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魚の降る街  作者: 野上大地
第一章
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08 手紙

 胸の中の鬱屈を抱えたまま橋を渡ると、その真下に目的地が見えた。


 透き通るような碧。

 岸辺に生い茂る青々とした草木。

 その中を、川魚が生き生きと泳ぎ去っていく。


 自然の恵みそのもののような川のせせらぎは、鼓膜さえも優しく溶かしてくれそうなほど、深い抱擁感を湛えていた。


 透は耐えきれなくなり、服を脱ぎ捨てて脇の階段を駆け下りた。


 川幅は約三メートル。

 流れは穏やかで、何より浅い。


 夏になると、よくここで凪と水遊びをしたものだ。

 近所の友人も混ざり、大合戦に発展することも珍しくなかった。


 二度と戻らない思い出に想いを馳せながら、透は宝石のように澄んだ水面へ足を踏み入れる。


 「冷たっ!」


 突如として全身を襲った冷気に、反射的に足を上げた。


 跳ね上がった水滴が肌を濡らす。

 付着した淡水が、ここ数日で溜まった穢れと疲労を洗い流していくようだった。


 その心地よさに我を忘れ、透はそのまま川へ身を投げた。


 大きな水音とともに、豪快な水しぶきが上がる。


 全身からすっと余分な力が抜けていった。

 脳内に巣食う厄介な悩みさえも、今だけはすべて押し流してくれるような気がした。


 しばらくその感覚を堪能してから川を上がると、太陽はちょうど頭上、南の空を渡っていた。


*


 「ただいま」


 透が家に帰りついた頃には、すっかり日が傾いていた。


 あれから母の行方を追って街中を探し回ったものの、街は完全にもぬけの殻だったのだ。


 得られた成果といえば、わずか二日分ほどの保存食だけだった。


 「おかえり、お兄ちゃん」


 二階から凪の声がした。父の書斎でも調べていたのだろうか。

 

 その様子を確認する気力もなく、透はソファに深く身体を沈めた。


 暫く綿の抱擁を楽しんでいると、ギシギシと階段を叩く音とともに、凪が下りてきた。


 「お腹すいた」


 クタクタの自分に向けられた呑気な声に、透は思わず苦笑した。


 「クッキーとか、色々拾ってきた。好きに食べていいぞ」


 「ありがとー!」


 台所へ向かう凪の後ろ姿を目で追う。


 その時、来ていた長袖の合間を縫って、彼女の手首に何か光るものが映った。

 それは見覚えのある輝きだった。


 「凪、お前、手首……」


 「なにが?」


 振り向いた凪は、何とも言えない不気味な顔で笑っている。

 目は、恐ろしいほど血走っていた。


 言葉を遮るように放たれた声の気迫に、透は思わず気圧される。


 もう一度彼女の手首を確かめようと目を凝らすが、彼女はすばやく両手を背後に隠してしまった。


 「お兄ちゃん、私が心配?」


 凪は、キッチンから戻って、覗き込んできた。


 両親が消えた今、凪は唯一の家族であり、透にとってたった一人の仲間だった。


 「当たり前だろ」


 唇が震える。

 布越しに伝わる妹の体温。


 凪はすり寄るように、そっと身体を押し付けてきた。


 「急に、なんだよ……」


 「お願い。私を心配しないで」


 耳元で囁かれた言葉に、胸がドクンと跳ねる。


 「……どういう意味だよ」


 「そのままの意味だよ」


 薄く微笑むと、凪は背を向けて二階へ上がっていった。


 去り際、彼女の手首に一瞬見えた銀色に輝く鱗。


 それを透はただの瞞しだと自分に言い聞かせ、流れる様に思考を深い闇へと沈めた。


*


 翌朝、透はかすかな物音で目を覚ました。


 それが何の音なのかは分からない。


 まだ夜は明けておらず、家の中は深い暗闇に包まれていた。


 昨日の異様な様子が頭をよぎり、確認のために二階へ向かう。


 なぜか足取りは鉛のように重く、一段踏みしめるごとに不吉な予感が膨らんでいった。


 二階に上がると、甘く澄んだ香りが漂っていた。


 知っている。


 母親が愛用していたフローラルの香水だ。


 三つ並んだドアのうち、凪が寝ているはずの元両親の部屋に手をかける。


 冷たく重い扉。


 「凪、開けるぞ」


 「………………」


 返事はない。


 透は意を決してドアを引いた。


 ギギギ、と嫌な音を立てて扉が開く。


 ──誰もいなかった。


 「……凪?」


 布団は微かに暖かい。


 部屋の隅で、乱雑に脱ぎ捨てられたパジャマも、確かに先程まで彼女の肌で温められていたものだった。


 急いで隣の父親の部屋も調べたが、そこもがらんどうで、こちらは彼女の痕跡すらない。


 昨夜からの凪の変貌。


 それが意味するものを考えるだけで、目眩がしそうになる。


 どうかこれ以上奪わないでほしい。


 透は暗い階段を重い足取りで下りた。


 リビングのテーブルに座り、残っていたクッキーを口に放り込む。

 

 その時、卓上に一枚の紙があることに気づいた。


 文字が書かれている。


 透の額に、嫌な汗が滲んだ。


 目を凝らして文字を追う。


 『──お兄ちゃんへ』


 乱暴で雑な筆跡。


 間違いなく凪の字だった。


 口の中に生唾が溜まり、冷や汗がこめかみを伝う。


 透は静かに紙を置き、深く息を吐いた。


 暗い部屋に一人。


 この手紙を読めば、もう二度と元には戻れない──


 そんな予感が、透の指先を縛りつけていた。


 クッキーをもう一欠片、手に取って噛み砕く。


 口の中の渇きを喉へ押し込み、再び深く息を吸う。


 「よし」


 透は意を決して手紙を持ち上げた。


 雲の隙間から差し込んだ朝光が、静かに紙面を照らし出す。



 手紙を読み終えた瞬間、透の思考は弾け飛び、足はすでに海へと走り出していた。


 居ても立ってもいられなかった。


 手紙に綴られた狂気が、透の背中を激しく突き動かしていた。


*


 今にも雨が降り出しそうな曇天の下、透は力強く砂浜を蹴り飛ばす。


 波打ち際を無我夢中で走る。


 吹き荒れる風が耳元で鳴り響き、胸の中がザワザワと騒ぎ立てる。


 肺が水で満たされたかのような息苦しさに襲われながらも、砂に足を取られつつ必死に前へ進んだ。


 「大丈夫だ……」


 途中で立ち止まり、激しく肩を上下させながら息を吐き出す。


 凪は大丈夫。


 そう自分に言い聞かせ、胸のざわめきに無理やり蓋をした。


 ──大丈夫。大丈夫なんだ。


 縋るような呟きは、しかし、唐突に訪れた異様な静寂にかき消された。


 ……静かすぎる。


 さっきまで轟いていた潮騒が、ピタリと止んでいた。


 風も途絶えた。


 肌にまとわりつく空気だけが、ぬるりと湿気を帯びて重く漂っている。


 異変を感じ、透が水平線に目を向けた──その瞬間。


 海が、沸き立っていた。


 ジュウ、と肉を焼くような不快な水蒸気が立ち上り、沖合の水面がぐにゃりと歪む。

 どんよりとした空を遮るほどの巨大な「何か」が、ゆっくりと海を割りながら滑り込んできていた。


 それは船などではない。


 錆びた鉄と生臭い腐敗臭を撒き散らしながら迫る、巨大な幾何学模様の塊。

 その表面には、無数の魚が蠢いているかのような鱗状の蠢動が見えた。


 『──ご清聴、感謝いたします──』


 水煙の向こうから、昨夜ラジオで聞いたはずの「あの声」が、重低音のノイズとともに海全体から響き渡る。


 膝が、ガクガクと震えた。

 呼吸がうまくできない。

 全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。

 

 逃げなければ。

 走って、逃げなければ。


 そう思うのに、金縛りに遭ったように足が動かない。

 そして──彼は目撃する。

 

 迫り来る異形の最前列。


 蠢く黒ずんだ甲板の上に、ポツンと佇む「見覚えのある小さな人影」を。



─────────────────



 お兄ちゃんへ 


 私は海に行きます。


 あの方いわく、私はえらばれた者だそうです。

 でもそれは、お兄ちゃんも同じです。

 

 私たちの道は分たれました。

 でもいつかまた、めぐり会えます。

 どうか私を心配しないでください。

 どうか私を追って来ないでください。


 そしてもう一度出会えたときには、またいっしょにかけっこをしましょう


            ──深海凪より

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