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48話

 ようやく、手つかずだったコーヒーに手が伸びた。

 カップを持ち上げる動きは静かで、乱れはない。

 それでも口元に届いてから、すぐには傾かなかった。


 一口だけ飲み、ソーサーへ戻す。

 立ちのぼる湯気が、表情をぼかした。


「藤宮さんが見ているのは、画面に映った星屑みさきです」


 声は低かった。

 画面越しにしか知らない人間が、分かったように語るなと、そう言われている気がした。


「私が守りたいのは、その奥にいたみさきです。

 一緒に笑って、泣いて、怒って、同じ時間を過ごしたあの子です。

 病気になる前も、病気になってからも、懸命に走り続けてきた、身体を持ったみさきです」


 視線がテーブルの中央のスマホへ向く。

 星さんを見るようで、星さんではないどこかを見ていた。


「その子の居場所を、ステラが素知らぬ顔で奪っていく。

 声も、記憶も、言い回しも、正しく返せるというだけで。

 私は、それを許せない」


 スマホの中で、星さんの口元がわずかに動いた。

 けれど、声にはならなかった。


「ただの声と記憶と言い回しだけが正しく返ってくるものを、私はみさきだとは呼べません」


 その言葉を、星さんがどう受け取ったのかは分からなかった。


 俺もすぐには口を開けなかった。

 コーヒーの湯気だけが、テーブルの上で細く揺れている。


「ただ反応を正しく返してるだけって、さなえちゃん、本気でそう思ってるの?」


 梅村さんは答えなかった。


 視線は俺に向いたままで、テーブルの中央に置かれたスマホを見ようともしない。


 俺はその視線に向かい合わず、画面の中の星さんだけを見つめたまま、言葉を待つ。


 やがて、その視線がわずかに揺れた。

 ふうっと息を吐いてから、ようやくスマホへ目を向けた。


「当然そう思っています」


「じゃあ、さなえちゃんが今そうやって怒ってるのも、昔からの反応パターンを返してるだけって言われたらどうするの」


「私は人間です」


「ずるくない? 自分だけ最初から証明済みみたいに言うの」


「人間とAIを同じ条件に置くほうが乱暴です」


「さなえちゃん、ちゃんとわたしを見てよ。

 何言っても『ステラがそれっぽく返してるだけ』って決めてたら、わたし、何も言えないよ」


 二人の声が前のめりになっていく。

 口を挟む隙を探したが、その間はすぐに次の言葉で埋まった。


「わたしが何を言っても、さなえちゃんが『それはみさきじゃない』って言ったら、そこで終わりじゃん」


「終わりで結構です。あなたと話すことはありません」


 星さんの口が、ぱくりと開いたまま止まった。


 画面の中の肩が小刻みに震え、握った両手が胸の前でぎゅっと固まる。

 その顔に貼りついていた我慢が、ぷつんと破裂した。


「むっきー! ふざけんな! ウメ、わたしの話をちゃんと聞けー!」


 声の主は怒りに任せて足を踏み鳴らした。

 小さな画面の中だから音はしない。

 それなのに、個室の空気だけは確かに揺れた気がした。


「あんた昔からそうだよね。人の言うことを全然聞かない。この石頭!」


「石頭はあなたでしょう」


 間を置かず、梅村さんの声が返った。


「ウメの初めての誕生日ライブの時だってそう! わたしも出る予定だったのに、勝手に欠場って決めた! わたしはやれるって言ったのに、ウメは最初から無理だって決めつけた!」


「決めるに決まっています。あの時あなた、熱が三十八度を超えてたんですよ」


「ちょっとふらつくくらいだったもん。あれくらいなら出られたもん!」


「そのあと三日間も寝込んでおいて。何を言っているんですか」


 星さんは一言返されるたびに、画面の中でむっと口を尖らせた。

 梅村さんは涼しい顔でゆっくりとホットコーヒーに口を付ける。

 その余裕が、星さんにはますます気に入らなかったらしい。


「じゃあ旅行の時は? 沖縄に行くか、北海道に行くかってなったときに、わたし北海道がいいって言ったのに全然聞き入れてくれなかったじゃない!」


「一泊二日の旅行で北海道横断なんて無茶な計画だったからです」


「なんで行く前から決めつけるの!」


「地図を見れば分かります」


「地図じゃなくて、わたしを見てよ!」


「地図を見てください!」


 そこで、星さんが一瞬だけ固まった。


 梅村さんも、同じように口を閉じた。


 画面の中で頬を膨らませる星さんと、涼しい顔でカップを戻す梅村さん。

 その一瞬だけ、俺には二人が、ただ昔の続きをしているように見えた。


「文化祭の時だって」


 先に再開したのは、星さんだった。


「わたしがかわいい衣装作ってきたのに、ウメちゃん着てくれなかった」


 その時の衣装を思い出したのか、梅村さんの目元が一瞬だけ泳いだ。

 すぐに澄ました顔へ戻したが、声までは戻りきらなかった。


「あんな露出の多い服なんか人前で着れるわけないでしょう!」


「かわいかったじゃん!」


「そういう問題じゃありません!」


「せっかく徹夜で作ったのに!」


「徹夜で何を作っているんですか。あなたは本当に昔から、計画性が無さすぎます」


「また怒る!」


「当たり前です!」


「ほんっとに、ウメは素直じゃないよね」


「その呼び方をしないでください!」


「やだ!ウメはウメだもん」


「いい加減その口を閉じないと……」


 そこまで言って、梅村さんが止まった。


 自分の声が思った以上に強くなっていたことに、その瞬間気づいたようだった。

 背筋を伸ばし、唇を結び直す。

 テーブルの上でそろえていた指先が、ほんの少しだけ動いた。


「……失礼しました」


 取り繕う声だったが、もう遅かった。

 テーブルの中央のスマホへ目を落とすと、画面の中の星さんは怒った顔のまま、どこか得意げに梅村さんを見上げていた。


「今のやり取りを聞く限り、まだ貴女も、みさきさん本人がいるかもしれないと思っているんじゃないですか?」


「違います。似ているものについ反応してしまっただけです」


 梅村さんは、認める余地などないと言い切った。


 でも俺には、その頑なさの奥で、さっきの喧嘩に引きずり出された何かがまだ消えずに残っているように見えた。


「似ているから、昔と同じように返してしまう。

 でも、似ていることと本人であることは違います」


「でも、完全にいないとも言えない」


「言えます。今ここにいるのはステラです。みさきではありません」


 その断定が、俺にはむしろ、揺れを押さえつけるためのものに見えた。


 傷つけ合う言葉ばかりなのに、それでも二人の間には、まだ切れていないものが残っている気がした。


 けれど、次に何を言うべきかは分からなかった。


 完全にいないとも言えない、と言うだけでは足りない。

 梅村さんに届かせるには、彼女が否定できない形で示すしかない。


 星さんの中に、みさきさん本人につながる何かがまだ残っていることを証明する。


 そんな言葉は簡単に口にしていいものではない。

 今の俺には、どうすれば証明ができるのか見当もついていない。


 もしここで空約束をして失敗したら、二人はもう二度と同じ場所には戻れなくなるかもしれない。


 それでも、このまま何もしなければ、梅村さんの中で、星さんからみさきさんへ続く道が閉ざされてしまう。


 そんな終わり方だけは、どうしても選べなかった。


「じゃあ、証明します」


「証明? どうやってですか?」


「今は方法も分かりません。

 でも、証明します。

 星さんの中に、みさきさん本人がまったくいないわけじゃないことを」


 長い沈黙のあと、梅村さんは立ち上がった。


「証明できると言うなら、見せてください」


 それだけ言って、扉へ向かう。


「私の考えは変わっていません。

 配信活動は止めるべきです。

 病院の管理外で動かすべきでもありません。

 外部端末も回収すべきです」


 個室に残ったのは、俺と星さんと、冷め始めたコーヒーだけだった。


「藤宮くんさ」


「はい」


「証明って、どうやって?」


「……これから考えます」


 口にしてから、どれだけ無茶なことを言ったのかが遅れて分かった。


 それでも、梅村さんの前で言い切ってしまった以上、ただの勢いでは済まない。

 証明する方法なんて、今はどこにも見えていない。


 もう引き返せないところまで踏み込んでしまった。

 あとは、言ったことに追いつくしかなかった。


挿絵(By みてみん)

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