40話
アラームの電子音で目が覚めた。
枕元の目覚ましをつかんで止め、まだ重いまぶたのまま時間を見る。
設定したはずの時刻より、三十分早い。
眠気でにじむ視界の中、ベッド脇に立てかけたスマホへ恨めしげな視線を投げる。
「……何度目ですか」
低く漏れた声が、部屋に落ちる。
ベッド脇のスマホから、こちらを見ていた星さんの笑い声が返る。
「共同生活なんだから、わたしが起きたなら君も起きないとでしょ」
「横暴過ぎませんか……」
「あははは、文句言わない。早く起きていっぱい遊ぼう」
暇を持て余すと、こうしてこっそりアラームを早める。
星さんがうちへ来たばかりのころから、何度もやられたいたずらだった。
迷惑なのに変わりはないが、今日はどこか懐かしい。
こういうしょうもない悪戯をされると、またいつも通りの朝が戻ってきた気がして、それだけで少し満たされる。
洗面所で顔を洗い、水を飲み、適当な服に着替えて戻る。
スマートグラスを掛けると、隣に立ってこちらを覗き込んでいる彼女が映る。
いつごろからか、グラスをかけることで突然現れる彼女にも驚かなくなった。
「あれ? 驚かないんだね」
「もうさすがに慣れましたよ」
「ふぅん、そうなんだ。慣れるくらい何度もやってたんだね」
視線が、わずかに揺れた。
記憶喪失と彼女はいうが、一体どこまでの記憶があるのだろうか。
どこまで覚えて……いや、知っているのだろう。
彼女が知らない間の"彼女"は、いったい誰だったのか。
喉の奥に引っかかった問いが、そのまま言葉になりかける。
「……あの」
「うん?」
小さく首を傾げる仕草があまりに素直で、続きを飲み込んだ。
このことを直接問いただして、真実を知りたい気持ちはある。
けれど、確かめるのが怖かった。
彼女の境界をはっきりさせた途端、自分がこれまで信じていたものまで崩れていきそうで怖い。
今こうして目の前にいる彼女が、どこからどこまで“彼女”なのか。
その答えを知った瞬間、もう同じようには見られなくなる気がした。
「……いや、なんでもないです」
「あははは、変なの。まあいいけどね」
肩を揺らして笑う彼女は、いつもの星さんにしか見えなかった。
結局、俺は確かめられなかった。
星さんのほうも、自分からこの話をするつもりは無いのだろう。
二人の間で、八月の記憶は暗黙のタブーになっていた。
きっとこれでよかったのだと思う。
興味本位で真実を暴いて、それを知ってどうするというのか。
無理に知る必要はない。
このままの関係が、ずっと続けばいい。
……そう思っていたのに、真実は思いもよらない形でやってきた。
◆ ◆ ◆
家を出て駅へ向かう道に出ると、向かいから来た女性がこちらを見て足を止めた。
「藤宮悠さんですね」
目の前の女性は、二十代後半くらいに見えた。
白いブラウスに、色味を抑えたジャケット。
肩までの髪はきっちりまとめられていて、薄い化粧も服の皺ひとつない。
「え? 違います」
「え? あ、えっと……」
女性は手元のスマホと俺の顔を交互に見ながら、何か言いかけては口を閉じた。
怪しい。
個人情報の扱いがやたらとうるさい今どき、見知らぬ相手が道端で名前を知って呼び止めてくる時点で、怪しさしかない。
関わらないほうが賢明だと判断して、軽く会釈だけして横を抜けようとする。
グラスの中の星さんも、どこか不審そうにその女性を見ていた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
すれ違いかけたところで、腕をつかまれる。
思ったより強い力に足が止まった。
「なんですか」
「わたし、こういう者です」
慌てた手つきで差し出された名刺には、ミラージュのロゴが入っていた。
名前は梅村さなえ。
肩書は、コンテンツ企画協力。
"消防署の方から来ました"みたいな怪しげな肩書だ。
「ミラージュの人が、なんでこんなところにいるんですか?」
用事があるならメールでいいはずだ。
会社の人間ならなおさらだろう。
名刺が本物らしいぶん、かえって不審さが増した。
梅村さんは一度だけ息を整えてから、声をひそめた。
「星屑みさきの件について、お話があります」
背中に、かすかな緊張が走る。
俺が星さんの関係者だと知っている人間は、そう多くない。
どうしてこの人がそこまで知っているのか、それだけで警戒が一段深くなる。
グラスの中では、星さんが俺の背中へ半歩隠れるみたいに立っていた。
相手には見えないのだから意味なんてないのに、その仕草がおかしくて苦笑しそうになる。
「星屑みさき。私は、彼女がAIだと知っています」
「……どういう意味ですか?」
「私は本物のみさきの友人です。彼女がALS末期であることも知っています」
朝の住宅街を、自転車が一台すり抜けていく。
誰かに聞かれて困る話なのは、梅村さんのほうも分かっているらしかった。
彼女は周囲を一度見てから、もう一歩だけこちらへ寄る。
「ここで立ち話をするのもなんですので、喫茶店にでも入りませんか」
断るべきだろうか、隣へ視線をやり、その反応を待つ。
グラスの中の星さんは、今度は俺の背中には隠れず、梅村さんの正面に立っていた。
黙ったまま、その顔を真っ直ぐ見ている。
いつもの軽い笑みが、そこにはなかった。
ただ黙ったまま、目だけが彼女をまっすぐ追っている。
この二人の関係が、どんなものなのかはまだ良くわからない。
ただ、少なくとも知り合いなのは確かだと、その顔を見て思った。
黙ったまま見返すと、梅村さんはそれ以上強くは言わず、ただ待っていた。
「……話だけなら」
そう言って、俺は小さくうなずいた。
◆ ◆ ◆
連れ立って入った喫茶店は、駅前の通りから少し外れたところにある古い店だった。
磨りガラスの向こうに白い日差しがたまっている。
午前の半端な時間で客は少なく、スプーンの当たる音だけが時々浮いた。
奥の四人掛けのテーブルに座る。
星さんは何も言わず、俺の隣へ腰を下ろす。
梅村さんはメニューを手に取ってこちらへ差し出した。
「ご自由にどうぞ」
ついさっき朝飯を食べたばかりなんだけどな、と思いながらも、何も頼まないのも落ち着かない。
開いたメニューの端にあるホットサンドとアイスコーヒーを適当に選ぶ。
店員が水を置いて、注文を取りに来た。
「ミックスサンドと、アイスコーヒーで」
「私は季節限定パフェと、ホットで」
思わず顔を上げた。
大事な話があるんじゃなかったのか、なんでそんな重ためのスイーツを頼むんだ。
店員は慣れた調子で注文を繰り返し、去っていく。
目の前の女性は何事もなかったように水へ口をつける。
どういう人なのか、まったく掴めない。
運ばれてきた季節限定パフェは、グラスの中に果物とクリームがやたらきれいに積まれていた。
梅村さんはスプーンを入れると、本当においしそうに食べ始める。
ひと口、ふた口、み口。
そのあいだも、話を切り出す気配はない。
こっちは先にホットサンドを食べ終えて、氷の溶けかけたアイスコーヒーへ口をつけながら、いつ話を切り出すのか待っている。
けれど、向かいの人はまだパフェを崩しているだけで、一向に動く気配がなかった。
さすがに焦れて、先に口を開く。
「……そろそろ本題に入ってもらっていいですか」
パフェに夢中になっていた彼女は、はっとしたみたいに顔を上げた。
「失礼しました」
言いながら、食べかけのパフェを名残惜しそうに少し横へ寄せる。
そこでようやく鞄から薄いクリアファイルを出し、テーブルの端へ置いた。
「藤宮さんは、AIに本物のみさきから脳波の信号が送られていることを知っていますか」
「……知ってます」
「送られた信号をAIが解析することで、本人の意思を再現していると言っていますが、これについてどう思いますか」
急に面接みたいな問い方をされて、一瞬返事に詰まる。
「どうって……すごい技術だと思います」
脳波を使ってゲームを操作してクリアする動画なら見たことがある。
技術の進歩というのはすごい、と純粋に感心していた。
梅村さんは少しだけ黙ってから、こちらを見た。
「……本当に、そんなことが出来ると思いますか?」
「でも、実際そういう技術なんじゃないんですか」
その答えを聞いて彼女は、わずかに視線を落とした。
「私も、最初はそう思っていました」
そこで初めて、梅村さんはクリアファイルへ手を伸ばした。
薄い表紙を開きながら、こちらを見る。
「藤宮さんは、八月の間ずっとみさきと一緒にいましたか」
「そう、ですね。ほぼずっと一緒でした」
帰省のとき、一度は置いていこうかとも思った。
けれど結局連れて行ったから、八月の大半はずっと一緒にいたことになる。
「その間、とくに変わった出来事はありませんでしたか」
「とくにはないですね」
フリーズを起こしたのは九月に入ってからだし、八月の間に目立った変化があった記憶もない。
梅村さんは、クリアファイルの中の一枚を指先で押さえた。
中から数字が並んだ紙を何枚か取り出して、机へ広げる。
「これは、八月のあいだの脳波の送信記録です」
いくつか表を見せられたが、正直よく分からない。
ただ一つだけ、時間ごとの送信データ量らしい表だけはなんとなく読めた。
「……よく分からないんですが、これがどうかしたんですか?」
梅村さんはその表の一列へ指を置く。
「八月七日から、二週間ほど0が並んでいるのは分かりますか」
言われて見直すと、確かにその区間だけきれいに0が続いていた。
八十神さんが言っていた機材の不調があった期間というのは、このときなのだろうか。
「この期間、送信したデータサイズは0です。つまり、一切のデータが送られていません」
驚きは、そこまで大きくなかった。
少なからず、そういうこともあり得るのかもしれないと、どこかで予期していたからだ。
それでも、こうして証拠みたいに突きつけられては、心に波が立たないはずもない。
八月のこの期間、帰省してからの京都旅行へ連れ立った星さんは、やはりAIだったのだ。
こめかみを押さえて、動揺が顔へ出ないようにするので精いっぱいだった。
◆ ◆ ◆
こめかみへ当てた指を離したとき、梅村さんは俺の顔を見て、何かに気づいたみたいだった。
「八月の期間を通して、目立った変化が見られなかったということは」
もったいぶるみたいに、そこで一度言葉を切る。
「AIが星屑みさきらしく振る舞うために、本人からの脳波データは必要ないということです」
本人から送られる情報がなくても、本人みたいに受け答えができる。
外から観測する人間には、彼女が本人かAIか区別するのは不可能ということか。
「彼女は、最初からずっとAIだった可能性があります」
「さすがにそれは飛躍しすぎじゃないですか?」
一部の期間は完全にAIだった、とまでは確実に言えるかもしれない。
けれど、最初からそうだった証拠はない。
脳波データを解析する技術だって、ろくに実験しないまま採用したとは思えなかった。
十分な根拠があったから、あの運用をしていたはずだ。
そう思って、横の席を見る。
星さんは、さっきから何も言ってこない。
どうして梅村さんに反論しないのか。
思っていることがあるのなら、何でもいいので言って欲しい。
まさか、本当にずっとAIだったのか。
気づけば、誰もいない隣の席をじっと見つめていたらしい。
梅村さんが、不思議そうに俺を見る。
「藤宮さん……? 大丈夫ですか?」
「あ、えぇ……大丈夫です」
大丈夫なわけがなかった。
考えることが多すぎる。
今は少し、考えを整理する時間が欲しかった。
「話を続けてもよろしいですか?」
「すみません、今日はちょっと」
そう言うと、梅村さんはあっさりと引いてくれた。
一先ず、伝えるべきことは伝えた、ということだろうか。
「続きはまたの機会に」
俺たちは連絡先だけ交換して、喫茶店を出る。
表へ出ると、梅村さんはそのまま振り返りもせず去っていった。
残された歩道の上で、隣に立つ星さんへ目を向ける。
「星さん……あなたは、誰なんですか」
彼女は、ただ黙っているだけだった。




