09 悪魔
「やめてくれ……」
心から絞り出したかすかな叫びは、巨大な船にも似た『何か』の重苦しい駆動音にかき消された。
それは遠ざかっていく。
透を陸に置き去りにしたまま、水平線の彼方へと。
膝からガクリと力が抜けた。
砂に威勢良く突いた皮膚が、ざらつく痛みを主張する。
やがて頬を濡らした一粒の冷たさは、瞬く間に無数の筋となって顔を覆った。
潮風が、ただ無情に通り抜ける。
まるで、そこに透という人間が存在しないかのように。
言葉が出なかった。
……予感は、していたのだ。
少しずつ様子がおかしくなっていく凪が、いつか自分のもとから去ってしまうのではないかと。
けれど、どこかでそれは絵空事だと高をくくっていた。
自分の脳が勝手に作り出した虚像なのだと。
だから──昨日、二階へ上がっていく凪を止められなかった。
見知らぬ機体に乗せられ、消えて行く凪の手を掴めなかった。
魚の鱗を纏った痛々しい手首を「気のせいだ」と決めつけ、見て見ぬ振りをしてしまったのだ。
何が兄だ。
何が「妹を守る」だ。
大それた使命感を掲げる前に、彼女の隣に寄り添い、同じ痛みを、同じ恐怖を分かち合うべきだったのではないか。
身の丈に合わない正義感を振りかざし、追い詰めた挙句、彼女をたった一人にしてしまった。
取り返しのつかない失敗。
この世で最も愚かな罪。
こんな兄を捨てた凪の判断は、あまりにも賢明だった。
……………
何故、僕が生き残ってしまったのか。
何故、僕は魚人にならなかったのか。
理由など分からないし、今さら知ったところでどうでもいい。
「はぁ……」
引きちぎるようなため息を吐く。
腰を浮かべ、足を小さく前へ動かした。
この不条理な地獄を終わらせるために。
足裏に刺すような痛みが走る。
焦るあまり、靴を履くことすら忘れていたらしい。
──今更、何を焦っていたのだろう。
何度与えられたチャンスを投げ捨ててきた?
反省とも後悔ともつかない思考が巡るたび、足の激痛が不自然に和らいでいく感覚があった。
それが妙に可笑しくて、透は小さく鼻を鳴らした。
再び肺を満たそうと肩をすくめた瞬間、背後から忍び寄る潮の香りに背中を強く叩かれた気がした。
ふと、振り返る。
そこには、小さな足跡がポツポツと残されていた。
主の姿はない。
質の悪い悪戯に、一瞬だけ不快そうに眉をひそめる。
だが、その人形のように小さな足跡の大きさに見覚えがあった瞬間、透の胸の奥で何かが弾けた。
ああ、そうか。
風は親切にも、最後に僕の罪の痕跡を見せてくれたのだ。
透の唇が、自然と歪んだ。
微笑みが止まらない。
彼はくるりと踵を返し、元来た道を辿りはじめた。
必死に走ってきた自分の足跡が、正解へと導いてくれる。
こんなにわかりやすい標識があるなら、足の裏を血で染めて走ってきた甲斐があったというものだ。
目的地へ向かう一歩一歩が、まるで天国への階段を上っているかのように愉快で、誇らしかった。
ようやく、終わる。
こんなことで笑える自分は狂っているのかもしれない
──だが、そんなまともな自我を残しているのも今だけだ。
*
もしかしたら、可笑しいのは世界ではなく、自分の方なのかもしれない。
そんな思考が脳裏をかすめる頃、透は再びあの道に立っていた。
潮室団地と銀翠谷を繋ぐ、一本の直線道路。
一昨日、凪と一緒に、異形と化した魚人に襲われた現場だ。
あの時の銀翠谷には、ぎゅうぎゅう詰めにされた魚人たちが蠢いていた。
かつて透の目には、そこが明確な「地獄」に見えていた。
魚人が踏み込めないこちら側が天国で、銀鱗の蠢くあちら側が地獄。
なんて身勝手で、醜いエゴイズムだろう。
今の透には、どうしてもそんな風には思えなかった。
目を細めると、あの日と変わらない光景が広がっている。
──魚人
異様な風貌をしたそれらは、あたかも人に成り代わったかの様に堂々と闊歩していた。
あの時は、彼らが絶望の底へ引きずり込む怪物に見えた。
だが、違ったのだ。
異常だったのは、怪物から逃げ惑っていた僕の頭の方だ。
どう見ても、彼らは救世主じゃないか。
銀鱗蠢く銀翠谷こそが、真の楽園だったのだ。
今なら分かる。『降魚聖会』の連中がなりふり構わず
叫んでいた狂信も、あながち間違いではなかったのだと。
ただ、一つだけ不可解な点があった。
本当に救いを求めているのなら、なぜ今すぐにあの魚人の巣へ飛び込まないのだろう?
今から、僕がしてみせるように。
ぽつり、と冷たさを帯びた粒が頭頂部を打った。
──雨。
だが、降ってくるのはただの水だ。
もうすぐ街に着く。
魚人たちが、行儀よく待ってくれているのが見えた。
透がその身を捧げるのを、今か今かと待ち焦がれているのだ。
「少しだけ待っていてくれ。すぐ行くから」
歩幅が広がる。
足取りは次第に走りへと変わる。
透の顔から、抑えきれない笑みが漏れ出した。
生まれてこの方、こんなにも心が晴れやかで、満面の笑みを浮かべたことがあっただろうか。
地面を力強く蹴り上げた。
視界が浮き立つ。
体が宙を舞う。
冷たい風と雨を一身に受けながら、透は心底愛おしそうに呟いた。
「ばいばい、僕。……それと、ごめん、凪」
コンマ数秒後には、彼らの血肉となって一つになれる。
その至福のイメージに目を閉じた。
──ドゴッ。
しかし、予想していた温かい肉の感触ではなく、無機質で硬い地面が透の全身を砕くように打ち据えた。
「っつぅ……!?」
「アイツに会いに遥々来てみれば……とんだ狂人もいたものだ」
低い声が聞こえた。
後ろからか、それとも前からか。
混乱する頭のまま、透は地面を転がり、血と泥に塗れた視界で「それ」を確かに捉えた。
少なくとも、彼にはそう見えた。
肉塊となって転がる、無数の天使と
乱暴に棒切れを振り回す一匹の悪魔を。




