41話
返事はなかった。
駅前の歩道を人が何人も横切っていく。
信号の電子音が鳴って、車の流れがゆるやかに折れていく。
そのどれもが視界をかすめていくだけで、音も気配も届いてこない。
景色だけが流れていくなかで、彼女は黙したまま隣で佇む。
「……なんで何も言ってくれないんですか?」
声が強く響かないように、努めて声を抑えた。
梅村さんが現れてから、彼女は一言も発していない。
「あの人、星さんの友人って言ってましたけど、どういう関係なんですか?」
星さんは一瞬こちらに視線を向け、何か言いかけて、結局うつむいた。
『最初からずっとAIだった可能性があります』
梅村さんの言葉が、脳裏へ何度も重なる。
星さんが戻ってきたとき、八十神さんは機材の不調があったと言っていた。
こちらの状況を知らないはずなのに、それなのに。
それでも彼女は夏のあいだ、ずっと完璧に星屑みさきだった。
何かがおかしい、と薄く気づいてはいた。
気づいたうえで、あえて見ないふりをしてきた。
梅村さんの一言は、その薄い蓋を容赦なく剥がした。
こうなっては、もう問わずにはいられない。
星さんはAIなのか。
人間なのか。
データが示すように、本人がいなかった期間があるのは確かだった。
じゃあ、いつから本人は不在だったのか。
そもそも、本人がいたと断言できる証拠なんて、俺はひとつでも持っていたのか。
復帰してからの配信で覚えた、あの気味の悪い違和感。
病室で見た、目を閉じたままの本物の彼女。
八十神さんに聞かされた、本人の意思をAIが受け取っているという説明。
俺の、七味の、戻ってきて欲しいという声が届いていたと、あの夜に彼女が言ったこと。
どれも、いままでなら一本の線でつながっていた。
少し歪でも、ひとつの星屑みさきとして受け取れていた。
けれど、そこへ梅村さんは横から刃を差し込んだ。
もし彼女に明確な変化がなかったのなら、途中で本人とAIが入れ替わったと考えるより、最初からずっとAIだったと見るほうが自然だとさえ言えてしまう。
それでも、病室で見たあの身体と、画面越しにこちらの声へ返ってきたあの反応が、まるで無関係だったとは思いたくなかった。
配信の向こうにいた彼女のどこかには、本人であるはずの何かが残っているんじゃないかと、まだそう信じたかった。
最初は、彼女はAIであると疑って、AIである証拠を集めていた。
それが今では、彼女が人間であってほしいと願い、人間である証拠を探そうとしている。
いつの間にか、ベクトルがまるごと反転している。
そのことがおかしくて、乾いた笑いにもならない息だけが漏れた。
隣にそっと視線を向ける。
そこに答えがあるはずなのに、彼女は何も教えてくれない。
直接問い正したいのに、そのための言葉が喉の奥で止まってしまう。
いつまでもここに立っていても仕方がない。
答えの出ない疑問をそのまま背負って、俺は人の流れにまぎれ歩き出した。
星さんは、結局何も言わなかった。
普段ならこの息苦しさを散らすように、何かしら言葉を返してくるはずなのに、今は沈黙だけが続く。
◆ ◆ ◆
研究室の扉を開けると、冷房の風が流れ込んできた。
室内はしんと静まり返っている。
部屋にいたのは西田だけで、姫島や森下の姿はなかった。
その西田は、窓際の席で旅行のパンフレットを何冊も机へ広げている。
熊本、沖縄、北海道。
国内のものに混じって、ハワイやグアムまである。
色の派手な表紙が何枚も重なり、その端から覗いた一冊には、清水寺の舞台と京都の町並みが大きく載っていた。
「あ、藤宮さん、ちわっす。今日は遅めでしたね」
いつも通りの調子で、軽く手を上げる。
「ちょっと出掛けに用事があってな」
部屋の隅へちらっと目をやると、星さんが壁際に寄ったまま、所在なさげに立っていた。
暗い表情をしている。
やっぱり、さっきの梅村さんとのことが気になっているのだろうか。
今は気にしても仕方ない。
引きずっても答えは出ない。
意識を無理やり切り替えて、西田のほうへ向き直る。
「で、何見てたんだ」
「旅行のパンフレットですよ」
「ふうん。どこか旅行に行く予定でもあるのか?」
「まだ何も決めてないんですけど、卒業旅行しないかって話をかなさんとしていて」
そこで少しだけ、照れたように笑う。
「そうか。もうあと半年で卒業だもんな」
「そうなんですよ。学生時代の最後の思い出、後悔はしたくないっすからね」
いつもちゃらんぽらんとしている西田にしては、妙に真面目な顔だった。
「で、どこに行くんだ?」
「海外って言いたいとこだけど、金もないし、国内のどこかかなって感じっす」
「まあ、近場で旅行って方が、気楽でいいかもな」
視界の端に、京都のパンフレットがちらりと映った。
写真に写る清水寺の舞台と、その向こうへ広がる町並みを見て、星さんと歩いた京都の景色がまとめて蘇る。
「そういえば、藤宮さんも夏休み旅行行ってなかったですか」
「ああ、帰省のついでにな」
口にした瞬間、胸の奥が小さく波立った。
あのとき隣で笑っていたのは、本物の星さんじゃなかったのかもしれない。
じゃあ、俺は誰と歩いていたんだろう。
視界の端で、星さんはまだ部屋の隅にいた。
あのときみたいに勝手に話へ割って入ってくることもない。
ただ無言で立っているだけなのに、そのぶん部屋の空気だけが重くなる。
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
「それで、旅行のときなんですが」
西田は声をひそめて身を乗り出した。
「例のスマートグラスを、ちょっと貸してもらえないかなって」
「貸さんぞ」
思ったより硬い声になった。
西田の笑いが一瞬だけ止まる。
「ですよねー」
西田は苦笑して、すぐに身を引いた。
外見が好みじゃないから、グラスで別人を映します。
西田の行動を言葉にすると、それはひどく失礼な話に思えた。
かなさんには何も言われないのだろうか。
「なぁ、お前がスマートグラス使おうとするの、かなさんは何も言わないのか?」
西田はパンフレットの端を指でそろえながら、素直にうなずいた。
「俺もそう思って、一応聞いたんすよ」
「ほう……それで?」
「別に気にしないって言ってました。
本物にこだわって苦しい思いするくらいなら、偽物でいいから楽しく過ごしてほしいって」
豪快な顔に似合わず、随分と健気なことを言う人だったのが、ちょっと意外だった。
「……いい彼女じゃないか」
「ほんとっすよねー」
西田はへらっと笑ったが、その笑い方はいつもより少しだけ小さかった。
「だから、いつまでも甘えてばっかも違うなって。自分でもなんとかしてみます」
本当の自分をそのまま見てもらえなくても、相手が喜ぶならそれでいい。
そう言えるかなさんにも、その言葉へ甘え切る気はないらしい西田にも、俺は少し感心した。
◆ ◆ ◆
昼になり学食へ向かおうと研究室棟の階段を下りかけたところで、踊り場の端に白茶の塊が見えた。
「また入り込んでるのか」
壁際で丸くなっている猫は、近づいても逃げる気配がない。
片目だけ開けてこちらを見て、それから面倒そうに閉じた。
俺は階段の途中でしゃがみ込む。
指先を差し出すと、猫は一度だけ鼻先を寄せ、それから気まぐれみたいに頬を擦りつけてきた。
「あ、シュレーディンガー」
下から声がした。
視線を向けると、姫島が下の階から上がってくる。
数段手前で足を止め、そのまま猫のほうへ手を伸ばした。
「先輩だけずるいです」
「は? 何がずるいんだ?」
「その子、私が近づくと結構な確率で逃げるんですよ」
「ああ、猫は警戒心が強いからな。そうやって自分からがっつく奴は苦手なんだよ」
姫島は口を尖らせたまま、伸ばしかけた手をわずかに引っ込めた。
理屈では理解しているが、触れにいく衝動を隠しきれていない顔をしている。
「それにしても、こいつシュレーディンガーって名前だったのか? 初めて知ったぞ」
「いえ、私が勝手に呼んでるだけです」
姫島がしれっと言う。
「なんだそれ」
「みんな適当に自分でつけた名前で呼んでて、本当の名前は誰も知らないみたいです」
タマ、シロ、大三元、ダイゴロウ。
そんな呼び名がいくつもあるらしい。
「それでお前はシュレーディンガーか。それを猫の名前にするのはひどくないか」
「そうですか? 他にも何人かそう呼んでましたよ?」
「……理系人間はその名前付けたがるよな。意味わかってる?」
姫島はしゃがんだまま、少しだけ首を傾げた。
「量子力学の思考実験ですよね。
観測されるまで猫は生きているか死んでいるかわからないっていう」
「まぁ、そうだな。
正確には、観測されるまでは生きている状態と死んでいる状態が重なっている。
だけどな」
状態が重なっている、か。
「私、量子論って苦手なんですよね。どちらもありえるとか意味わからないです」
そう言いながら、姫島は猫の背中をそっと撫でたまま、うれしそうに口元を緩めていた。
そうか。
どちらかとは限らない。
どちらもありうるのか。
星さんはAIか人間か。
どちらかとは限らない。
どちらもありえる。
彼女も箱から引きずり出して観測したら、どちらかわかるのだろうか。
いや、違うな。
どちらかに決まってしまうのか。
梅村さんは、星さんはAIだと決めてしまったいた。
じゃあ、俺はどうするんだろう。
どちらかに決める必要は、本当にあるんだろうか。
「難しい顔して、どうしたんですか?」
我に返って姫島のほうを見る。
考え込んでいた顔を見られていたらしい。
「西田が卒業旅行の話してたから、卒業したらもうこいつとも会えないんだろうなって思っただけだ」
別に誤魔化す必要もなかったのに、つい取り繕うみたいな言葉が先に出た。
「先輩、卒業したら私とも会えなくなるんですよ?」
寂しくないんですか、と言外に訴えるような視線をこちらに向けてくる。
「そうだな。学生生活が終わるのは寂しいな」
「そっちですか……まあいいです」
あっさり引き下がった姫島は、どこかほくそ笑んでいるようにも見えた。
けれど俺は、また星さんのことを考え始めていて、そこまで気に留めなかった。
目の前にいる、複数の名前を持つ猫を撫でながら、星さんのことを考える。
俺にとって、彼女は何なのか。
しかし、結局答えは出なかった。
少なくとも今の俺にとって、星さんは星さんでしかない。
AIか人間か、どちらへ寄せて呼んだところで、そのこと自体は変わらない気がした。
ふとグラスへ目をやると、星さんが姫島の隣にしゃがみ込み、猫を撫でる手元を羨ましそうに見ていた。
自分も触れようとしてそっと手を伸ばすが、仮想の指先は毛並みを何事もなくすり抜けていく。
あれが本人の意思で猫を愛でようとしているのか、AIが「本人ならそうする」と推測してそう振る舞っているのか、俺にはわからない。
◆ ◆ ◆
帰るころには、窓の外の景色が、夕方の鈍色に沈んでいた。
部屋へ入って靴を脱ぎ、鞄をいつもの位置へ置く。
朝からずっと一緒にいたはずなのに、家へ戻ってから改めて見ると、星さんの沈黙は大学にいるときより深く感じられた。
窓際に立つ彼女は、薄い茜色の光を背にしていた。
外を見ているのか、ガラスに映る部屋の中を見ているのかも分からない。
梅村さんから話を聞いてから、今日一日、ずっと彼女が誰なのかを考えていた。
結局、答えは出なかった。
たぶんこの答えは、これから先も永遠に出ない気がした。
でも、考えるべきは、そこじゃなかった。
決めるべきなのは、俺が彼女をどう思っているかだけだった。
最初に星さんと向き合ったときは、俺は彼女をただのAIだと思っていた。
けれど渋谷の公園で、その向こうには本人がいるのだと告げられ、ただのプログラムではないと意識させられた。
京都の旅行やくだらない合コンや、なんでもない夏の日々を、ずっと彼女と過ごしてきた。
今更ただのプログラムでした、と言われてもこの思い出が嘘だったとは思えない。
そこにいるのは、俺にとっては星さんだ。
AIでも、人間でも、そのあいだの何かでも、そのことだけは揺らがなかった。
だったら、いま考えるべきなのは正体の確定じゃない。
朝からずっと沈んだままの推しのために、俺に何ができるかだ。
そう考えたとき、八十神さんのことが脳裏に浮かんだ。
あの人なら、梅村さんのことも知っているはずだ。
それがわかれば、星さんが沈んでいる理由も見えてくるかもしれない。
そうなれば、俺にも何かできるはずだ。
「……星さん」
呼ぶと、彼女は何も言わないまま、その場に立っている。
「八十神さんに聞きたいことがあります。アポイントを取ってもらえませんか」




