31話
八月に入ると、大学は目に見えて静かになった。
昼前だというのに講義棟の前を通っても人影は薄く、熱気だけが学内にこもっている。
蝉の声ばかりが大きく、白く乾いた日差しがアスファルトの照り返しを強くしていた。
夏休みに入ったにも関わらず、研究室は通常通り動いている。
西田はノートPCを開いたまま椅子を傾け、森下はいつもの位置で資料をめくっている。
人が少ないぶん、キーボードを叩く音や椅子の軋みがいつもよりはっきり聞こえた。
「なんで他の学生は休みなのに、研究室は休みじゃないんすかね」
西田が背もたれに体重を預けたまま愚痴を吐く。
「学部四年は毎年同じこと言うんだよな。今までが休み過ぎだったんだよ」
「大学最後の夏なのに、研究室に縛られたまま終わるんすか」
「就職したら夏休みなんてもっと短いんだから、今のうちに慣れておけ」
そう返すと、西田は嫌そうな顔をして、森下は小さく笑った。
「でも就職先はもう決まったんで、そこは気楽で良かったです」
森下が言うと、西田も頷く。
「あー、それは俺もかな。あとは卒論を間に合わせれば終わりっすからね」
「二人とも就職か。すると進学は姫島だけなんだな」
「たぶんそうっすね」
「そういえば姫島さん、最近あんまり来ないですね」
森下の言い方は軽く口にしただけで、その話題を広げる気はないらしかった。
俺もそこへ何か足すつもりはなかった。
「藤宮さんはお盆、帰省するんですか」
「あー、そうだな。就職することになったし、報告がてらにな」
「へぇー。藤宮さんの実家ってどこなんですか」
「名古屋の近くだよ」
「名古屋なら新幹線ですぐっすね。移動は楽そうだ」
「いや、毎年18きっぷつかって鈍行で帰ってる」
森下が、ちらりとこちらを見る。
「その18きっぷって何ですか」
「あぁ、普通列車が一日乗り放題になる切符だよ。一枚で3日か5日分ある」
「そんなのがあるんですね」
「帰省するときは大体、18きっぷで帰って残りを使って小旅行って感じだな」
そこで、さっきまで黙っていた星さんが不意に口を挟んだ。
「え? 旅行行くの? わたしも行く」
◆ ◆ ◆
帰省前日の夜、床に置いたボストンバッグへ着替えを詰めながら、何度も手が止まった。
数日分の服と充電器、それから暇つぶし用の本。
荷物そのものは大した量ではない。
迷っているのは別のところだった。
星さんを連れて行くのか、置いていくのか。
考え始めると、その言い方からしてしっくりこなかった。
スマホを持って帰るだけだと言ってしまえばそれまでなのに、それで片づけてしまうのも何か違う。
ベッドの上に投げてあったタオルを畳み直していると、耳元で呆れたような声がした。
「ねぇ、さっきから何を悩んでるの?」
「あなたを連れていくかどうかですよ」
「はあ? 置いていく選択肢なんかないでしょ」
彼女の中では、連れていくことは決定事項らしい。
俺は頭を抱えた。
彼女を連れて行って親に見られたら、言い訳が面倒だ。
とはいえ、機械音痴なうちの親なら、こういう会話アプリだと言えば「最近の技術はすごいな」くらいで流してしまうような気もした。
「推しと旅行なんて、藤宮君は果報者だね」
「会話アプリの彼女とリアル旅行する変わり者と思われるだけですよ」
「そういえば昔も、そういうゲーム内彼女とリアル旅行する人がいなかったっけ?」
前例があるのだから平気だ、とでも言いたいのだろうか。
「どっちにしても、連れて行かないなんて許さないんだから」
そこまで言われると、もう諦めるしかなさそうだった。
「で、旅行ってどこ行くの? 北海道? 沖縄?」
「あの、話聞いてましたか? 鈍行でそんな遠くまで行けるわけないじゃないですか」
「じゃあどこ行くのさ?」
そう聞かれて、毎年の寄り道を頭の中でざっと並べる。
「俺が前に行ったのは、飛騨高山とか伊勢神宮とかですかね」
星さんはほうほうと感心したように聞いていた。
「実家から日帰りで行ける範囲で、いろいろ行くことが多いですね」
「それ、いつも一人で行ってるの」
ぼっち旅行とでも言いたいのだろうか。
「まあ、気楽な一人旅ですよ」
「ふーん」
妙に含みのある相槌を打ってから、星さんは何か思いついたみたいに続けた。
「そうだ、京都行こう」
「急ですね」
「実家から行けるところに小旅行するのが毎年の定番なんでしょ。
だったら今年は京都でいいじゃん」
ありきたりだな、と思った。
日帰りで行ける場所としてはアリだが、京都なんて旅行先の定番中の定番だ。
しかし、一人で行くには少しありきたりだが、彼女とならそれでも悪くないかもしれない。
「……まあ、いいんじゃないですか」
「よし。決まり。どこ回るかはわたしが決めていいよね?」
「どうぞ、ご随意に」
「どこがいいか調べておくね」
そう言ったきり、星さんからの反応がなくなった。
どうやら本当に調べ始めたらしい。
俺は開きっぱなしだったバッグの口を閉じながら、小さく息を吐く。
連れていくかどうかで頭を抱えていたはずなのに、気づけば行き先の話まで進んでいる。
その強引さには呆れるが、悪くないと思っている自分がいるのも否定できなかった。
◆ ◆ ◆
ホームには、朝の気配がまだ濃く残っていた。
売店はもう開いていた。
休みの時期なのに仕事がある会社員が、スーツ姿でまばらに並んでいる。
夏の空は朝から白く明るく、列車が動くたび、景色が西へ流れていった。
スマートグラスに映る星さんは、白いワンピース姿で俺の隣に立っていた。
ホームの黄色い線の内側で列車の来る方をのぞき込む仕草まで自然で、本当に一緒に電車を待っているみたいに見える。
「どう? 似合ってる」
「似合ってますけど、ちょっとあざとすぎじゃないですか」
「夏は夏らしい恰好をするものなのだよ。奇をてらってもしかたない」
「お約束って言うなら、水着のひとつもお願いしますよ」
「そんなものはない」
快速に乗って、各駅に乗り換えて、またしばらく揺られる。
住宅地が途切れて畑になり、川を渡るとまた家並みに戻る。
その繰り返しだけで、時間の進み方が普段とはまるで違っていた。
急いでいるわけでもないのに、ちゃんと前へ進んでいる感覚だけが残る。
しばらくして窓の方を見せてと言われたので、俺はスマホのカメラを車窓へ向ける。
「外の景色がそんなに楽しいですか」
「楽しいよ……」
「この辺は代わり映えない景色ばかりじゃないですか。何が楽しいんですか?」
「楽しいよ。
窓の外だけで、こんなにいろんなものが動いてる。
時間が止まったみたいな場所で、ただじっとしてるのに比べたら、ずっと楽しい」
その言い方に、言葉は喉の奥で引っかかったまま、沈黙だけが残る。
やがて昼が近くなったころ、俺は時刻表アプリを見てから立ち上がった。
「次、降りますよ」
「なんで降りるの?」
「降りて昼食にしようかと」
そう言うと、星さんは一拍置いてから、何かに思い当たったような声になった。
「そっか、藤宮君はお腹減るんだよね」
「なんだと思ってたんですか」
自分は食べなくても平気だからか、そういう当たり前のことが頭から抜けていたらしい。
商店街の角にあった食堂へ入る。
冷たい水の入ったコップ、窓際に置かれた色あせたメニュー札、少し遅い時間のゆるんだ空気。
そのどれもが、旅の途中で取る食事らしかった。
二人がけのテーブルに腰を下ろすと、向かいの空き席へ星さんにさっと座った。
そこに誰もいないと分かっていても、つい向かいを見てしまう。
日替わりを頼む。
運ばれてきたのをひと口つけたところで、向かいから星さんが身を乗り出した。
「おいしそう。わたしも食べよっかな」
そう言うなり、星さんは自分の前にバーチャルの定食をぽんと出した。
焼き魚も味噌汁も小鉢まで揃っていて、湯気だけはいかにも本物らしく見える。
「それ、味はするんですか」
「気分はばっちりだよ」
「それって意味あるんですか?」
「旅の雰囲気は味わえる」
「ははは、なんですか、それ」
食べ終わったあと、すぐには改札へ戻らず、駅のまわりを少しだけ歩いた。
線路沿いの道を少し歩くと、建物の切れ間から海が白く光って見えた。
蝉の声だけがやけに大きく、町の動きはどこかのんびりしていた。
グラスの中の星さんは、白いワンピースの裾をつまむみたいにくるりと一度回ってみせた。
現実には風なんてないのに、そこだけ海風が吹いているみたいな姿を映し出す。
「ほら。やっぱりこういう場所には、こういう格好でしょ」
「背景込みで正当化しにきましたね」
「旅情って言うのは、こういうのを積み重ねることでしょ」
派手な名所があるわけでもないが、寄り道としては十分だった。
駅に戻り、再び列車に乗るころになっても、夏の日差しはまだ高い。
そこから先は人も少なく、次の駅まで田んぼと雑木林が続く。
駅の間隔が長いぶん、車内の時間もゆっくり流れていた。
窓の外は、海の気配が切れるとそのまま田舎の景色に変わる。
低い家並みと畑、その向こうに小さな工場と山の線。
ぼんやり眺めていると、一日そのものが長く伸びていくみたいだった。
ぼんやりと外の景色を眺めているうちに、実家の最寄り駅に着いていた。
改札を抜けると、ロータリーの形は同じなのに、細かいところが少しずつ変わっていた。
前はなかった店の看板が増え、角の空き地には小さなアパートが建っている。
それでも住宅街を抜ける道順だけは身体が覚えていて、足は迷わず前へ出た。
実家の屋根が見えたところで、ようやく一日分の移動が終わった気がした。




