18話
夢の底で、通知欄だけがやけに白かった。
体調不良のため長期休養——一か月前、そう告げられたときも嫌な感じはした。
だが、あのときはまだ戻ってくる前提で受け止めていた。
配信者が休むこと自体は珍しくない。
喉をやったのかもしれないし、生活が崩れたのかもしれない。
少なくとも、その先にあるのが終わりだとは思わなかった。
なのに、次に届いたのは卒業の告知だった。
説明は短い。
事情は語られない。
長期休養のまま、何の追加情報もないまま、星屑みさきはそのままいなくなった。
そこでふっと目が覚めた。
部屋は暗い。
スマホの画面をつけるまでもなく、まだ深夜だと分かる。
耳に届くのは冷房の低い駆動音だけで、他は何も鳴っていない。
寝返りを打つと、薄いシーツの皺が脚にまとわりついた。
卒業の告知を見た夜の感覚だけが、微睡みの底からじわじわ浮かび上がってくる。
眠気はまだ抜けきっていないのに、頭だけが変に冴えてしまった。
こういうとき、昔の記憶は勝手に連なっていく。
喪失感から遡るように、いちばん最初の夜へ戻っていく。
◆ ◆ ◆
大学一年の春、上京したばかりの俺は、どこにいても少しだけ場違いだった。
講義室には知らない顔しかない。
駅前は人が多すぎる。
寮に戻れば静かすぎる。
地元を出て大学へ入れば、何となく生活が始まるものだと思っていたが、実際には始まった生活の方が先にこちらを置いていった。
とりあえず何か所属だけはあった方がいいだろうと思って入ったサークルも、うまく馴染めたとは言いがたかった。
部室の空気はやけに濃い。
壁には見覚えのないポスター、棚にはフィギュア、机にはカードや同人誌。
話題はアニメ、ゲーム、ラノベ、声優、ソシャゲ、そのとき流行っていた何か。
誰かがひとつ単語を投げるだけで、残りが十も二十も拾って会話を膨らませていく。
その速度が、当時の俺には速すぎた。
知らないものを知らないと言うたび、自分だけ少し後ろに下がる感じがした。
別に排除されたわけじゃない。
ただ、熱量の輪の外に立っている自覚だけがあった。
講義を受けて、一人で飯を食い、部室で適当に時間を潰して寮へ戻る。
そんな日がしばらく続いた。
その夜も、課題の資料を開いたままノートPCの前で手が止まっていた。
静かすぎる部屋は集中に向いているはずなのに、孤独なときの静けさはただ余白になる。
せめて何か音だけ流すかと思って動画サイトを開いたとき、昼間に部室でやたら盛り上がっていた話題を思い出した。
今夜、デビュー配信をする新人のVTuberがいる。
その程度の認識だった。
VTuberという存在は知っていた。
画面の中のアバターが喋って歌って配信する文化。
だが、そこに自分が引っかかるとは思っていなかった。
せいぜい作業用のBGMになるかどうかだろう、と、そのときは本気でそう思っていた。
検索窓に名前を打ち込む。
星屑みさき。
配信待機画面は、夜空をそのまま部屋に持ち込んだみたいな色合いだった。
コメント欄は始まる前から流れていて、知らない人間同士がすでに祭りの入口に立っている。
(こういうの、何が面白いんだろうな)
半分は冷めていた。
もう半分は、その熱気を少し不思議がっていた。
やがて、画面がふっと暗転し、配信部屋を映す粗い照明の光がぼやけて広がる。
背景には、夜色の壁紙と少し生活感のある棚。
マイクに触れる小さなノイズ。
まだ荒削りなアバターがぽん、と現れた。
表情は固い。
それでも、画面越しに分かるくらい緊張していた。
「みなさん、はじめまして。私は星屑みさきっていいま…」
少し噛んだ。
それだけのことなのに、逆に目が離せなくなった。
上手くやろうとしているのに、上手くやりきれない。
その不器用さが、絵の向こう側にいる誰かの体温みたいに見えた。
少し進んだところで、彼女は名前の話をし始めた。
「“星屑”って英語だと“スターダスト”なんだって!なんだかおしゃれだね」
コメント欄が一斉に流れる。
急にキラキラネームだとか、厨二病っぽいだとか、そんな軽口が並ぶ。
その流れを眺めているうちに、俺もつい、独り言の延長みたいな気分で打ち込んだ。
>>つまりスペースデブリってことか
送信してから、少しだけ後悔した。
どうせ流れに埋もれる。
そう思った直後。
「え、スペースデブリ?何ですかそれ何?」
画面の中の彼女が、きょとんとした顔で首を傾げた。
その瞬間、コメント欄の温度が少し上がるのが見えた。
説明するコメント、茶化すコメント、面白がるコメントが一気に重なっていく。
「宇宙ゴミ?……ごみって~(笑)」
その言い方が妙に素っぽくて、俺はPCの前で吹き出した。
配信の向こうには映像が流れているだけだと思っていたのに、その瞬間だけは違った。
自分の打った文字に対して、声と間と表情が返ってくる。
画面の向こうで、本当に誰かが笑っている。
そこではじめて、ああ、と思った。
この文化は、映像を見るだけじゃない。
距離の測り方そのものが違うのだ。
「じゃぁ、ファンネームは宇宙ゴミでいいですか?(笑)」
画面の向こうの悪ノリに、コメント欄はますます勢いづく。
それを眺めながら、俺はいつの間にか完全に課題の手を止めていた。
そこからの流れも、今でも覚えている。
「あはは、ごみはあんまりだよぉ……ゴミ……五味……そうだ、七味にしよう。
私、辛いもの好きだし!」
七味。
その名前が決まった瞬間、画面の中とコメント欄の間に、ひとつの輪郭が生まれた気がした。
たまたまそこに居合わせただけの視聴者が、同じ呼び名を持った集団になる。
その変化が、部外者の俺にも分かるくらい鮮やかだった。
気づけば最後まで見ていた。
作業用に流すつもりだったはずなのに、配信が終わった後もしばらく画面を閉じられなかった。
◆ ◆ ◆
次の日、部室の空気がいつもより少し近く感じた。
昨日の配信の話題が、部屋のあちこちで自然に共有されていたからだ。
誰かが思い出し笑いをして、誰かが切り抜きを見返し、誰かが七味という名前の雑さを面白がっている。
今までなら意味の半分も拾えなかったその空気に、初めて自分の知っているものが混ざっていた。
それだけで、会話に入る理由ができた。
あのコメントを書いたのが自分だと知られたときの妙なざわつきも、今思えば大したことじゃない。
ただ、その日から、部室の壁際に立つだけだった俺へ、配信の話題が自然に飛んでくるようになった。
大学一年の後半には、配信を見た翌日にその感想を共有するのが当たり前になっていた。
切り抜きのURLが回ってきて、授業の合間に開く。
次の歌枠が始まる前には、誰が一曲目を当てるかみたいな、どうでもいい勝負が心の中で始まる。
大学二年になる頃には、星屑みさきの配信は“たまに見るもの”ではなくなっていた。
夜、寮からアパートに住まいが変わっても、ノートPCを開いたらまず配信サイトを見る。
やっていればそのまま流す。
やっていなければアーカイブか切り抜きを流す。
雑談も見るし、歌配信も見る。
配信のテンポがいい日は気分まで軽くなったし、少し調子が悪そうな日は、こちらまで理由のない落ち着かなさを引きずった。
大学三年になると、周囲の会話も就活や研究の話が混ざり始めた。
サークルの熱量は少しずつ散っていったが、それでも星屑みさきの新しい歌や、配信で生まれたネタだけは共有され続けた。
あの頃の俺は、もう自分がオタク文化に詳しくない側だとはあまり思わなくなっていた。
単に、詳しいものがひとつできただけだ。
配信の開始時刻を基準に課題の区切りを決める。
歌枠の日は少し早めに風呂へ入る。
雑談のアーカイブを流したまま寝落ちする。
翌日、部室や研究室の片隅で同じ箇所の話をする。
その反復の中で、東京の生活は少しずつ地面を持った。
オタク友達ができたと言い切るには、当時の俺はまだ少し斜に構えていたと思う。
だが、少なくとも、誰かと同じ配信を見て笑える場所はあった。
講義が終わった後、どこにも寄らずに真っすぐ帰るだけだった日々より、そのことがずっと大きかった。
◆ ◆ ◆
大学四年の、暑くなり始めた頃だった。
一か月前に、星屑みさきは体調不良で長期休養に入ると告げていた。
その時点で不安はあった。
だが、それでも戻ってくると思っていた。
歌い手だろうと配信者だろうと、人は休む。
少し長くなっても、待てばいい。
そんなふうに、自分の中で勝手に話を終わらせていた。
だから、卒業の告知を見たとき、頭が一拍空白になった。
画面の文字がすぐには意味を結ばない。
長期休養の続報ではない。
復帰時期の案内でもない。
終わりだった。
何の前触れもなく、というのは正確じゃない。
一か月前に予兆はあった。
それでも、その先がまさか消失だとは思っていなかった。
戻ってくるための休みだと思っていたものが、そのまま不在へ変わっていた。
あのときの喪失感は、今でもうまく言葉にできない。
生活の中心に置いていたつもりはなかった。
依存しているつもりもなかった。
だが、終わったと告げられて初めて、どれだけ自分の日々に染み込んでいたのかを思い知らされた。
夜に配信サイトを開く癖だけが残る。
更新されないチャンネルを、それでも何度か見に行ってしまう。
切り抜きや歌を流せば声は聞けるのに、それは“今日”じゃないと分かってしまう。
いなくなったのは、配信者一人のはずだった。
それなのに、東京で作った自分の習慣や、誰かと同じものを好きでいられる時間ごと、少しずつ削られていく感じがした。
——ああ、俺はこんなに好きだったのか。
卒業の知らせを見た夜、ようやくそう思い知った。
◆ ◆ ◆
冷房の音が、現在へ引き戻す。
暗い天井を見上げたまま、ゆっくり息を吐く。
眠気はあるのに、もう簡単には寝直せそうになかった。
星屑みさきを好きになった始まりと、失ったと思った夜の感触は、何年経っても同じ場所で繋がっている。
だからたぶん、あの卒業告知の夢はいまでも、ときどき勝手に戻ってくるのだ。




