33話
コンビニの前で腹だけは落ち着いたが、来た道の感覚までは戻らなかった。
駅へ向かうつもりで何度か角を曲がったはずなのに、気づけば見覚えのない道へ出ていた。
人の流れについてきただけで歩いていたせいか、いま自分がどっちを向いているのか、よく分からなくなる。
戻る道を確認しようとして足を止め、あたりを見渡すと、東福寺の案内板が目に入った。
「なんか有名なところらしいから、ちょっと寄って行かない?」
「時間なくなりますよ」
「ちょっとだけ、外から軽く見るだけだから」
「まあ、それなら」
言ったそばから怪しいと思ったが、ここまで来て案内板だけ見て通り過ぎるのも、味気ない気がした。
観光客の流れに紛れて門の方へ向かう。
大きな門の向こうには木々の影が濃く落ちていて、さっきまで歩いていた車道わきの光景より、空気そのものが一段静かだった。
石畳の上へ入っただけで、足音まで少し控えめになる。
外から少し覗くだけのはずだったのに、緑に囲まれた通路や古い堂を横目に歩いているうち、思ったより長居してしまっていた。
門を出ると、似たような道と塀が続き、また方向感覚が切れていた。
「これ、どっち行けばいいんだろう?」
「あ、じゃあわたしがナビしてあげるよ」
「それじゃ、お願いしていいですか」
星さんは隣で、どこからか地図を取り出すと、自分たちの居場所をさがすような仕草を見せる。
「えっと、100m先を南ね。
そこから50m進んだら東南に30m行ったところで東へ80m……」
「方角で言われてもわかりませんよ」
「えー……」
星さんは不満そうに口を尖らせ、それから少し考え込んだ。
「じゃあ、わたしが先導してあげるよ」
次の瞬間、星さんは俺の少し前へ出た。
白いワンピースの裾を揺らしながら現実の道の上を軽やかに歩き、曲がり角まで行くたびに立ち止まって振り返る。
こっちこっち、とでも言いたげに小さく手を振るその仕草だけで、次にどちらへ進めばいいのかすぐ分かった。
「あ、これなら分かりやすいですね」
「でしょ。ちゃんとついてきてよ」
星さんの背中を追って歩く。
交差点へ来るたび、彼女は少し先で待っていて、俺が追いつくとまた軽い足取りで次の道へ入っていく。
現実には誰もいない道の上を、虚構の彼女が先導してくれる。
「他の人には見えない誰かに案内されてると、なんだか別の世界に連れていかれそうな感じがしますね」
「おばけとか出してみる?」
「ホラーは結構です」
最初のうちは本当に順調だった。
星さんは迷いなく次の道へ入っていき、俺もそのあとをついていけばよかった。
けれど、しばらくしてから引っかかった。
さっきから、有名どころらしい門や社ばかり経由している気がする。
どうにも最短で移動している感じがしない。
「なにかおかしくないですか?」
「そんなことないよ」
返事が妙に早い。
怪しい。
立ち止まり、ポケットからスマホを出して地図を開く。
現在地の青い点を見た瞬間、ため息が出そうになった。
星さんがさっきまで得意げに先導していたのは、伏見稲荷へ向かう筋からだいぶ外れた道だった。
「やっぱり、わざと違うほうへ連れてきてましたね」
「だって、もっと一杯まわりたかったんだよ。わたしは悪くない」
悪びれずに言い切るあたりがひどい。
道草をしながら歩いていたせいで、いつの間にか日が傾いていた。
西へ傾いた光が道の端へ長く伸びて、さっきまでの暑さも少しずつ色を変えていく。
スマホで時間を確認して、今度こそ足を止めた。
「もう戻らないと帰れなくなりますね」
「え? もうそんな時間なの?」
「伏見稲荷は寄ってる時間なさそうですね」
「え、嫌だ、行きたい」
「そうは言っても時間ないですよ」
「行きたいー!行きたいー!」
地面の上で寝そべり、子供が駄々を捏ねるようにじたばたして見せる。
「せめて鳥居がいっぱいあるところは行きたいー!」
「あー、千本鳥居ですか、有名な場所ですよね。そこは自分もちょっと行ってみたかったな」
「ほんと?じゃあ行こう!」
結局こうなる。
ため息を一つついて、観念したように歩き出した。
千本鳥居へ着いたころには、空はもう夕方の色へ沈みかけていた。
鳥居の朱は昼よりも深く見え、同じ形の門がいくつも重なるだけで、現実の景色から少しずつ切り離されていくみたいだった。
参道を進み、鳥居が密に続くあたりまで入る。
日の傾いた光が赤い柱のあいだへ斜めに差し込み、影の層まで増やしていた。
人はいる。
足音も話し声も消えてはいない。
それなのに、視界の奥だけは不思議と静かで、意識の一部が別の場所へ引っ張られていく。
「幽玄ってやつですかね。
意識だけが別の世界に入り込むような、不思議な感覚がありますね」
「バーチャルな世界で生きるわたしみたいな感じなのかな?」
「うーん、なんか言葉にすると安っぽくなりますね」
古い宗教の気配と、視界に投影された彼女の姿。
時代も由来もまるで違うのに、現実の境界をほんの少し曖昧にして、別の世界が隣にあると思わせるところだけは似ているのかもしれなかった。
夕暮れの鳥居のあいだで笑う星さんは、いつもより少しだけ輪郭が薄く見えた。
赤い柱の隙間から抜ける光に透けて、そのままどこかへ消えてしまいそうな儚さがあった。
それからしばらく歩いた。
けれど、いくら進んでも鳥居の列が終わらない。
似たような朱の門と石畳がどこまでも続き、さっき通ったはずの景色までまた目の前へ戻ってきたような気がした。
また、彼女のいたずらだ。
「またですか。いい加減にしてくださいよ」
返事はない。
「どうせ同じ場所をぐるぐる回るように見せてるだけでしょ」
やっぱり返事はない。
歩いている感覚そのものはちゃんとある。
なら、急に曲がったり、歩幅を変えたりしたとき、動きと視覚のどこかにずれが出るはずだった。
そう考えると、これはこれで少しゲームみたいでもある。
何度か脇へ寄ろうとしたり、立ち止まってから急に歩き出したりしてみる。
けれど、鳥居の並びは何事もなかったみたいに続いていた。
出口らしい切れ目は、いつまで経っても見つからない。
他の観光客がいれば、その人たちの動きで分かるはずだと思った。
けれど、気づけば周囲に人影がない。
いや、違う。
いないんじゃない。
映像を加工して、いないように見せているだけだ。
朱の鳥居が途切れなく続くうち、色の境目が曖昧になっていく。
影はどこまでも同じ形で落ち、足音だけがやけに遠く響く。
時間の感覚が、ゆっくりとほどけていくみたいだった。
「分かりました。降参です。もう本当に帰らないと時間がないんですよ」
それでも返事はなかった。
しかたない、とスマートグラスの縁へ手をかける。
「帰っちゃうの?」
その一言だけ、さっきまでのいたずらっぽさが薄かった。
外してしまえば、すぐ現実へ戻れる。
そう分かっているのに、指先が止まる。
このままさらに奥へ進めば、この世とは違う別の世界に本当に行けるんじゃないか。
そんな馬鹿げた期待が、頭から離れなかった。
もしかしたらそこなら、画面越しにしか見えない彼女にも触れられるようになるんじゃないか。
「はあ……わかりました。気が済むまで付き合いますよ」
結局、グラスを外すことはできず、そのまま歩き続けた。
どれだけ歩いたか分からない。
気づくと、鳥居から抜けていた。
辺りを見回すと、日もすっかり暮れていた。
「今の、またいたずらでしたよね」
「なんのこと?」
「まあ、いいんですけどね」
あれはいたずらだったのだろう。
映像を歪め、見えている景色を別のものにすり替える、ただの作り物の仕掛け。
虚構の存在。
けれど、自分の体験まで虚構になるわけじゃない。
迷い、苛立ち、考え、歩き続けた感覚は、自分自身が味わった本物の体験だった。
「大分暗くなってきましたね」
「うん……じゃあ、帰ろうか」
駅までの道を半ば駆けるように戻り、改札を抜けてホームへ滑り込む。
乗り換え案内を何度も見直しながら、どうにか間に合った列車へ乗り込んだところで、ようやく息がつけた。
扉が閉まると同時に、全身から一気に力が抜ける。
座席へ腰を下ろした瞬間、今日は本当に朝から歩き回っていたのだと実感した。
「さすがに疲れましたね」
「いっぱい歩いたね。おつかれさま」
星さんは満足そうだった。
窓の外では、夜の街の灯りが細く流れていく。
さっき鳥居のあいだで消えそうに見えた星さんは、今はいつも通りの顔をしている。




