30話
いつもの眼鏡をスマートグラスに替えただけなのに、大学までの道がやけに長く感じた。
見た目の差はそこまで大きくない。
フレームが少し違うだけで、ぱっと見ならいつも通りで押し切れるはずだ。
なのに、人前でこれを使うこと自体がどうにも落ち着かなかった。
「そんなに身構えなくても大丈夫だと思うけどなあ」
視界の端で、星さんが気楽に笑った。
「案外、みんなそこまで見てないよ」
「そうだと助かるんですけど」
「大丈夫、大丈夫。人は他人のこと、そんなに見てないよ」
「そうだといいんですけど」
言い返しながら研究棟の階段を上る。
無意識にフレームへ触れそうになって、途中で指を止めた。
◆ ◆ ◆
研究室へ入ってからゼミが終わるまで、拍子抜けするくらい何も起きなかった。
森下はいつも通り軽く会釈しただけで、姫島も「おはようございます」と言ってすぐノートPCへ視線を落とした。
西田は遅れて飛び込んできたくせに、自分の進捗の言い訳で忙しく、俺の顔まわりまで気が回らない。
神崎准教授の前で順番に報告しているあいだも、空気はいつもの研究室のままだった。
肩透かしというか、助かったというか、落ち着かない気分のまま資料を閉じる。
ゼミを終えて、さっさと帰ろうとしたときだった。
「あれ、藤宮さん、そのメガネ変えました?」
椅子を回した西田が、いま気づいたみたいな顔でこっちを見る。
「前のと似てるけど、ちょっと違いません?」
森下も、西田の声に引かれたように顔を上げた。
「ああ、言われてみれば」
「ああ、スマートグラスってやつだよ」
短く返すと、西田の目が分かりやすく光る。
「スマートグラスって、何ですか?」
「スマホのメガネ版みたいなもんだよ」
西田は「へえ」と素直に感心した顔になる。
「レンズに映像を映したり、耳元のスピーカーで音を聞くことができる。
ウェアラブルデバイスってやつだな」
「映像とかってどうやって出すんですか?」
「スマホと連携して、映像を送って表示してる感じだな」
「なるほど」
森下も少し身を乗り出した。
「じゃあ、スマホのディスプレイ画面をそこに出す感じですか」
「そんな感じかな。あんまり何でもかんでも映すわけじゃないけど」
「これ自分で買ったんですか?」
「いや、就職先のミラージュから試供されたやつだ。この前送られてきた」
「あの、俺にもちょっと試させてもらっていいですか?」
西田が身を乗り出したまま言う。
「度が入ってるから、軽くだけな」
「やった」
眼鏡を外して手渡すと、西田は口元を緩めたまま、丁寧に受け取った。
慎重に掛けたくせに、次の瞬間にはきょろきょろし始める。
「おお……なんか右の方に出てる」
「首ごと振るなよ。酔うぞ」
「これ、すごいっすね。ほんとに画面浮いてるみたい」
森下が横から覗き込む。
「見え方どう?」
「ちょっとぼやけるけど、何か出てるのは分かる」
「お前の目に度が合ってないだけだろ」
「じゃあ、アプリもつないでみていいですか」
言うと思った。
断る間もなく、西田はもう期待した顔をしている。
軽くため息をついて、俺はスマホを取り出した。
「ほんとにちょっとだけだぞ」
「はいっ」
連携アプリを立ち上げると、待機画面のあとで星さんがひょいと現れた。
「こんにちは。見え方はどうですか?」
「うお、出た」
西田がびくっと肩を揺らす。
森下までさすがに笑った。
「会話も聞こえるんですね」
「スピーカーついてるからな」
「へえー。じゃあマジでスマホのメガネ版だ」
西田は感心したまま、画面の向こうの星さんへ手を振った。
「ははは、見えてないだろ」
西田が何もないところに向かって手を振るのを見て、森下が吹き出した。
「いや、カメラもついてるから、ちゃんと伝わってるぞ」
「カメラもあるんですか」
隣で森下が驚いているのも気にせず、西田はそのまま続けた。
「こんにちは」
「こんにちは。遅延とかはどう?」
「大丈夫そうです」
「困ったことがあったら言ってね。今日はどうする?」
西田と森下は、そのあともしばらくスマートグラスを面白がっている。
研究室の向こう側では、さっきから黙っていた姫島がその様子を見ていた。
見かねたように席を立ち、まっすぐこちらへ来た。
「先輩、少しいいですか」
◆ ◆ ◆
姫島は俺の机のそばで立ち止まる。
さっきまで黙っていたぶん、今の声には変な圧があった。
「その試供品って、ミラージュのものなんですか」
「そうだな」
「本当に就職するんですか」
「まあ、内定貰ってるしな」
姫島は一瞬だけ唇を結んでから、不自然なくらい真面目な顔のまま続けた。
「考え直しませんか。私と一緒に大学でキャンパスライフを楽しみましょう」
「無茶言うな」
「どうしてですか。やっぱり推しが近くにいる職場の方がいいって言うんですか」
「そりゃ、そっちの方が良いだろ」
「そんな、ひどい。私より昔の女がいいんですか」
「いやいやいや、間違いだらけだぞ」
横から、今まで面白がっていただけだった星さんがふいに口を挟んだ。
「姫島さんは藤宮君のどこが好きなんですか」
俺と姫島の動きがそろって止まる。
「ちょっと何を聞いてるんですか」
思わず言うと、姫島は目を丸くしたまま小さく繰り返した。
「先輩のどこが好きか……」
(嫌な予感しかしない……)
姫島は少し考えるように間を置いてから、真剣な口調で答え始めた。
「それはもちろん、将来有望株なところです」
「……と、言うと?」
星さんが完全に聞き手へ回り、さらに引き出そうと相槌を打つ。
やめてくれ。
「先輩は頭はいいですし、成績優秀で、それでいて天才肌の変人ってこともなく常識人ですし、将来すごく出世すると思うんですよね」
そこまで言ってから、姫島は一度だけ俺の顔を見る。
「さらに顔はまあそこそこで、家事も出来て、生活力もあるので、きっとわたしを養ってくれます」
俺だけじゃなく、西田も森下もそろって黙った。
姫島は気づかないまま、さらに畳みかける。
「こんな優良物件、私の人生で二度と出会うことがないからです」
「物件って言うな」
「今なら工学部マジックで先輩もイチコロなはずなんです。今しかないんです」
あきれた沈黙が落ちる。
その沈黙を押し切るように、姫島は姿勢を正した。
「だから先輩、私と結婚してください」
「偉い! よく言った! わたしは姫島さんの味方だよ」
星さんが拍手しながら割り込む。
姫島はぱっと顔を上げた。
「みさきさん……私のこと応援してくれるんですか」
「もちろん。応援するよ」
「私、みさきさんのこと誤解してた。ただの性格の悪いゴリラだとか言ってごめんなさい」
(そんなこと言ってたのか)
今、初めて知った。
星さんはその言葉を聞いても満足そうだった。
「分かればよし」
「みさきさんのお許しも貰えたし、先輩、いいですよね」
「よくないよくないよくない」
これ以上ここにいたら、本当に話が進みかねない。
そう判断した瞬間には、もう鞄へ手が伸びていた。
「先輩?」
「無理だ。今日は帰る」
西田と森下の呆れた視線を背中で受けながら、俺はそのまま研究室を逃げ出した。
◆ ◆ ◆
研究棟を出るまで、後ろは振り返らなかった。
大学の門を出たところで、ようやく息を吐く。
心臓がまだ無駄に速い。
「姫島さん、いい子じゃない」
耳元で星さんが、やたら機嫌のいい声を出した。
「どこがですか。打算まみれじゃないですか」
「あははは、自分にまっすぐなだけだよ」
「ものは言いようですね」
あきれたように言い返すと、彼女は少しだけ黙った。
さっきまで姫島を焚きつけて面白がっていたくせに、今度は急に落ち着いた調子になる。
「藤宮君は、誰か好きな人いるの?」
完全に不意を突かれた質問だった。
足が止まりかける。
「わたしにガチ恋だから他に好きな人はいない、ってのはダメだよ」
「なんでですか?」
聞かずにはいられなかった。
「わたしは七味のこと、家族だと思ってるんだよね。だから恋愛はムリ。あははは」
「……本当にそれが理由ですか?」
「あのさあ、画面に映るこの体は、ただの絵なんだよ? こんなのにガチ恋なんておかしいよ」
軽口混じりの入り方なのに、そこから先だけ冗談では済まないまっすぐさだった。
「画面の向こうのわたしを好きになってくれるのは嬉しいけど、人間は身体も含めてひとつの存在なんだから、内面だけが好きってのはダメだよ」
「外見だけが好きってより、よっぽどいいと思いますけど」
「それじゃダメだよ」
彼女の表情がわずかに陰る。
踏み込みかけた言葉を、そこで止めた。
「片方だけじゃダメなんだよ」
返事が詰まる。
言っている意味は分かる。
分かるけど、そこで線を引かれるとは思っていなかった。
「それは、ALSで自分の身体はもう動かないから、人間としての魅力はないってことですか」
口にした瞬間、自分でも最悪だと思った。
けれど、もう遅い。
「……」
星さんは何も言わなかった。
さっきまであれだけよく回っていた口が、そこでぴたりと止まる。
彼女にガチ恋ってわけではない。
かといって、冷めていると言い切れるほどでもない。
その曖昧なところに、自分でもまだ整理のついていないものが残っている。
これ以上踏み込めば、きっともう元の関係は続けられないだろう。
そんな予感だけが膨らみ、言葉を押し潰した。
「はい、この話おしまい。空気が重いから、藤宮君、帰りにアイス買って」
「いや、それ買っても食べるのは俺じゃないですか」
「あー、わたし、チョコミントがいいな」
「ちょっと待ってください。あんな歯磨き粉みたいなのを食べろっていうんですか」
「藤宮君、言ってはいけないことを言ったね。
君はいま、全国のチョコミン党を敵に回したよ」
「なんでそうなるんですか」
さっきのやり取りは、胸の奥に小さく引っかかったままだ。
それでも、彼女はもういつもの調子へ戻っていて、俺もそれ以上踏み込めないまま、その軽口に付き合って歩き出す。
結局、帰り道はいつものようなしょうもない言い合いで埋まった。




