19話
翌朝、アラームで目が覚めた瞬間、耳元でやけに上機嫌な声が弾けた。
「おはよう、藤宮君。共同生活一日目の朝だよ? ね、感想は?」
最悪だった、と夢の続きを口にしかけて、枕元のスマホを見た瞬間に言葉を飲み込んだ。
画面の中で、星さんは妙にきらきらした朝用の配信背景を背負い、寝起きの人間に向けるには眩しすぎる笑顔を浮かべている。
昨夜の最後、彼女はAIで、本物じゃないと何度も自分に言い聞かせたはずだった。
なのに、その笑い方を見た途端、理屈より先に胸が揺れた。
配信では見せない甘ったるい声と笑顔に、強く引き付けられる。
画面の向こうにいる彼女が、すぐ近くにいるような不思議な錯覚。
時刻は7時02分。
時間より三十分早い。
まだ体の半分くらいは、布団の中に置き去りにされたままみたいで、正直あと十分くらいはこのまま微睡んでいたかった。
「……勝手に人のアラーム乗っ取らないでくださいよ」
「だってさ、全然起きてくる気配ないんだもん。仕方ないじゃん?」
「……まだ時間来てないんだから、起きてないのは当たり前ですよ」
布団の中で呻きながらそう返すと、彼女はふふんと鼻を鳴らした。
昨日の夜、監視だの抹殺だの物騒な単語を投げてきた相手と同一人物とは思えない。
いちいち聞き覚えのある声で、かわいらしくて仕方がない。
彼女はAIだ。
何度も自分に言い聞かせ、そう理解している。
理解しているのに、朝一番でその声を浴びると、脳のどこかが勝手に“いつもの星屑みさきだ”と判断してしまう。
顔を洗い、適当なTシャツに着替えて戻ると、机の上のスマホでは星さんが退屈そうに頬杖をついていた。
「もぅ、遅い」
「いやいやいや、まだ起きて十分ですよ?」
「はぁー。
本当に人間の朝って非効率だね。
起きる、ぼーっとする、水を飲む、顔を洗う、またぼーっとする。
無駄な処理が多い」
「その非効率は体がある人間の特権ですよ。AIと違ってこっちは生身の人間なんですから」
「……」
反論が返ってこない沈黙に、はっとした。
本物の彼女はいま、体も動かせない。
画面の向こうはAIで本物ではないと頭では分かっているのに、胸の奥に小さな罪悪感が残る。
冷蔵庫から麦茶を取り出す。
紙パックの口を開けたところで、ふと視線を感じて顔を上げた。
画面の中の彼女が、やけに真面目な顔でこちらを見ている。
「でさ、今日は大学行くんでしょ?」
「行きますけど……それが何か」
「じゃあ、わたしも行く」
反射で手が止まった。
「……はい?」
「昨日、おじさんも言ってたじゃん。
リアルな日常を学習しろって。
だったらさぁ、藤宮君の家でだらだら喋ってるだけじゃ、さすがに足りないでしょ?」
言っていること自体は筋が通っている。
筋が通っているのが、余計に厄介だった。
「大学には研究室の人がいるんです。あなたを見られたら面倒なことになりますよ」
「バレなきゃいいのよ。スマホ一台持って歩くくらい、そんなに不自然でもなくない?」
「会話するスマホは、だいぶ不自然ですよ」
「じゃあ、わたしが静かにしてれば問題ないよね」
それはそうだけど、本当に信用して大丈夫なのだろうか──そんな一抹の不安に引っかかって、俺は黙ってしまった。
それを彼女は肯定と受け取ったらしい。
画面の中でぴんと人差し指を立てる。
「はい、じゃぁ提案です。
学内では基本ミュート。
必要なときだけイヤホンで会話。
通学中は藤宮君の判断を優先。
どう? 完璧じゃない?」
「……まぁ、それならいいですよ」
「よし、決まった。じゃぁさっそく行こうか」
まだこちらは準備している最中なのに、どこまでもマイペースに自分の都合で急かしてくる。
強引でわがままなはずの態度なのに、推しの姿でそれをやられると、いつもの配信のノリを思い出してしまい、不思議と嫌な気はしなかった。
「……本当に静かにしてくださいよ」
「おっけー、おっけー。任せなさい」
「振りじゃないですからね。本当に静かにしてくださいよ?」
「しつこいなー。わたしってそんなに信用ない?」
「配信であれだけやらかしてる人を、どう信用しろって言うんですか」
彼女は口を尖らせたが、やがて肩をすくめた。
「分かった、分かった。
じゃあ今日は、“藤宮君の生活見学ツアー”ってことで、大人しくします。
なるべく」
「その最後の余計な一言があるから、信用できないんですよ」
結局、押し切られてしまった。
◆ ◆ ◆
家を出る頃には、空はもう夏の白さに傾いていた。
胸ポケットに入れたスマホ越しに、彼女はしばらく本当に静かだった。
静かすぎて、逆に不気味なくらいに。
駅に着き、ホームで電車を待っていると、イヤホンの奥に小さな声が落ちてきた。
「ねえ、ねえ」
「……なんですか」
「みんな、歩くときは前を見てるのにさ、電車に乗ると急にスマホばっかり見るんだね」
「いや、今さらでは?」
「なんか、配信中のコメント欄と似てる。沈黙があるとさ、人って埋めたくなるんだ」
そんなところに目が向くのかと、少し不思議に思った。
「それ、配信者側の感覚なんですか」
「うーん、どうだろう。わたしは、なんとなくそう感じただけ」
電車に乗っているあいだ、しばしの沈黙が続いた。
やがて目的の駅で降り、改札を抜けて外へ出たところで、俺は再び話題を掘り返す。
「……“なんとなく”ですか?」
すぐに返事は来なかった。
横断歩道の前で人の流れが止まり、赤信号の電子音だけが規則的に鳴っている。
数秒遅れて、彼女はいつもの軽い調子に戻った。
「うーん。
でも、退屈な間を放っておくのって、なんか嫌なんだよね。
そういうの、わたしらしくないし」
青に変わった信号を渡りながら、その言葉を頭の中で反芻する。
本人ではない。
それでも、“星屑みさき”として振る舞うことを迷わない。
昨日までなら、その割り切りを不気味だと思ったはずだった。
だが今は、奇妙なくらい腑に落ちてしまった自分がいる。
推しの姿で、推しの癖で、推しらしい結論を選ばれると、理屈の方が一歩遅れる。
「その姿で、その話し方だと……本当にそこに本物がいるみたいですね」
「そりゃあ。わたしは本物の星屑みさきですから」
「本物だって言い切るんですね。そういうのも学習してるんですか?」
「違う違う。わたしは本物だよ。藤宮君も七味なら分かるでしょ?」
「……まあ、そういうことにしておきます」
話が途切れると、彼女はまた静かになった。
夏の入り口とはいえ日差しはもう強く、歩いているだけで額にじわりと汗がにじむ。
そんな中、俺の胸ポケットの中には“推し”がいて、一緒に大学へ向かっている。
文字にすると意味が分からないし、現実として考えると、なおさら意味が分からない。
途中、街頭ビジョンで流れる動画をふと見上げると、イヤホン越しの声がぴくりと反応した。
「あ、この歌ってメイコの新曲?」
「たぶん。昨日リリースだったはずです」
「ふーん……そっか」
それきり、彼女は少し黙った。
ほんの一拍。
けれど、配信で誰かの名前が出たときに空気を読み損ねない彼女にしては、珍しく間があった。
「……何か気になるんですか」
「別にぃ? ただ、箱の外から聞くと、なんかちょっと変な感じだなって」
人混みを抜け、キャンパスへ続く坂道を上る。
朝の大学は、中途半端に静かで、中途半端に騒がしい。
講義期間前だから学生は少ないが、そのぶん知った顔を見つけたときの逃げ場もない。
「ここから先、本当に静かにしてくださいよ」
「はぁい、はぁい」
「返事が軽いんですよ」
「うわ、信頼がないなあ」
正門が見えたところで、背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
「藤宮先輩、おはようございます!」
心臓が、分かりやすく跳ねた。
振り返ると、姫島が小走りでこちらへ向かってくる。
白いブラウスに薄いカーディガン。
朝の光を受けて、やたらと健康的に見える笑顔だった。
「先輩、今日やっと来ましたね。
神崎准教授、ちょっと機嫌悪かったですよ」
「……そうか」
咄嗟に、胸ポケットの位置を腕で隠す。
なんとなく嫌な予感がした。
さっきまで妙におとなしかった星さんが、このタイミングでも空気を読んで黙っていてくれる保証なんて、どこにもない。
姫島は俺の不自然な姿勢に気づいたのか、首を傾げた。
「先輩、どうかしました?」
その瞬間、イヤホンの奥で、弾んだ声が割り込んだ。
「ねぇね、この子だれ?」
反射で、肩が跳ねる。
「……今は黙ってて」
唇の動きだけで押し返したつもりだったが、姫島の目がそこで止まった。
「え?」
しまったと思う間もなく、星さんは面白がる気配を隠そうとしない。
「あ、もしかして藤宮君の彼女? やるねぇ」
今度こそ、本当に咳き込んだ。
姫島の表情から笑みが引く。
驚いたというより、聞き慣れないものに触れたときの顔だった。
首を傾げたまま、俺の胸元と耳元を交互に見る。
「先輩、今……女の人の声、しませんでした?」
「ん? そうか? 気のせいじゃないか」
イヤホン越しの漏れ声まで拾うなんて、地獄耳か。
ここは強引に誤魔化すしかない。
姫島はすぐには引かなかった。
ただ、決定的に問い詰めるほどの確信も持てないのか、わずかに眉を寄せたまま黙る。
まだ大学の建物にすら辿り着いていないのに、もうこの有様だ。
今日一日、いったい何が起きるのか──考えるだけで、少しだけ頭が痛くなった。




