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魚の降る街  作者: ノカミ
第一章
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9/10

09 悪魔

「やめてくれ……」


心から絞り出したかすかな叫びは、巨大な船にも似た『何か』の重苦しい駆動音にかき消された。


それは遠ざかっていく。


透を陸に置き去りにしたまま、水平線の彼方へと。


膝からガクリと力が抜けた。

砂に威勢良く突いた皮膚が、ざらつく痛みを主張する。


やがて頬を濡らした一粒の冷たさは、瞬く間に無数の筋となって顔を覆った。


潮風が、ただ無情に通り抜ける。

まるで、そこに透という人間が存在しないかのように。


言葉が出なかった。


……予感は、していたのだ。


少しずつ様子がおかしくなっていく凪が、いつか自分のもとから去ってしまうのではないかと。


けれど、どこかでそれは絵空事だと高をくくっていた。

自分の脳が勝手に作り出した虚像なのだと。


だから──昨日、二階へ上がっていく凪を止められなかった。


見知らぬ機体に乗せられ、消えて行く凪の手を掴めなかった。


魚の鱗を纏った痛々しい手首を「気のせいだ」と決めつけ、見て見ぬ振りをしてしまったのだ。


何が兄だ。

何が「妹を守る」だ。


大それた使命感を掲げる前に、彼女の隣に寄り添い、同じ痛みを、同じ恐怖を分かち合うべきだったのではないか。


身の丈に合わない正義感を振りかざし、追い詰めた挙句、彼女をたった一人にしてしまった。


取り返しのつかない失敗。

この世で最も愚かな罪。


こんな兄を捨てた凪の判断は、あまりにも賢明だった。


……………


何故、僕が生き残ってしまったのか。

何故、僕は魚人にならなかったのか。


理由など分からないし、今さら知ったところでどうでもいい。


「はぁ……」


引きちぎるようなため息を吐く。


腰を浮かべ、足を小さく前へ動かした。


この不条理な地獄を終わらせるために。


足裏に刺すような痛みが走る。


焦るあまり、靴を履くことすら忘れていたらしい。


──今更、何を焦っていたのだろう。


何度与えられたチャンスを投げ捨ててきた?


反省とも後悔ともつかない思考が巡るたび、足の激痛が不自然に和らいでいく感覚があった。


それが妙に可笑しくて、透は小さく鼻を鳴らした。


再び肺を満たそうと肩をすくめた瞬間、背後から忍び寄る潮の香りに背中を強く叩かれた気がした。


ふと、振り返る。


そこには、小さな足跡がポツポツと残されていた。


主の姿はない。


質の悪い悪戯に、一瞬だけ不快そうに眉をひそめる。


だが、その人形のように小さな足跡の大きさに見覚えがあった瞬間、透の胸の奥で何かが弾けた。


ああ、そうか。

風は親切にも、最後に僕の罪の痕跡を見せてくれたのだ。


透の唇が、自然と歪んだ。

微笑みが止まらない。


彼はくるりと踵を返し、元来た道を辿りはじめた。


必死に走ってきた自分の足跡が、正解へと導いてくれる。


こんなにわかりやすい標識があるなら、足の裏を血で染めて走ってきた甲斐があったというものだ。


目的地へ向かう一歩一歩が、まるで天国への階段を上っているかのように愉快で、誇らしかった。


ようやく、終わる。


こんなことで笑える自分は狂っているのかもしれない


──だが、そんなまともな自我を残しているのも今だけだ。


*


もしかしたら、可笑しいのは世界ではなく、自分の方なのかもしれない。


そんな思考が脳裏をかすめる頃、透は再びあの道に立っていた。


潮室団地と銀翠谷を繋ぐ、一本の直線道路。


一昨日、凪と一緒に、異形と化した魚人に襲われた現場だ。


あの時の銀翠谷には、ぎゅうぎゅう詰めにされた魚人たちが蠢いていた。


かつて透の目には、そこが明確な「地獄」に見えていた。


魚人が踏み込めないこちら側が天国で、銀鱗の蠢くあちら側が地獄。


なんて身勝手で、醜いエゴイズムだろう。


今の透には、どうしてもそんな風には思えなかった。


目を細めると、あの日と変わらない光景が広がっている。


──魚人


異様な風貌をしたそれらは、あたかも人に成り代わったかの様に堂々と闊歩していた。


あの時は、彼らが絶望の底へ引きずり込む怪物に見えた。


だが、違ったのだ。


異常だったのは、怪物から逃げ惑っていた僕の頭の方だ。


どう見ても、彼らは救世主(メシア)じゃないか。


銀鱗蠢く銀翠谷こそが、真の楽園(エデン)だったのだ。


今なら分かる。『降魚聖会』の連中がなりふり構わず

叫んでいた狂信も、あながち間違いではなかったのだと。


ただ、一つだけ不可解な点があった。


本当に救いを求めているのなら、なぜ今すぐにあの魚人の巣へ飛び込まないのだろう?


今から、僕がしてみせるように。


ぽつり、と冷たさを帯びた粒が頭頂部を打った。


──雨。


だが、降ってくるのはただの水だ。


もうすぐ街に着く。


魚人たちが、行儀よく待ってくれているのが見えた。


透がその身を捧げるのを、今か今かと待ち焦がれているのだ。


「少しだけ待っていてくれ。すぐ行くから」


歩幅が広がる。


足取りは次第に走りへと変わる。


透の顔から、抑えきれない笑みが漏れ出した。


生まれてこの方、こんなにも心が晴れやかで、満面の笑みを浮かべたことがあっただろうか。


地面を力強く蹴り上げた。


視界が浮き立つ。


体が宙を舞う。


冷たい風と雨を一身に受けながら、透は心底愛おしそうに呟いた。


「ばいばい、僕。……それと、ごめん、凪」


コンマ数秒後には、彼らの血肉となって一つになれる。


その至福のイメージに目を閉じた。


──ドゴッ。


しかし、予想していた温かい肉の感触ではなく、無機質で硬い地面が透の全身を砕くように打ち据えた。


「っつぅ……!?」


「アイツに会いに遥々来てみれば……とんだ狂人もいたものだ」


低い声が聞こえた。


後ろからか、それとも前からか。


混乱する頭のまま、透は地面を転がり、血と泥に塗れた視界で「それ」を確かに捉えた。


少なくとも、彼にはそう見えた。


肉塊となって転がる、無数の天使と


乱暴に棒切れを振り回す一匹の悪魔を。


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