22話
翌朝、アラームが鳴る少し前、耳元で聞いたことのある甘い声が、すぐそばで囁くように届いた。
「……おはよう、藤宮くん。
ねえ、起きて……? まだ寝てるの? ふふ……ほんと、遅いんだから」
意識がゆっくり浮かぶ。
くすぐったいような声が、心地いい。
「ほら……わたし、もう待つの飽きちゃった。
ちゃんと起きてくれないと……いたずらしちゃうよ?」
このままでは、先にいけないところが起きてきそうだ。
枕元のスマホをつける。
星さんは朝用の明るい背景を背負って、昨日と変わらない顔で笑っていた。
寝起きの目には少し眩しすぎる色味だ。
カーテンの隙間から差す白さで、もう寝直せる感じではないのは分かる。
「……起きますよ。起きますけど、なんでそんな変な起こし方するんですか」
「だって、藤宮君こういうの好きでしょ?少しはサービスしてあげようかなって」
反応の薄さに星さんは不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は言わなかった。
洗面所の冷たい水で顔を洗っているあいだ、机のスタンドに立てたスマホの画面だけが白く浮いていた。
「ねえ、藤宮君。
さっきから反応が薄いよ。
おはよう、くらいはちゃんと言って。
そういうとこ適当にされるの、地味にやなんだけど」
ひげをそりながらスタンドの方を見る。
拗ねた顔の作り方まで、配信で見慣れた角度のままだった。
「……おはようございます。はい、これでいいですか」
「うむ、よろしい。今のはちょっと言わせた感じあったけど、まあ合格にしときましょう」
タオルで顔を拭いて、キッチンへ移る。
冷蔵庫から麦茶を出してひと口飲み、食パンをトースターへ入れたところで、星さんが言った。
「今日も大学行くんでしょ?」
「そりゃ、行きますけど」
「じゃあ、早く行こうよ。あ、何時までに着けばいいのかな。寄り道とかしても大丈夫?」
「……」
ゆっくり支度して出るつもりだった俺に、急かすような期待を乗せてきた。
急かされたからというわけではないが、手早く朝食を済ませて大学へ行く準備をする。
机の上ではスマホの画面だけが白く明るく、星さんがその一部始終を退屈そうに眺めていた。
「通学の途中はいいですけど、大学の中では絶対に静かにしてくださいよ」
「はいはい」
適当すぎる返事に少しだけ眉をひそめる。
「絶対、ですからね」
「分かってるって」
「で、どこに行きたいんですか?一応、希望があれば聞きますよ」
「ディズニーランド!」
「はぁ……無茶言わないでくださいよ」
「えー。じゃぁ駅の本屋でいいや……」
落差が大きすぎる。
鞄へノートPCと資料を詰めながら、思わず手が止まった。
「何か欲しいものがあるんですか」
AIなんだから電子書籍の方が向いているんじゃないのか、という疑問が頭をよぎる。
「うーん、特に何か欲しいわけじゃなくて、今どんな本が出てるのかなって見たいだけ」
星さんは肩をすくめるみたいに笑った。
軽い調子の奥で、表情がわずかに硬い。
「……しかたない。じゃあ行きますか」
「やった」
スマホを胸ポケットへ入れる。
薄い熱がシャツ越しに残った。
家を出るころには、空はもう朝の熱を溜め始めていた。
蝉にはまだ早い時期なのに、アスファルトの照り返しだけで十分うっとうしい。
「……じゃ、行きますよ」
「うん」
返事は短かった。
胸ポケットの布が、そこだけ少し震える。
◆ ◆ ◆
電車の中での、星さんは気楽だった。
吊り革につかまりながら聞き流せる程度のどうでもいい話しかしない。
駅へ着いて改札を抜けると、構内の本屋は朝の通勤客でまだ半分だけ混んでいた。
「おお……」
胸ポケットの中で、星さんが小さく感心した声を漏らす。
「そんなに珍しいですか」
「珍しいっていうか、一覧じゃなくて棚で並んでるの、なんかいいね。
今こういうのが前に出てるんだ、って一目で分かるし」
新刊台の前で足を止める。
ビジネス書の平積み、帯の大きい新書、アニメ化の帯が巻かれた文庫。
雑誌コーナーでは、配信機材の特集が表紙を占めていた。
「こっちは新書か。うわ、タイトル強いな」
「えっ、こんなの読むんですか?」
「違う違う。
見てるだけ、みんな意外と帯に弱いんだなって。
やっぱりみんな『シリーズ累計何万部』って書いてあると気になるのかな、よく手に取られてる」
「朝からよく観察してますね」
「だって面白いじゃん。
電子書籍のストアって、売れてる順とかおすすめ順で整いすぎてるでしょ。
こっちはもうちょっと雑に並んでる感じがいいよね」
たしかに、売れ筋と店の押しが混ざった棚は、画面の一覧より癖がある。
俺は新刊を二、三冊手に取り、帯とあらすじだけ読んで戻した。
星さんはそのたび、表紙の色やタイトルの付け方に勝手な感想を挟んでくる。
欲しい本があるわけじゃない。
ただ何が前に出ているのか見たいだけ。
その感覚は、言われてみれば少し分かった。
店内を一周しても何も買わず、最後に入口近くの平台をもう一度だけ眺めてから外へ出る。
「満足しました?」
「うん。今どんな本が押されてるか分かったし」
「それで満足できるの、だいぶ安上がりですね」
「藤宮君も付き合ったくせに何も買ってないじゃん」
「それはまあ、そうですけど」
しばらくして研究室へ向かう。
大学の門をくぐってからの彼女は、昨日とは打って変わって静かだった。
◆ ◆ ◆
研究室へ入ったとき、いたのは姫島だけだった。
窓際の席でノートPCを開き、手元の資料に視線を落としている。
こちらが入ってきた気配には気づいたはずなのに、顔を上げるのが一拍遅れた。
「……おはようございます」
「おはよう」
昨日の進路変更の話がまだ尾を引いているのか、今日の姫島はいつもより距離が遠い気がする。
昼前になって、西田と森下が揃って入ってくると、一気に研究室の音量が上がった。
「うわああー、藤宮さんいた。ちょっと聞いてくださいよ」
鞄を置くなり、西田がこっちを見る。
「桜舞メイコ、来月休むってマジなんすか。いや、普通にショックなんですけど」
「長いっすよね」と森下も続く。
推しに長く会えなくなるがショックなのはわかるが……うっとおしい。
「一か月休むのは長いけど……卒業するよりマシだろ」
西田は一瞬だけ黙って、それからあっさりうなずいた。
「あー……それはそうっすね」
「その基準出されると、だいたい勝てないですね」
森下が苦笑いする。
話題はそのまま配信の話に流れ、西田と森下がやり取りを続ける。
姫島だけが、相変わらず画面に視線を落としたままだった。
胸ポケットの中の星さんも、研究室にいるあいだは本当に静かだった。
帰宅して鞄を下ろし、胸ポケットからスマホを取り出して机へ立てかける。
「そういえば今日、かなり静かでしたね」
こっちから言うと、星さんは少しだけ顎を上げた。
「でしょ。ちゃんとやれば出来る子なの」
「これからもその調子でお願いしますよ」
「なんか褒め方が雑じゃない?」
「褒めてはいます」
そう返すと、彼女はわずかに眉を寄せたが、言葉にはしなかった。
「うーん、まあいっか。明日もよろしくね」
◆ ◆ ◆
木曜は朝から天気が悪かった。
目を開ける前から、窓の外で雨が激しく叩きつけていた。
布団の中の空気まで少し湿っていて、起きる前から身体が重い。
その上へ、耳元でいつもの声がする。
「うわー。今日はもう朝から外がしんどそうだよ」
「……今日は大学行きたくないな」
「そうだよね。こんだけ雨激しい日は家から出たくないよね」
枕元のスマホをつけると、星さんが少しだけ眉を寄せていた。
背景の明るさと、窓の外の灰色が噛み合っていない。
顔を洗っていると、洗面台の端に立てた画面から、間を置かず声が飛ぶ。
「で、おはようは?」
「……おはようございます」
「雨の日でだるいだろうけど、もうちょっと元気出せ」
家を出るころには、アスファルトの色が一段暗くなっていた。
傘を開く音がして、胸ポケットのあたりで星さんが小さく息をつく。
「こういう日って、駅まででちょっと疲れるよね」
「疲れるのは俺だけですけどね」
「まあねー。わたしは楽だよ」
雨音の隙間で、くすっと笑う気配がした。
「靴の中が濡れるとか、服が張りつくとか、髪がべたつくとか、そういう不快な感覚ないし。
こういうのは、身体がない良いところだね」
「……そういう苦労があるのは、身体がある人間の特権ですよ」
屁理屈で強がって見せる。
(『身体がないのが良い』か……)
身体がないことを、あまりにも当たり前みたいに言う彼女に違和感を覚える。
人間なら必ずあるものがない。
その感覚をいったいどう感じているのだろう。
自分がAIだということを当然に受け入れているのだろうか。
それなのに、自分は本物の星屑みさきだという。
この二つの認識は両立するのだろうか。
雨の中で考えても、答えは出なかった。
駅へ向かう途中で雨脚が強くなり、ホームに着くころには電車の遅延案内が出ていた。
「五分遅れって書いてあるけど、これ、たぶん五分じゃ済まないんじゃないかな」
水滴のついた画面の中で、星さんが眉を寄せる。
「まあ十分くらいなら誤差か」
「遅れは大したことなくても混むんだよね。こういうとき」
「そういう余計な一言は言わなくていいです」
大学へ着くころにはずぶ濡れで、濡れた服が体にまとわりついて不快さが増していた。
西田は椅子へ座るなり靴を見下ろして、大げさに顔をしかめる。
「無理っす。靴の中まで終わりました。今日はもう、朝の時点でかなり負けてる」
「まだ午前中だぞ」
「いや、午前だから余計きついんすよ。
しかもメイコ休業のショック立ち直ってません。
もうおれはダメっす」
森下がモニターから目を離さないまま笑う。
「でも午後には晴れるらしいよ」
「そんな情報、今の俺には全然救いにならないよ」
姫島は必要な資料名だけを口にして、すぐ画面へ戻った。
マウスを動かす手つきだけが妙に早い。
俺はぐだつく西田を横目に粛々と課題の準備を進める。
胸ポケットにいるはずの彼女は、その日も静かで、いつの間にか意識の端から抜け落ちていた。
◆ ◆ ◆
金曜、少し遅い昼食から戻り階段へ向かうと、踊り場の端に猫がいた。
人通りの少ない階段の脇、茶色の混じった白い猫が丸くなっている。
事務の人や学生が時々世話をしているらしく、建物の中まで入り込んでくることがよくある。
常連なのか、近づいても逃げる気配はなく、片目だけ開けて、面倒そうにこちらを見た。
「また入り込んでるな」
立ち止まってしゃがむ。
指先を差し出すと、猫は一度だけ鼻先を寄せ、それから気まぐれみたいに頬を擦りつけてきた。
「そういう時だけ、ほんと分かりやすく顔ゆるむよね」
胸ポケットの中から、星さんが呆れたように言う。
「いや、猫なので」
「理由になってるようで、なってないよ」
猫はそのまま逃げず、俺の手の下で目を細めた。
近くの廊下を学生がばたばた通っても、耳を少し動かすだけで反応は鈍い。
しばらく撫でられて満足したのか、猫は急にするりと体を離し、数歩ぶんだけ離れたところへ移動した。
そこでまた前足を折ってうずくまり、こちらを振り返りもせず、そのままもう一度寝る態勢に入ってしまう。
「いいなあ、ああいうの」
胸ポケットの中で、星さんがぽつりと言った。
「お腹が減ったら寄ってきて、飽きたらどっか行って、眠かったら勝手に寝るんでしょ。
自由だね」
「……まあ、それはちょっと分かります」
猫は欲しいものがあるときだけ近づいて、満ちればすぐ離れていく。
気ままで、勝手で、自分がいま何をしたいのかに正直だ。
そういう欲望への忠実さを、少し羨ましいと思ってしまった。
「星さんは夜寝てるんですか?」
「え?寝てるっていうか、スリープしている?記憶が飛んでることはあるかな」
どうしたの?と聞きたげにこちらを見てくる。
「いや、睡眠欲みたいなのはあるのかなって」
「あー、そういう感覚はないかな。
でも、もう今日は入力いらないなーって気分になることはある」
「じゃぁ、食欲はあるんですか」
「食欲? うーん、どうだろう。
藤宮君が食べてるのをおいしそう、って思うことはあるかな」
「性欲はどうですか?」
「は? ちょっと、それ普通にセクハラでしょ」
即答で返ってきた声が、さっきまでより一段強い。
「いや、その、三大欲求のひとつじゃないですか。
そういう感覚って持ってるのか、気になったんですよ」
「言い訳は一丁前だよね」
数秒だけ間が空いたあと、星さんはわざとらしくため息をついた。
「……ゼロって言い切るのも、たぶん違うかな。
そういう話題に引っ張られて反応が変わることはあるし、恥ずかしいとか、むかつくとかも込みで、それっぽい揺れは出る。
でも身体がないから、行き先のある欲って感じじゃない」
「行き先のある欲、ですか」
「そ。
だから余計に中途半端。
猫みたいに欲しいときに欲しがって満たされてそれで終わり、ってわけにはいかない」
言葉の意味はわかるものの、感覚としてはいまいちつかめない。
「……やっぱり、ちょっと良く分からないですね」
「そうかもね」
他人には分からない、と突き放すような言葉だった。
立ち上がって研究室へ戻ると、西田たちが夏休みの話で盛り上がっていた。
「ミラージュの夏イベ、絶対やばいって。今年もう海確定でしょ」
「あー、そうかも。夏ってなったら水着だしね」
森下が机に肘をつきながら笑う。
「今年の夏イベ、絶対リアルも気合い入れてくるって。
水着衣装とか、現地で見たらやばそうじゃない?」
「いいね。夏休みならずっと張りつける」
「何言ってるんだ。夏休みもゼミはあるぞ。休みなんてお盆の一週間だけだろ」
二人の顔が同時に曇った。
「……マジで?」
「うわ、終わった。夏休みって言葉だけじゃん、それ」
姫島は口を挟まず、呆れたように息を吐いてから、何事もなかったように画面へ視線を戻した。
研究室のざわめきはいつも通りで、話題も、時間の流れも、何ひとつ変わっていない。
胸の中にある存在だけが前と違うだけで、それでも日常は崩れない。




