20話
姫島はすぐには引かなかった。
大学の門の前で立ち止まったまま、俺の胸元と耳元を見比べる。
さっきまでの明るい笑顔は残っているのに、目だけが妙に真剣だった。
聞き間違いかもしれない。
それでも、聞き流すには少しだけ引っかかる。
そんな顔だった。
「先輩、今の声、ほんとに気のせいですか」
「そうは言っても、俺には聞こえなかったしな。寝ぼけてたんじゃないか」
苦しい言い逃れだとは自分でも思う。
それにしても、ついさっき大学では黙っていると約束したばかりなのに、いきなり破るなんて、どういうつもりなんだ。
やはり彼女の言葉を信じるべきじゃなかった。
姫島はまだ納得していない様子だったが、研究棟が近づくと視線を前へ戻した。
外壁の色は少し褪せ、窓枠の金属もくすんでいる。
手入れはされているが、中々に古い建物だ。
正面の重たいガラス扉を開けると、浅い冷房の涼しさと古い床材の匂いが混ざって流れてきた。
姫島はしきりに首を傾げて、何度も俺の方を見返す。
怪訝そうな顔は残ったが、それ以上は何も言わず、先に階段へ向かう。
どうにか押し切れたらしい。
安心したというより、薄い氷の上を一歩だけ渡れた気分だった。
研究室の扉を開けると、西田と森下がもう来ていた。
「藤宮さん、おはようっす。今日はちゃんと来たんですね」
「それだと、最近ずっとさぼってるみたいに聞こえるな」
「いや、そこまでは言ってないですけど。
ここ最近ちょいちょい見ない日あるじゃないですか」
西田の声に釣られて森下が顔を上げる。
「おはようございます。神崎准教授、もうすぐ来ると思います」
「お、そうか」
短いやり取りだけで席に着く。
姫島もいつものように荷物を置き、自分のノートを開いた。
ただ、さっきの視線がまだどこかに残っている気がして落ち着かない。
胸ポケットのスマホは、研究室に入ってから一度も気配を見せない。
むしろその沈黙の方が不気味だった。
このまま大人しくしていてほしい。
そう念じながら、俺はいつもより丁寧にノートPCを開いた。
窓際の古いブラインドが半分だけ上がっていて、朝の白い光が机の上に細く伸びている。
換気扇の低い音と、誰かがノートをめくる音だけがやけに耳につく。
しばらくして神崎准教授が入ってくる。
「揃ってるね。じゃあ始めようか」
ゼミが始まった瞬間、イヤホンの奥で小さく息を潜めていた気配が戻った。
最初に口を開いたのは姫島だった。
背筋を伸ばし、ノートに目を落としながら進捗を話す声は、いつもより少しだけ固い。
それでも彼女は、懸命に説明を続けていた。
「まりちゃんって、かわいい子だね」
無視したかったが、無視してまた勝手に話を広げられても困る。
「……今は静かにしててもらえますか」
「いや、だって笑うとぱっと明るくなる感じ、分かりやすいじゃん。
本当に彼女じゃないの?」
「違いますから。お願いですから黙っててください」
小声で押し返す。
姫島は今、完全に神崎准教授へ注意が向いていた。
こっちを見ていない。
その事実だけで少し息がしやすくなる。
次は西田が説明を始めたが、話があちこちへ飛んで要領を得ない。
「順番を立てて」
神崎准教授にそう諭されると、西田は「あ、すいません」と軽く返す。
「あの子も、後輩?」
「まぁそうです」
「ねぇ、この子もわたしのファンなのかな」
「なんでそう思うんですか?」
「なんかオタクっぽいし、藤宮君が布教してくれてるんじゃないの?」
「別にしてませんよ。まぁ、VTuberには詳しい方ですが」
「へぇ~誰推しなのかな?」
わくわくした声だけが耳に残るが、俺はそのまま流すことにした。
西田が話し終えると、森下がすっと進捗の話を始めた。
「うん、いいと思うよ」
神崎准教授は可も不可もない調子でそれだけ言い、あとは事務的な確認を続けていく。
「こっちの子も後輩?」
「そうですよ」
「こっちもオタクっぽいね」
「西田ほどではないですけどね。詳しい方だと思いますよ」
「ねぇ、この研究室オタク多くない?」
「そんなことないと思いますよ。普通ですよ」
「そうなんだ。理系の大学生ってオタクばっかりだって言うしね」
それは偏見だ、と抗議したかった。
だが間違いとも言い切れないので黙ることにした。
ゼミ自体は長くなかった。
俺の報告も無難に終わり、いつも通りならここで解散だった。
ところが神崎准教授は、書類をまとめて立ち上がったところで思い出したようにこちらを見た。
「藤宮くん、就職の書類だけ今週中に出しておいて。
進学しないなら、その前提で手続き回すから」
言われた瞬間、視界の端で姫島の手が止まった。
西田と森下の二人も、意外そうに顔を上げた。
神崎准教授はそれ以上何も足さず、そのまま出ていった。
扉が閉まる。
神崎准教授の足音が遠ざかると、西田が俺の方へ寄ってきた。
「藤宮さん、進学するんじゃなかったんですか」
「まぁ、いろいろとあってな」
「自分も進学すると思ってました。なんで進路変えたんですか」
森下まで話に乗ってきた。
急に進路を変えたのだから、興味を引くのも無理はない。
「最近まで研究の方に寄ってた感じだったし、就職するなんてびっくりですよ」
西田は悪気なく話を掘り下げてくる。
姫島はまだ呆然としたままだ。
嫌な沈黙が伸びたあと、ようやく我に返ったようだ。
「先輩! 進学するんじゃなかったんですか? なんで就職するんですか!?」
大きい声ではなかったが、感情の方が先に飛び出していた。
さっきまで止まっていた分、勢いがそのまま来た感じだ。
なんで。
その問いにだけは、きれいな答えがない。
その話をするには、星屑みさきの真相を追った先で知った事実まで話すことになる。
配信しているのはAIで、本人はALSで意思疎通ができない。
そんなこと、ありのまま言えるわけがない。
「いろいろあったんだよ」
自分でも薄い返答だと思う。
「いろいろって何ですか。そんなので分かるわけないじゃないですか」
姫島が一歩近づく。
責めているというより、置いていかれまいとして食い下がってくる必死さが見えた。
「先輩、少し前に熱心に研究していたことありましたよね。
それと進路を変えたこと、関係あるんですよね」
「関係ないとは言わないけど」
「じゃあ説明してください」
西田がそこで口を挟む。
「いやでも、説明しにくい感じなのは分かるっすよ。
藤宮さん、わりと最近ずっと別件で頭持ってかれてる感じだったし。
で、一体何があったんですか」
「お前はフォローしてるのか燃やしてるのかどっちだ」
「半々くらいです」
にやつく西田の顔が目に入る。
森下は椅子から立たないまま、静かに視線だけを寄越した。
「就職自体は別に悪い話じゃないと思うけど、姫島さんが驚くのも分かる」
「ほら、みんな戸惑ってるじゃないですか。ちゃんと説明してくださいよ」
姫島がすかさず乗ってくる。
自分に都合のいいときだけちゃっかり二人を利用する、らしいと言えばらしい。
「もしかして、今朝の女の声と何か関係あるんですか。
あのとき明らかに先輩の態度、変でした」
その話をここで持ち出すのか、と思う。
しかも、痛いところを正面から突いてくる。
「いや、それはただの勘違いだろ……」
西田が身を乗り出した。
「え、女の声ってなんの話ですか」
食いつくな、と念じた瞬間には遅かった。
「あ、もしかして就職するのって彼女絡みなんですか?」
「違う」
即答した。
その勢いがかえって怪しい。
姫島の目が細くなる。
「じゃあ何なんですか」
言えるわけがない。
そのとき、胸ポケットの中でスマホがぶるっと震えた。
最悪のタイミングだった。
反射で押さえようとした指が、ポケットの端に引っかかった。
薄い板がするりと抜け、机の角をかすめて落ちかける。
「うわ」
西田が手を伸ばし、床に落ちる前に掴み取る。
その拍子に画面が点き、西田の手の中で星屑みさきがこちらを向いた。
「藤宮さん、スマホ落ちましたけど、これ映ってるの星屑みさきですよね?」
その声で、姫島も森下もそちらへ視線を向けた。
西田の手の中の画面には、配信画面でも壁紙でもない見慣れないアプリが開いていた。
そこに、星屑みさきがこっちを向いて映っている。
「ん、なんだこれ」
西田の眉が寄る。
「配信じゃないっすよね。
ゲーム画面でもないし……こんなアプリ、俺見たことないんですけど」
まずい。
そう思ったときには、もう遅かった。




