39話
翌日になっても、星さんの反応はなかった。
スマートグラスを覗き込んでも何も映らない。
外してレンズを拭き、もう一度掛ける。
やはり何も映らない。
スマホを手に取りアプリを開くと、昨日と同じように星さんの姿だけはあった。
画面の中にはいるのに、こちらへ反応する気配だけがない。
「星さん? どうしたんですか?」
呼んでも、返事はない。
「聞こえてますかー?」
反応はない。
「何でもいいので反応してくださいよ」
いくらなんでもいたずらが過ぎる、最初はそう思って少し腹を立てていた。
だが、一日たっても変化はなく、いくら話しかけても何も返ってこない。
さすがに笑えなくなってくる。
それでも、じっと待っていることができなかった。
数分おきにスマホを持ち上げては接続表示を見て、充電残量を見て、再起動をかけて、また最初から確かめ直す。
そんなことをしたところで急に彼女が喋り出すわけでもないのに、手だけが同じ手順を何度もなぞった。
顔を洗うあいだも、スマホは洗面台の端へ立てかけたままにした。
鏡を見るより先に画面を見て、水を飲む前にも一度目をやる。
返事がないたびに胸の内側がじりじり乾いていくくせに、口から出る声だけは妙に軽かった。
「なにか怒らせるようなことしたらな謝りますから、そう言ってくださいよ」
反応はない。
「もしかして、また風呂上がりに下着のままでうろついてたの、怒ってます?」
冗談めかした茶化してみたが、状況はまるで変わらなかった。
「……何でもいいから、一回しゃべってください」
窓の外を見ると、相変わらず荒れた天気が続いている。
低く垂れた雲と、絶え間ない風に揺れる枝。
昨日中止になった花火大会の余韻が、まだ空に残っているようだった。
「あんなに花火大会を楽しみにしていたのに、どこ行ったんですか」
何もする気が起きないまま、時間だけが過ぎていく。
その空白の中で、ふと別の可能性が浮かんだ。
サーバ側で何か起きているのかもしれない。
そうなら、こっちで端末をいくらいじっても変わらないのは当然だった。
八十神さんに連絡するべきだろうか、と一瞬だけ思う。
けれど、まだサーバトラブルと決まったわけじゃない。
おまけに今日は日曜だ。
担当の誰かがまだ気づいていないだけかもしれないし、休日なら復旧が遅れていてもおかしくない。
そう考えると、ここで慌てて連絡を入れるより、もう一日待った方がいいようにも思えた。
「勘弁してくださいよ、ほんと」
半分はひとりごとで、半分は画面の中の彼女に向けたつもりだった。
そんな軽口まで出たところを見ると、実際、少しは落ち着いていたのだと思う。
待つしかないなら待てばいい。
俺のせいじゃないなら、慌てても仕方がない。
机の上のスマホも、特に異常が起きてるわけじゃない。
俺はただ待っていればいい、そのはずだ。
「いや、単に確かめるのが怖いだけだな」
俺は、いちばん都合の悪い現実からずっと目をそらしてきた。
考えたところでどうにもならないと自分に言い聞かせて、なるべくそこへ触れないようにしてきた。
本当の意味では信じないままここまで来た。
星さんは、ALS──筋萎縮性側索硬化症の末期だ。
病状の細かいことまでは知らない。
けれど、いつ終わりが訪れてもおかしくない場所にいる人だ。
そう思った瞬間、昨日までの時間が急に頼りなくなった。
渋谷で歩いた日。
盆の鈍行。
京都の坂道。
研究室で浴衣と屋台の話をしていた夜。
あれを俺は、ずっと「元気な星さん」として受け取っていた。
けれど本当は、そう見えていただけだったんだと思い始めると、どこから信じてよかったのか分からなくなる。
あの笑い方も、あの押しの強さも、全部……
そこまで考えて、頭を振った。
決めつけるには早い。
まだ何も分かっていない。
◆ ◆ ◆
月曜になっても、どこかへ出る気にはなれなかった。
朝からずっと机の前に座っていた。
何かをしようと思っても、その考え自体が途中で霧散する。
視線だけが行き場なく部屋の中をさまよって、結局またスマホのところへ戻ってきた。
スマホは立てかけたままにしてある。
画面が落ちるたびに指で触り、点いたところで数秒見つめて、また暗くなるのを待つ。
連絡が来るかどうかも分からないのに、その繰り返しだけはやめられなかった。
昼を少し回ったころ、不意にスマホの画面が明るくなった。
ほとんど同時に、スピーカーから声がした。
「藤宮君いるー? あ、居るね、よかったよかった」
立ち上がりかけて、思わず膝が机の角に当たった。
「星さん?」
「うん。聞こえる? あー、よかった。やっと繋がった」
返事がある。
明るい声だった。
昨日からずっと無音だった相手が、何事もなかったみたいな調子で呼んできただけで、胸の奥に固まっていたものが少しだけほどける。
彼女が戻ってきた安堵と、またすぐ消えてしまうのではないかという不安が同時に押し寄せ、持ち上げたスマホがわずかに震える。
スマホを両手で支え直し、動揺を表に出さないように声だけはいつも通りに整えた。
「聞こえてますよ。……ほんと、どこに行ってたんですか」
そこで終わらせると何かが漏れそうで、慌てて次の言葉を足した。
「ちゃんとどこに行くか言ってくださいよ。さすがに心配になりますよ」
軽く笑ったつもりだった。
けれど、自分の声は思ったより平たくて、冗談としてきれいに着地してくれない。
机へ置いたあとの右手も、まだ細かく震えていた。
「それで、何があったんですか。一昨日からずっと、二日も何やってたんですか」
「いやー、ごめんごめん。えーっと、まず結論から言うね」
彼女はそこだけやけに明るく言って、ためらいもなく続けた。
「わたし、記憶喪失になっちゃった。あははは」
「……は? 記憶喪失?」
予想外の言葉で考えが追い付かない。
彼女のあっさりした口調のせいで、現実味がなくて余計に怖い。
机の端へスマホを置く。
指先の震えがまだ止まらない。
表情まで引きつらないように、口元だけ先に整えた。
「まったく、どこに記憶落としてきたんですか? 俺が探しに行きますよ」
自分でも驚くくらい、会話の体裁だけを守るための軽口が出た。
「いや、そこがちょっと気持ち悪くてさ」
「お化けが出そうな廃墟ビルとか言わないでくださいよ? 俺もそういうの苦手なんで」
彼女は困ったというより、どう扱えばいいのか分からないといった調子で続けた。
「実はさ、先月のことが良く思い出せないんだよね」
明るい。
軽い。
いつもの彼女の声だ。
「いや、ちょっと違うかな。本当は分かるんだけど、なんていうか、説明が難しいな」
自分の身に何が起きたのか、自分でも理解できていない感じなのだろうか。
"本当は分かる"、というのはどういう意味だろうか。
「……ちょっとうまく説明できないや、おじさんが詳しいんでちょっと代わるね」
画面が切り替わり、すぐに通話の着信音が鳴った。
◆ ◆ ◆
通話へ出ると、八十神さんの姿が映る。
最後に会ったのは真相を知らされた後、この星さんのスマホを受け取ったときだっただろうか。
「やあ、久しぶりだね。二か月ぶりくらいかな、突然のことですまないね」
「あの、一体、何かあったんですか」
迷いが一瞬よぎったが、すぐに覚悟を決め、単刀直入に切り込んだ。
「まず確認なんだが、そのみさきはただのAIじゃなく、病室の彼女の脳波信号を受け取って動いている。
このことはもう知っているんだね?」
「……はい、聞きました。その信号をAIが解読することで会話をしているって」
渋谷のあの夜、彼女から聞かされたことを思い返し、慎重に答える。
「そうだ。
そして、AIに信号を送ると同時に、君の手元にあるデバイスの、カメラとマイクから映像と音声を拾っている」
「はい、それは、なんとなく理解してます」
「その機材に不具合が起きてね。映像と音声が拾えていなかったようなんだ」
八十神さんは、俺の反応を確認しながら、淡々とした口調のまま説明を続ける。
「機材の不調は直ったんだが、拾えていなかった期間の本人の記憶と、AIの記録が大きくズレていてね、うまくAIが動かなくなってしまったんだ」
それが一昨日から起きていたフリーズの原因だった。
「じゃあ、星さんの容態が急変したとかではないんですね」
「ああ、本人は相変わらず元気……とは言えないが、容態に変わりはない」
よかった、と思った。
その瞬間だけ、肩から力が抜けた。
背もたれに預けた体が少し沈む。
ずっと強ばっていた指先も、ようやく開く。
安堵したのはほんの一瞬だった。
息をついた直後、今度は別の引っかかりが喉元へ戻ってくる。
「じゃあ、記憶喪失っていうのはどういうことですか。
病状が悪化して、記憶に障害が出たとかではないんですか」
八十神さんはすぐには答えなかった。
こちらの呼吸が少し落ち着くのを待つかのように、画面の向こうで一拍だけ間を置く。
「さっきも言ったが、そちらの状況を拾えていない期間が長くてね。
AI側に記録を残しておいたままだと、同期がうまく取れなくなってしまったんだ」
「同期……ですか」
言葉の意味だけなら分かる。
八十神さんの説明を取り落とさないように、遅れてきた理解を懸命に拾い直す。
「そこで、情報が届いていなかった期間のAI側の記録を封印することにしたんだ」
「じゃあ、記憶喪失っていうのは?」
「本当に記憶がなくなったわけじゃない。
その期間のことは忘れたことにして、再スタートを切った。
そういうことだ」
帰省旅行や合コンでの出来事を、本物の彼女は知らない。
AI側にだけ記録を残しておいても、そこに齟齬が出る。
なら、その記録を使えないようにして整合性を取った、ということか。
あの夏の思い出が消えてしまったみたいで、残念ではある。
けれど今は、星さんがまた戻ってきてくれただけで十分だった。
「今回の件を受けて、再発防止などの検討はこちらで進めている。
きみは今まで通りでいてほしい」
「……分かりました」
「何かあれば、こちらから伝える」
そこでスマホの画面が切り替わる。
「はいはい、交代。ほら、ちゃんと生きてるから。藤宮君、声が暗い」
◆ ◆ ◆
ほんの少し前まで、ただ声が戻ることだけを待っていたはずなのに、いざ本当に戻ってくると、今度はどんな顔で接したらいいのか分からなくなる。
「おーい、聞こえてる?」
「はい、聞こえてます」
「うん。それならよかった」
ただ、それだけだった。
前なら、そこで終わらないはずだった。
軽口を二つ三つ重ねて、空気ごと引き寄せてくるはずなのに、今日はその先が続かない。
画面の中の彼女が一度だけ視線を泳がせる。
俺も次の言葉を探したまま、口を閉じた。
通話の向こうに、気まずい沈黙だけが長く垂れる。
先に口を開いたのは、星さんの方だった。
「心配かけてごめんね」
「もう突然いなくならないでくださいよ」
「あははは、そうだね、また七味に心配かけちゃうね」
その言葉を聞いた瞬間、二年前の思い出がよみがえる。
何の前触れもなく訪れた、突然の卒業発表。
SNSでは、喪失の悲しみと帰還への願いであふれていた。
嘆きと困惑が混じり合い、整理のつかないまま流れ続けていた。
「あのときはさ、わたしも自分のことでいっぱいで、七味のことまで気が回らなかったんだよね。
悲しませてごめん」
彼女は一度だけ視線を落としてうつむくが、すぐにこちらを見直し、気まずそうに笑った。
「みんなの言葉、ちゃんと届いていたよ。
君たちが想ってくれたから、わたしはどんなことをしても戻って来ようって思えたんだよ」
胸の奥で、強ばっていた何かが少しだけほどけた。
戻ってきてくれてよかった、と心の底から思う。
夏の思い出は消えてしまったのかもしれない。
それでも、彼女がそこにいる限り、また思い出を積み重ねていくことはできる。
終わりがあると知ったからって、この気持ちが引き返すわけじゃない。
むしろ逆だ。
一分でも一秒でも長く、彼女と一緒にいたい。
その願いだけは、前よりずっとはっきり心に残った。
彼女には、どこまで夏の思い出が残っているのだろうか。
京都に行ったことも、もう覚えていないのだろうか。
そこまで考えたところで、何かが決定的に噛み合っていないと気づいた。
……覚えていない?
違う。
彼女は、知らないんだ。
夏の間、彼女は何も受け取っていない。
忘れたんじゃない。
最初から、知らないんだ。
じゃあ、あの夏の間、俺の隣にいた彼女はいったい誰なんだ?




