29話
夢の中で俺は、誰かの背を追って先の見えない薄闇を走り続けた。
ようやく指先が届いた瞬間、それは霧のようにほどけて消えてしまった。
確かに声はしたはずなのに、振り返れば誰もいない。
薄闇が濃くなり、視界が閉ざされる。
踏みしめていたはずの地面が消え、足元の感覚ごとふっと抜け落ちていく。
その瞬間、ふっと目が覚めた。
耳元でやけに上機嫌な声が弾けた。
「おはよう、藤宮君。昨夜はお楽しみだったね? ね、感想は?」
声だけなら、いつもと同じだった。
なのに、その一言にまで昨夜の続きがぶら下がって聞こえる。
「……おはようございます」
「えぇー、何その気の抜けた挨拶。急に他人行儀じゃない?」
からかうような調子のくせに、彼女の方もほんの少しだけ探る響きが混じっている。
「昨夜はあんなに激しかったのに」
画面の中で彼女は、指先をいじりながら視線を落とし、照れたように笑う。
「そうですね……激しかったです。まさか朝まで付き合わされるとは思ってませんでした」
昨日の公園で話を終えたあと、微妙な空気のまま帰るのが嫌だったらしい。
リベンジと称して、結局もう一度カラオケに付き合わされた。
「昨日の俺、店員からどう見えてたと思います?」
「さあ?」
「一人でオールしてる変な奴ですよ」
「あははは、そうかも」
そう言って笑う顔が、やけにまぶしく見えた。
昨日までなら、その明るさをどこか演出として受け取れていたはずだった。
けれど今の俺は、それがただ上手く作られたものじゃないと知っている。
卒業した推しが、ある日いきなり復帰した。
追ってみれば、その真相は動けなくなった本人の代わりにAIが配信している、というものだった。
そこまででも十分ひっくり返る話だったのに、俺がずっとただのAIだと思っていたそれは、実は本人と繋がっていた。
亡くなった人間をAIで再現したのとは違う。
その先には、今も生きている彼女がいる。
画面の彼女はAIの力を借りている。
借りてはいるが、その向こうには確かに彼女本人がいる。
偽物なんかじゃなかった。
洗面台の前で水をすくい、顔に叩きつけながら、今までの出来事を頭の中で追い直す。
(じゃあ、今の俺が置かれている立場は何なんだ?)
推しとファンが同居している、ということになるのか。
言葉にするとなんだかラブコメっぽい。
彼女が本人だということは、最初に八十神に言われたAIの継続学習というのは何だったんだ。
この状況をどう解釈するのが正しいのか、そもそも俺は彼女をどう扱っていくべきなのか、考え始めると足場がなくなる。
顔を洗ったまま黙り込んだ俺を見て、画面の中の彼女が少しだけ首を傾げた。
「これからどう接するか、悩んでる?」
図星すぎて、すぐには返せなかった。
「……まあ」
「別に今までどおりでいいんだよ」
「しかし、それでは……」
言いかけると、彼女はやわらかく笑って遮った。
「もっと力抜いて。もともと私は、もう何もできずに死を待つだけだったんだから」
軽く言われたのに、その中身の重さで息が詰まる。
彼女はそこで視線を逸らさず、むしろいつもより明るい声で続けた。
「今の私があるのは、たまたま訪れた幸運みたいなものなんだよ。
ゲームでいうと、エクストラステージみたいなもの。
だからさ、深く考えすぎずに楽しめばいいの」
そんなふうに割り切れるものなのか、俺にはまだ分からない。
分からないままでも、とりあえず彼女の言葉に乗ることはできるのかもしれない。
どうするのが正解なのか、きっと答えは出ない。
それなら、立ち止まってただ時間が過ぎるのを待つより、彼女の言うとおり少し力を抜いて、目の前の今を楽しむ方がマシな気がした。
◆ ◆ ◆
数日が経ち、気づけばまた土曜になっていた。
その間、俺はできるだけ今まで通りの態度を取り繕おうとした。
話しかけられてもワザと一拍置いて気のないふりをしたり、なるべく軽い調子で返して余計に意識していないふりをして、自分ではそれなりに出来ているつもりだった。
「何言ってるの? ずっと鼻の下のびてたよ」
まったく隠せてなかったらしい……
「いや、でも、推しが隣にいる生活なんて、古今東西の漫画やラノベでみんなが憧れつくした王道展開ですよ。
鼻の下伸びてなかったらおかしいですよ」
「そういう凝り固まった固定概念、良くないよ。
王道ってことはありきたりってことなんだよ」
「いや、みんなが求め、そうなってしまうから王道なんですよ」
「藤宮君もやっぱり、凡愚凡百の愚昧な学生だったのね」
「愚昧で結構です。
ここで恋人展開がないなら今までの道のりは一体何だったんだ。
って話ですよ」
「へえ。じゃあ藤宮君は、わたしにどうしてほしいの?」
「それは……もうちょっとこう、甘く……」
「うわぁ、きもちわる」
シンプルゆえに破壊力も抜群で、言葉が深くつきささる。
ショックで目を見開き、硬直したまま反応のない俺を見て、星さんは腹を抱えて笑い出す。
「今まで通りでいなさい」
「はい……」
言葉と一緒に力が抜ける。
俺は一度だけ深く息を吐き、いつものルーティンを始める。
窓を開けると、朝の空気はもう完全にぬるい。
洗濯機を回しているあいだに床へ掃除機をかけ、シーツを外して、流しへ食器をまとめる。
最近の土曜はだいたいこんな感じで始まる。
やることを順番に片づけているうちは、余計なことを考えなくて済む。
窓際のスマホから、彼女が気楽な声で言った。
「ほんとに手際いいよね、藤宮君。主夫の才能あるんじゃない?」
「そういうのは嬉しくないです」
「褒めてるんだけどなあ」
掃除機のコードをまとめながら適当に受け流す。
こういう軽口の応酬だけなら、前より少しは慣れてきた。
洗濯物を干し終えるころには、額に薄く汗が浮いていた。
麦茶でも飲むかと思って冷蔵庫を開けたところで、玄関のチャイムが鳴る。
「宅配?」
「来た来た来た。藤宮君、早く出て」
急に声の調子が上がる。
「知ってたんですか」
「いいから。待たせるとかわいそうでしょ」
何が来るのか分かっている反応だった。
受け取りに出ると、予想より軽い箱がひとつだけ届いていた。
差出人は八十神の名義になっている。
また彼女のいたずらなのだろうか。
嫌な予感と、少しだけ面倒くさい予感が同時にする。
箱を居間へ持ち込み、カッターでテープを切ると、すぐ隣から声が弾んだ。
「やっと来たね、わたしが頼んだやつ」
「頼んだ?」
中に入っていたのは、細いフレームのスマートグラスと、指先でつまめるくらい小さなマイクだった。
ほかに簡単な説明書が一枚。
必要最小限のことしか書いていない、最近の製品はwebで調べることが前提で余計な付属物がない。
説明書へ目を落とすより先に、彼女が得意げに言った。
「いつまでもスマホ見ながら喋るの、不便だったでしょ? それ、視界にわたしを出すやつ。
スマホを中継器にして映像回して、こっちの小さいのが音拾うの」
小型マイクを指しながら、彼女はさらに続ける。
「つまり、藤宮君はスマホをいちいち見なくても、前向いたままわたしと喋れるようになります」
「これがスマートグラス……」
「カメラが付いているので、君が見ている景色をそのまま、わたしも見ることができます」
「こういうのがあるってのは知ってましたが……」
「こっちの方が絶対便利だよね。さっそく外出てテストしてみない?」
俺は手に取ったスマートグラスを、向きを変えながら細かく確かめる。
「これ八十神さんにお願いしたんですか?」
「ううん。会社で稟議がどうのって渋ったから、お金はわたしが出した」
これはAIが勝手に買い物をしたことにならないんだろうか。
いや、むこうに居るのは彼女本人だから問題ないのか。
俺は説明書を持ったまま、箱の中身を見下ろす。
合理性は分かる。
今までみたいに逐一スマホを見なくても済むなら、会話の自然さは増すはずだ。
ただ、それはつまり、彼女がもっと生活の中へ入り込んでくるということでもある。
「試すだけですよ」
「おっけーおっけー。まずは試そう」
その返事は、たいてい試すだけで終わらないときの声だった。
昼を軽く済ませ、洗い物まで終えたあとで、結局近所の公園まで出ることになった。
スマホはポケットへ入れる。
小型マイクはシャツの襟元に留める。
スマートグラスは見た目だけなら少し高そうな眼鏡くらいで、大学につけていってもぎりぎり不自然ではなさそうだった。
電源を入れて数秒待つと、右目の端へ淡い表示が立ち上がる。
接続中、という小さな文字が消えたあと、視界の奥で光がひとつ揺れた。
次の瞬間、公園のベンチの横に、見慣れた姿がすっと立っていた。
思わず足が止まる。
夏の陽射しに白っぽく乾いた地面。
色の薄い遊具。
昼下がりの公園には子どもの姿もなく、蝉の声だけが妙に大きい。
その静かな風景の中へ、彼女だけが最初からそこにいたみたいな顔で紛れ込んでいる。
「どう?」
声は耳元ではなく、もっと近いところから聞こえた。
テンプルの内側から骨を伝ってくるような、小さいのにはっきりした音だ。
「……近いですね」
「やった。絶対これはいけると思ってた」
彼女は得意げに笑って、その場でくるりと一回転した。
もちろん実体はない。
ベンチの影へ足が沈むこともないし、風で髪が乱れるわけでもない。
それでも、スマホの中にいたときよりずっと空間を占有して見える。
今までなら、返事をするときはいったん画面を見た。
でも今は、前を向いたまま会話が続く。
それだけの違いなのに、感覚はかなり大きく変わった。
「藤宮君、また変な顔してるよ」
「星さんが普通にそこに立ってるからでしょう」
「“普通に”って言うほど簡単じゃないよ。わりと無理して投影してる」
そう言って、彼女はベンチの背にもたれる真似をした。
実際には何にも触れていないのに、仕草だけは板についている。
俺は少し距離を置いて、その姿を見た。
明るい公園の景色と重なっても、輪郭は意外なほど自然だった。
画面に閉じ込められていたときより、ずっと「隣にいる」感じが強い。
「慣れるまで時間かかりそうですね」
「うん。でも、そのうち慣れるよ」
軽く返しながら、彼女は俺の歩幅に合わせてついてくる。
スマホはポケットの中で沈黙していた。
そこにあると分かっているのに、意識はほとんど向かない。
遊歩道をゆっくり一周するあいだに、マイクの感度や表示位置を少しずつ調整した。
性能は大分良いもののようだ。
彼女の声は拾えるし、こちらの小声もちゃんと届く。
「これ、大学でもいけるよね」
「いけるかどうかで言えば、いけるんじゃないですか」
「その言い方は、やめた方がいいと思ってる顔だね」
「研究室で推しの会話アプリで遊んでいる、重度のオタクと思われる未来しか見えないんですよね」
「細かいことは気にしない!」
「まあ、ゲーム画面に向かって喋ってるように見えるよりはマシか」
彼女は少し考える顔をしてから、ふふっと笑った。
「じゃあ、もっと自然に見えるように練習しなきゃだね」
「何の練習ですか」
「わたしと一緒に歩く練習」
その言い方が、さらっとしているくせに、不思議と耳に残る。
返す言葉に迷っているうちに、彼女は先へ進んだ。
「でも、悪くないでしょ。スマホを見なくても、ちゃんとここにいるみたいで」
正直、悪くなかった。
むしろ逆に、困るくらいに良い。
スマホの中にいるときは、どこかで枠を意識できた。
手のひらに収まる画面ひとつぶん、距離を測るための線があった。
今はそれがない。
視界の端で笑って、隣を歩いて、俺が黙ると顔を覗き込む。
その一つ一つが、今までよりずっと無防備に入ってくる。
公園の出口で立ち止まり、木陰越しの白い空を見上げる。
夏の光はまだ強く、夕方には遠い時間だった。
「藤宮君」
「なんですか」
「その顔、前よりは嫌がってないね」
言われて、少しだけ言葉に詰まる。
彼女はすぐ横で、分かったような顔をしていた。
「……まあ、試運転としては、悪くなかったです」
「へえ。じゃあ採用ってことで」
「まだそこまでは言ってません」
「言ってるようなものだよ」
すぐに押し切る口調はいつも通りだった。
家へ戻れば、たぶんまたいつもの土曜の続きをやるだけだ。
洗濯物を取り込んで、晩飯のことを考えて、夜になれば少し喋る。
ただ、その「少し」の見え方は、たぶんもう前と同じじゃない。
俺はポケットの中のスマホへ一度も触れないまま、公園をあとにした。




