る。


 八十神さんはすぐには答えなかった。


 そのわずかな沈黙さえ、ひどく長く感じられた。

 答えを待っているだけではいられず、口が勝手に次の問いを吐き出す。


「確認なんですが、本当にステラと病室にいたみさきさんとは繋がってなかったんですか」


 思わず身を乗り出していた。


 八十神さんは、はあ、とため息をつくように息を吐いた。

 それから背もたれに体を預け、天井を仰いだ。


「ああ。すぐにエンジニアたちと一緒に確認を取ったよ」


 そのまま、八十神さんは両手で顔を覆った。


 指の隙間から、押し殺すような息が漏れる。

 肩が、ほんのわずかに震えていた。

 あの時の驚きも、どうしていいか分からなかった戸惑いも、まだ体のどこかに残っているように見えた。


 やがて、指の隙間から重い息が漏れた。


「ステラの言った通りだったよ。

 みさき本人からの信号は、最初から最後まで入っていなかった。

 あの受け答えは全部、ステラ自身が判断して作り出していたんだ」


 再び沈黙が部屋を覆った。


 最初から最後まで――その響きが壁に反射し、胸の内側で鈍く跳ね返った。


「じゃあ、今の星さんもステラなんですか」


 口にした瞬間、自分でも乱暴な聞き方だと思う。

 それでも他に言葉が見つからなかった。


 梅村さんは気づかなかった。


 みさき本人の親友で、デビュー前からそばにいて、復帰してからも一番近い場所で彼女を見ていた人だ。

 その人が、リンクの切れた星屑みさきと普通に話して、最後まで気づかなかった。


 だったら俺は、何を見て分かったつもりでいたんだろう。

 スマートグラス越しに俺をからかった時の、少し得意げな顔。

 京都で並んで歩いた時の、間髪入れない軽口。

 合コンで人の弱いところを平然と突いてきた、あの楽しそうな声。


 俺はずっと、そういう一つ一つを拾って、ああ、星さんだな、と思っていた。

 画面の中で目が細くなる。

 声の調子が少し上がる。

 返事までの間が、妙にこちらの痛いところを狙ってくる。


 それが俺には、彼女がそこにいる証拠みたいに見えていた。


 でも、今は同じものが別の顔をして見える。


 俺に見えるのは、画面の中の星さんだけだ。

 声も、表情も、返事までの間も、その向こうで何が起きているのかまでは分からない。


 その奥で、星さん本人の意思が反映されていたのか。

 それとも、ステラが記録の中から一番それらしい反応を選んだだけなのか。


 俺には、どちらも同じ星さんに見えてしまう。


 そう思った瞬間、今まで積み上げてきた時間の足元が、すっと薄くなった。


 俺は八十神さんと向き合い、答えが返ってくるのを待つ。


「……わからない」


 八十神さんは、思い詰めた顔でそっと首を振った。


 知らない、と突き放したわけではない。

 答えを隠しているようにも見えなかった。

 ただ、自分の持っている材料ではそこまで届かない。

 そのことを苦々しく受け止めているようだった。


「わからない……? 分からないってどういうことですか」


 明確な答えを期待していたわけではない。


 それでも、返ってきた言葉があまりに曖昧で、俺はそこから先へ進めなかった。


「5月の復帰ライブを境に、みさき本人とは直接話すことができなくなった」


 八十神さんは、再び首を横に振る。

 それから、ひとつずつ事実を確かめるように言葉を続けた。


「ステラを介しての会話はできていた。

 だが、画面の向こうの星屑みさきの振る舞いには、私たちが気づける変化がなかった」


「変化に気づかなかったということですか」


「少なくとも、外から見える範囲ではね。

 声も、表情も、会話の間も、私たちが変わったと気づけるものは何もなかった」


 八十神さんはそこで一度、言葉を切った。


「ずっと、いつものみさきだった」


 それは、少し怖い話に聞こえた。


 自分は、もう体を動かせない。

 直接声を交わすこともできない。

 そんなところまで来ていたのに、今まで通りに過ごすことなんて出来るのだろうか。


 その変わらなさを、本人はどう感じていたのだろう。


「ステラに直接聞いたりはしなかったんですか」


「ははは」


 八十神さんの乾いた笑いが響いた。


 俺は何かおかしなことを言ったのだろうか。

 思わず首を傾げると、八十神さんは笑いきれない顔のままこちらを見た。


「聞いてみたさ。そしたら、なんて言ったと思う?」


 八十神さんは、そこで一度目を伏せた。


「『わたしが、みさき本人だよ、って言えばそれを信じるの? それとも、ステラだよ、って言った方がいい?』」


 八十神さんの口元には笑みが残っていた。

 けれど目だけは、空っぽのまま笑っていなかった。


 ステラが何と答えても、それだけでは証明にならない。


 みさき本人だと言われても、信じたい言葉を選ばれただけかもしれない。

 ステラだと言われても、こちらを試すための冗談かもしれない。


 結局、最後に残るのは、俺たちが何を根拠に信じるのかだった。


「彼女の、本人の意識が、ステラに移ったとか……そういうことはないんですか」


 八十神さんは、少しだけ眉を寄せた。


「……さすがにそれは、オカルトじゃないのかい?」


「魂の存在とか、それがAIに乗り移ったとか、そういうスピリチュアルな話とかではなくてです。

 なんていうか……」


 八十神さんは口を挟まず、ただじっと俺の続きを待っていた。


 うまく言葉にできないまま、頭の中に浮かんだものを一つずつ拾い上げる。

 違う、そうじゃないと何度も言い直しながら、目の前に浮かんだ言葉をゆっくりと吐き出した。


「ステラは、みさきさんのことをずっと学習してきたんですよね。

 それに、声や話し方だけじゃなくて、過去の会話とか、表情の癖とか、人にどう返すかとか。

 みさきさんが経験してきたことも、記録として持っている」


「そうだね」


「最初はみさきさんがステラを補いながら動いていた。

 そして、みさきさんの身体が動かなくなるにつれて、逆にステラが補う部分が増えていった」


 言いながら、頭の中に古い船の姿が浮かんだ。


「テセウスの船ってあるじゃないですか」


「古くなった部品を少しずつ取り替えていって、すべて入れ替わった後も同じ船と言えるのか、という話だね」


「それです」


 八十神さんが知っていたことに、少しだけ助けられた気がした。


「最初は、ほとんどみさきさん本人だった。

 でも、動かせないところや、言葉にできないところをステラが補っていく。

 その割合が少しずつ増えて、最後にはステラだけでも星屑みさきとして話せるようになった」


「……つまり?」


「途中のどこかで急に別人になったわけじゃないんです」


 俺は、自分の中にある形を確かめながら続けた。


「みさきさんの知識や経験や、人との関係を少しずつ受け継いでいった結果、ステラがみさきさんになった。

 そう考えることはできないんですか」


 八十神さんは考え込むように黙り込み、すぐには答えなかった。


 少なくとも、俺の考えをそのまま肯定するつもりはないらしい。

 否定するにしても、どう伝えるべきか言葉を選んでいるように見えた。


「その例えには、少し違うところがあると思う」


「違うところ?」


「テセウスの船では、古い部品を外して、新しい部品と交換していく。

 古いものは、その船から失われる」


「はい」


「でも、みさきとステラの間で起きたことは交換じゃない」


 八十神さんは、穏やかな口調のまま続けた。


「ステラが形作られていっても、その分だけみさき本人がいなくなるわけじゃないんだよ」


 俺は、すぐには意味を掴めなかった。


「例えば、腕を動かせなくなったからといって、その人が腕の分だけいなくなるわけじゃない。

 声を出せなくなっても、声を失った分だけ本人が消えるわけではないだろう?」


「あ……」


 言われてみれば、当然だった。


 俺は、画面の中に現れる星さんのことばかりを見ていた。


 みさきさんができなくなったことを、ステラが代わりに行う。

 その割合が増えていく様子を、まるで中身まで少しずつ入れ替わっていくように考えていた。


 けれど、外へ出せるものが減ったことと、みさきさん自身が減ったことは同じではない。


「みさきさんが反応できなくなっても、みさきさん本人がいなくなったとは限らない」


「少なくとも、みさき本人が部品のように取り外されて、ステラと交換されたわけではないだろうね」


 八十神さんの答えは明確だった。


 俺も、それ以上は反論できなかった。


「確かに……そうですね」


 自分の考えが、ひどく浅いものに思えた。


 動かなくなった身体の内側で、彼女の心が、意識が、今どうなっているのか。

 俺には何ひとつ分からない。


 それなのに俺は、外から返ってくる反応だけを見て、みさき本人がステラに置き換わっていったのだと考えていた。


「ただ」


 八十神さんが、不意に言葉を足した。


「画面の向こうにいる星屑みさきだけを見れば、少しずつステラに置き換わっていったように見える。

 君がテセウスの船を思い浮かべたのも、分からなくはない」


「でも、本当のみさきさんは別にいるんですよね」


「ああ、そうだ」


「そうですよね。彼女の心もまだそこに残っているんですよね」


 八十神さんの表情が、目に見えて強張った。


 やがて八十神さんは俯き、眉間を指で強く押さえた。

 頬がかすかに歪み、噛み締めた奥歯の隙間から細い息が漏れる。


 ほんの短い沈黙だった。


 それでも、その先に簡単な答えがないことは伝わってきた。


「それは、私には分からない」


「分からない……? どういうことですか」


「みさきの内側に、いま何があるのか。

 本人が何を感じているのか。

 それを外から確かめることはできない」


「でも、彼女はそこにいて、生きているんですよね」


 八十神さんは答えなかった。


「身体が動かせなくなっても、それでみさきさん自身がいなくなるわけじゃない。

 声が出せなくても、こちらに反応を返せなくても、彼女の心や意識は、まだそこにあるはずですよね」


 確認するように言いながら、俺は八十神さんの顔を見た。


 否定されるとは思っていなかった。


 ただ、そうだと頷いてほしかった。

 体の内側にいる彼女まで消えてしまったわけではないと、誰かの口から確かめたかった。


 けれど、八十神さんの表情は晴れなかった。


「生きていることと、その内側にある意識を私たちが確かめられることは、同じじゃないんだ」


 八十神さんは、困ったように息を吐いた。


「哲学では、他人にも自分と同じような意識があると、どうやって分かるのかという問題を、他我問題と呼ぶそうだよ」


「他我……? どういうことですか?」


「自分が何かを感じたり、考えたりしていることは、自分には分かる。

 でも、他人の中でも本当に何かが感じられ、考えられているのかは、外からは見えない」


「……? そんなの、会話や表情、動作を見れば――」


 そこまで口にして、言葉が止まった。


 今のみさきさんには、そのどれもない。


 声を出すことも、表情を変えることも、指先ひとつ動かすこともできない。

 こちらの呼びかけが届いているのかさえ、本人の反応から確かめることはできなかった。


「でも、それは反応を返せないだけで――」


「そうだね。反応がないことは意識がないことを意味するわけじゃない」


 八十神さんは静かに言った。


「ただ、あると確かめることもできない」


「じゃあ、ステラはどう扱えばいいんですか」


 自分でも、少し食い下がるような声になった。


「みさきさんは反応を返せない。でも、それだけで意識がないとは言えないんですよね」


 言いながら、画面の向こうで笑う星さんの顔が浮かんだ。


「なら、反応を返してくるステラはどうなるんですか」


 相手が笑えば、楽しいのだと思う。

 痛いと言えば、痛みを感じているのだと思う。

 その内側を見たわけでもないのに、俺たちはそうやって他人と接している。


 星さんは喋って、笑って、こちらの言葉に合わせて返してくる。


 それを見ている俺たちは、何を根拠に線を引けばいいのか。


 俺の問いに、八十神さんはすぐには答えなかった。


「哲学的ゾンビという言葉があるそうだ」


「ゾンビ?」


「外からは普通の人間と同じように振る舞うのに、内側には何の意識もない存在を考える思考実験だよ。

 外から見分けがつかないなら、振る舞いだけでは意識の有無を決められない、という話でもある」


 星さんは、人のように喋る。

 人のように笑う。

 こちらの言葉を受け取って、相手に合わせた返事をする。


「外から人のように見えるだけで、意識があると考えるのは飛躍だ。

 人間相手ですら、その内側に意識があると完全に証明する手段はない。

 ましてステラは、AIだと分かっている」


「じゃあ、ステラの中に誰もいないんですか? みさきさんのように振る舞っているけど、中身は空っぽなんですか?」


「わからない。少なくとも、私はそれを確かめる方法を知らない」


「じゃあ、結局、星さんが何者なのかは分からないんですか」


 八十神さんはすぐには頷かなかった。


 テーブルの上に置いた指先が、かすかに動く。

 何かを掴もうとして、結局何も掴めなかったみたいに、ゆっくり拳を作った。


「……そうだね」


 絞り出すような声だった。


「みさきさんなのか、みさきさんを真似ているだけなのか。それとも、別の誰かなのか」


 八十神さんは目を伏せた。


 まぶたの下で、何度も同じ問いを繰り返してきた人の疲れが滲んでいた。


「どれも、今の私には断定できない」


 応接室に、空調の音だけが残った。


 たぶん、梅村さんは、その分からなさに耐えられなかったのだ。


 八月の障害で、みさきさん本人からの信号が来ていないあいだも星屑みさきが動き続けていた。

 それを知った時、彼女の中ではもう答えが出てしまったのかもしれない。


 今の星屑みさきは、みさきではなくステラなのだと。


 分からない。


 八十神さんは何度もそう言った。


 けれど、それは何も考えていないという意味ではなかった。


 考えて、調べて、いくつもの可能性を並べた末に、それでも境界を引けなかったのだ。


 画面の向こうで笑う星屑みさき。


 その中にいるのは、みさきさんなのか、ステラなのか。

 それとも、そのどちらでもない誰かがいるのか。


 外から見ている俺には、そのどれも証明できなかった。


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