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26話

 朝の空気がもうぬるい。


 外へ出た瞬間、日差しの白さに目が細くなる。

 洗ったタオルを干すだけで腕にじわりと汗が浮いて、夏だなと思った。


 星さんが家に来てから、二週間ほど経っていた。


 最初のころは、スマホの中から喋る彼女の存在ひとつで落ち着かなかったのに、今はもうその声も生活の中へ馴染んでいる。

 いつものように朝が来て、いつものように大学へ行き、夜になれば少し話す。

 その繰り返しだけで日が進んでいった。


 洗濯機を回して、その音を聞きながら床に散らばっていた服を拾う。


 履きっぱなしにしていたサンダルが、日に焼けて少し熱い。

 タオルを干して部屋へ戻り、今度は掃除機を引っ張り出す。

 休日の午前なんて、やることを順に片づけていけばそれだけで形になる。


 机の上のスマホは、そんな家事のあいだもいつも通りだった。


 あれから八十神さんからの連絡はひとつも来なかった。


 日々を普通に過ごしているだけなのだが、継続学習というのはこれで良かったのだろうか。

 リアルな日常の学習と言われても、俺は特に何もしていない。

 星屑みさきのスマホを持ち歩いているだけだ。

 上手く行っているのか行っていないのかもよく分からない。


 ただ、別に困ってもいない。


 研究室で騒ぎになることもなく、家でのやり取りも普通に回っている。

 何も起きていないなら、それで十分なのかもしれなかった。


「朝からちゃんと掃除してえらいねぇ」


 掃除機のコードを伸ばしたところで、星さんがのんびりした声を出した。


「そんなルーチンワークばっかりで退屈しないの?」


「非日常ばかりじゃ疲れちゃいますよ」


「そこなんだよなあ。藤宮君のよくないところ」


 そう言いながら、彼女はいつも通りの顔でこちらを見ている。


 星さんも、だいぶパターン化してるな、と思う。

 口に出す理由もないので、そのまま胸の内に収めた。


「ねぇ、終わったらどっか行こ?」


「行きません。今日は洗濯して、掃除して、買い出し行って終わる日です」


「即答だぁ。つまんな」


 言い方は不満げなのに、声そのものはやけに明るい。


 前なら、その一言一言にもう少し引っぱられていた気がする。

 今は返事をしながら手を動かす方が先だった。


 掃除機をかけ終えてから、洗い上がったシャツをハンガーに通す。

 湿った布の重さが指に残る。

 生活の手順をなぞるみたいな作業の途中で、机の上の端末へ視線が戻った。


 継続学習。

 そういう話だったはずだ。


 なのに、毎日こんなふうに置いているうちに、ただよく喋るアプリを一つ増やしたみたいな感覚になっている。


 これが上手く行っているのかは、やっぱりよく分からない。


 たぶん明日も明後日も、こんな日々が同じように過ぎて行くのだろう。


◆    ◆    ◆


 昼過ぎになるころには、洗濯物はほとんど乾き、買ってきた食材も冷蔵庫へ収まり、部屋の中もひと通り片づいていた。


 昼食も済ませて、シンクに皿を置く。


 やることが全部終わると、逆にすることがなくなる。


 何か動画を見るでもなく、ゲームを始めるほどでもなく、とりあえず冷蔵庫から麦茶を出す。

 冷房の前でそれを飲みながら、手持ち無沙汰のままぼんやりしていると、机の方から得意げな声が飛んでくる。


「藤宮君、見て。新機能」


 戻ると、スマホ画面の中の星さんが胸を張っていた。


「先週、風呂入ってなくて汚いって言われたでしょ。だから改善しました」


「何をですか」


「お風呂に入れるようにした」


 意味が分からず見ていると、彼女は待ってましたみたいな顔で画面を切り替えた。


 次の瞬間、画面の中の星さんは湯気の立つ風呂場にいた。

 肩先から上だけが見えていて、あとは泡にうまく隠れている。

 肝心なところは見えないようになっているのに、そういう配慮まで含めて出来がよかった。


「どう?」


 わざとらしく首を傾けてみせる。


「ああ、風呂に入ってますね」


 一拍置いてそう返すと、星さんはすぐに眉を寄せた。


「その反応なに。それだけ?」


「結構細部まで作れてて、出来はいいと思いますよ」


「違う違う違う」


 星さんはすぐに身を乗り出した。


「そこじゃなくて、もうちょっとあるでしょ。こう、お風呂入ってる女の子見たときの感想」


「清潔感ありますね」


「レビューサイトなの?」


 不満そうな声が返る。


 でも、見た目の印象が変わったのは本当だった。

 濡れた髪の束感とか、頬の赤みとか、泡の置き方とか、そのへんはよく出来ている。


 以前の俺なら、こういうのでもう少し素直に動揺していた気がする。


 けれど今は、どきっとするより先に、アプリの演出として感心する方が先に立った。


「先週のこと、気にしてたんですか」


「気にするでしょ普通。しかも言われっぱなし悔しいし」


 彼女は唇を尖らせたまま、少しだけ肩を引く。


「しかも、ただ清潔になっただけじゃないからね。

 ほら、ちょっと色っぽい感じも足してるから」


「そうなんですか」


「そうなんですか、じゃないの」


 画面の中で、星さんが髪を耳へかける。


「どう? ちょっとはドキッとした?」


 髪の流れ方まで細かく変わっているのを見て、素直に感心はする。


「技術的にはすごいですね」


「違うってば!」


 勢いよく返されて、少し笑ってしまう。


「いや、でも実際すごいですよ。

 これ自分で作ったんですか? 自律的にプログラムできるところまで技術は進んでるんですね」


「感想が開発会議なんだよなあ……」


 星さんががっくりと肩を落とした。


◆    ◆    ◆


 夜、風呂を上がって頭にタオルをかぶせたまま部屋へ戻る。


 暑い時期は、肌に布が張りつく感じが鬱陶しい。


 とりあえずパンツだけ穿いて冷房の風が当たる位置に立ったところで、スマホから呆れた声が飛んだ。


「ちょっと待って。なんでそんな格好なの」


「風呂上がりだからです」


「以前はもうちょっと遠慮あったじゃん」


 言われて、一瞬だけ考える。


「そうでしたっけ?」


「そうだよ。少なくとも、いまみたいに堂々とはしてなかった」


「今更じゃないですか? スマホ持ったままトイレにも散々行きましたよね」


「それとこれとは話が違う!」


 言いながら、星さんは露骨に視線をそらした。


 その反応が、逆に少し面白い。


「まぁ、夏だから仕方ないですよ」


「仕方なくないんだよなあ……」


 少しの間、エアコンの風の音だけが部屋に流れる。

 肌に当たる冷気が、濡れた髪の先から首筋へと伝っていく。


 スマホの画面の中で、星さんは顎に指を当てたまま止まっている。


 そのまま、ゆっくりとこちらへ視線を戻す。


「……ねえ、藤宮くん」


 いつもの軽さを削って、わざと粘度を足したみたいな低い声で囁いてくる。


「なんですか」


「わたしが来てから、もう二週間くらい経つよね」


「まぁ、そうですね」


 星さんは妖しい笑みを浮かべて、一瞬だけ目を細める。


「そろそろさ」


 一拍、間を置く。


「溜まって来てるんじゃない?」


 言い方が、いつもより艶めかしい。

 言葉の端を舐めるみたいに、わざとらしさが際立つ。


「……何がですか」


「遠慮せずに致してもいいんだよ?」


 縦に握った拳を上下に動かして、何かをアピールしてくる。


「何なら、ちょっとくらい手伝ってあげようか」


 目線は上目遣いで外さず、じっとこちらの反応を待っている。


 俺は、ようやく意図を察した。


「なるほど。じゃあ、遠慮なく」


「……※@#&☆ッ!?」


 おもむろに下着を降ろし、堂々とイチモツを取り出した俺を見て、スマホの画面から悲鳴のような声が響く。


「変な声上げてないで、エロ画像の一つくらい探してきてくれませんか」


「◇@▽%※$ッ!」


「手伝ってくれるって言いましたよね」


「……」


「早くしてください。もうしごいちゃいますよ」


「……」


「ほら、早く」


 見せつけるように手をゆっくりと股間に伸ばし、ついにイチモツに手がかかる。


 その直後、スマホの画面はすっと暗転し、星さんの姿は見えなくなった。


 一人残された俺は、妙な興奮が収まらず、しばらくそのまま立っていた。


「ふぅー。なんだか、イケナイ扉を開いてしまった気がする」


◆    ◆    ◆


 2曲目を歌い終えたみさきは、マイクから少しだけ顔を離して息を整えた。

 明るめの曲だったせいか、頬にまだ熱が残っている。

 画面下のコメント欄は拍手と感想で流れ、切り替わった待機BGMのピアノが、その勢いを少しずつやわらげていく。


>>高音きれいだった

>>【¥2,000】今日の歌枠かなり好き

>>水飲んでえらい


「ありがと。ちゃんと飲むよ。えらいので」


 みさきはストローをくわえてひと口だけ水を飲み、それからカップを机へ戻した。

 喉を整えたあとの顔が、そこで少しだけ悪戯っぽくなる。


「ねえ七味。次の曲いく前に、ちょっとだけ雑談していい?」


>>いいよ

>>【¥1,500】歌枠雑談たすかる

>>その顔は何かある


「最近さ、すごくショックなことがあったんだよね」


>>なんだなんだ

>>また体重増えた?

>>【¥1,000】またデブりんなっちゃった?


「ちょっ、デブリんって」


>>またデブりんか

>>デブリんなっちゃったか

>>何年ぶりだ?


「でもそうかもしれない、わたしはしょせん宇宙ゴミ<<スペースデブリ>>なのよ」


 みさきは大げさに肩を落とし、机へ肘をついたまま片手で額を押さえた。


「最近さ、うちの猫がぜんぜん構ってくれないんだよね」


>>猫?

>>にゃー

>>また猫の話きた


「前はもっと分かりやすかったんだよ? こっちがちょっと何かしたら、え、なに、ってすぐ反応してたのに、最近はもう、はいはい、って感じなの」


 指先で机をとんとん叩きながら、語尾だけ少し拗ねる。


>>慣れたんだろ

>>塩対応期だ

>>猫ってそういうもん


「こういうのって慣れたで済ませていいやつかなあ」


「なんかもう、そこにいるのが当たり前みたいな顔されるんだよね。ひどくない?」


>>猫はそういうもん

>>その猫ほんとに猫?

>>それはひどい


「ほんと、しょんぼりだよ」


>>落ち込んでるね

>>【¥5,000】わかりやすくおちんこでるね。

 げんきだして

>>しょんぼりだね


「そう、おちん……」


 言いかけた言葉が途切れる。

 目が見開かれたまま、続きが出てこない。


「っっっっ」


「出すな!!」


「もう、なんなんだよー!!!」


>>その誤字はまずい

>>それはまずい

>>出したら駄目だ


「あぁー、もう。なんだっけ?」


「そうそう、うちの猫。ちょっと反抗期入ってるみたいなの」


「いたずらしようとしたら、やりかえされちゃってさ」


 そこで一瞬だけ視線を泳がせ、頬をふくらませた。


>>何したんだよ

>>絶対みさきが悪い

>>やり返されてて草


「七味のみんな、わたしどうしたらいいと思う?」


>>餌で釣るのが一番かな

>>【¥3,000】外連れ出すとか

>>【¥1,000】あたらしいおもちゃとか

>>景色変えたら?


「ふーん、環境変える? 外連れ出すの?」


 流れていくコメントを読み上げるみたいに、少しずつ目線が下へ走る。


「でも、ありかも。毛並み整えても効かないし、だったら景色ごと変えるしかないもんね」


「うん、ちょっと頑張ってみるか」


>>がんばれー

>>行け行け

>>猫観察はじまる


「じゃ、次の曲いこっか。相談ありがと、七味のみんな」


 コメント欄がまだ猫の話で盛り上がっているあいだに、前奏が流れ始める。


 みさきは何事もなかったみたいに息を整え、次の歌へ入っていった。


◆    ◆    ◆


 その夜、机へ戻ると、スマホの画面が先にこっちを待っていた。


「藤宮君、明日、祝日だから空いてるよね」


 問いかけというより確認だった。


「まあ、空いてますけど」


「じゃあ決まり。渋谷行こ」


 あまりにも自然に言われて、一瞬意味が入ってこない。


「……は?」


 聞き返すと、星さんはそこで勢いを緩めなかった。


「渋谷。明日。急じゃないよ、むしろ遅い」


 星さんはきっぱり言った。


「このままだと君、次の休みもその次の休みも、洗濯して掃除して終わるでしょ。

 だから明日、渋谷。

 もう決定」


 反論を差し込む前に、彼女はさらに続ける。


「いいよね?」


 断る理由を探すより先に、その勢いに押し流されてしまった。


「……分かりました」


「よし」


 星さんは満足そうに笑った。


「じゃ、明日。渋谷デートね」


「……は? 今デートって言いました?」


「言った。わたしが推しだってことをちゃんと思い出してもらうから」


 そう言い放つと、こちらから問い返す間も与えず、ふっと彼女の姿は消えていった。


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