10 潮流
「なにすんだ……」
降りしきる雨の中、透は地面に這いつくばったまま絞り出すような声を漏らした。
何故だ。何故僕の幕引きを邪魔する。
「まあそう死に急ぐな」
吐き捨てるように言いながら、その男は、軽々と棒切れを振るい、群がる魚人を薙ぎ倒していく。
──悪魔だ。
やはり人は、どこまでいっても悪魔でしかない。
僕の決意を、覚悟を無下にする。
身勝手な正義感を振りかざしながら、英雄を気取ることに寸分の疑いもかけぬその姿は、かつての愚かな自分を見るようで、猛烈な鳥肌が立った。
「関係ないだろ、お前には……」
ひしひしと湧き上がる不快感を隠しもせず、透は敵意を剥き出しにした。
男は透の視線など意に介さず、魚人の返り血を拭いながら呟く。
「『魚降』だろ」
「……なんで…」
透が息を呑んだ瞬間、男はどこか悲しげに眉を顰めた。
そしてゆっくり口を開き、囁くように声を発した。
「其の雨は、いずれ全てを飲み込む」
風が吹き抜けた。
初夏の風が。
爽やかで、血生臭い五月の風が。
透は白い目をさらに細め、低く問い詰めた。
「どういう意味だ」
「そのままさ」
男は遠くを見つめたまま答えた。
数え切れない程群がっていた魚人たちは、既に雁首揃えてアスファルトの上に転がっている。
透の脳裏に、かつて壊れかけたラジオから流れていた虚飾のニュースが蘇った。
「『世界の約七割の人間が行方不明』……」
「なんだ、知っているんじゃないか」
男は手にした棒切れを無造作に投げ捨てた。
付着した血液を撒き散らしながら、それは遥か遠くの暗がりへと消えていく。
「まあ、正確に言えば『行方不明』なんて生易しいものじゃない」
「というと……?」
「死んだのさ」
──死。
その単語が鼓膜を叩いた瞬間、透の全身の皮膚が一気に波打ち、鳥肌とも発疹ともつかない悪寒が全身を覆い尽くした。
つい先刻まで、自分は望んでその扉を叩こうとしていた筈だ。
しかし何故あんなことができたのか、今の透にはすっかり分からなくなっていた。
「まあ、立て」
男がにじり寄り、無造作に手を差し伸べてくる。
「……嫌だ」
「何故だ」
「もう、僕は死ぬんだから」
強がりだった。
ただの意地だった。
しかし、今更誰かに差し伸べられた手を取る気には、どうしてもなれなかったのだ。
男は思いがけないといった様子で、目を丸くした。
「……諦めたのは、親父が死んだからか?」
「……なんで知ってるんだよ」
男は差し伸ばした手を引っ込め、その場にドカリと腰を下ろした。
「俺はあいつに会いに来たんだ。だが、ここに居たのはお前だけだ」
男は煙草でも探すように胸元を探り、吐き散らすように言葉を続ける。
「もう一人居るはずだろう。……母親か、妹さんか」
胸の奥で、ドロリとした黒いモヤが渦を巻く。
「……もう一人、妹がいた」
「別れたのか?」
男は立ち上がった。
どうしても静観しているつもりはないらしい。
「もう……黙ってくれよ」
鬱陶しい。骨の髄まで鬱陶しい。
この男は平然と僕の傷口を抉ってくる。
傷と言っても、数十分前に刻まれたばかりの、まだ血すら止まっていない生の生の傷だ。
透の拒絶に、男は顔色一つ変えず、そのまま透の胸ぐらを掴み上げた。
「やめろ……!」
抵抗する透の力など意にも介さず、男は彼をいとも容易く宙へ持ち上げる。
「お前は、親父の代わりに生きたんだろう? 俺はあいつが居なきゃ困るんだ。お前には親父の罪を償ってもらう」
「あんたは……父さんの何なんだよ!?」
浮き出た血管の太い腕を掴み返し、透は喉を裂くように叫んだ。
「ただの借金取りさ」
冷淡な声が耳に届いた直後、フッと視界が浮き立ち、透の身体は無造作に地面へ叩きつけられた。
「死にたいなら勝手に死ね。もう用は済んだ」
そう言い捨て、男は踵を返して去っていく。
呆然と去りゆく背中を見送る透の視界に、ぬっと黒い影が落ちた。
「縺斐i縺√≠縺溘≠縺?──」
鼓膜を掻き散らすようなノイズの轟音とともに、倒れていたはずの魚人が蠢き、起き上がる。
抉られた腕、千切れた脚、粉々に潰れた内臓。
その全てが何事もなかったかのように再生し、透を取り囲むように肉の壁を形成していく。
冷や汗が頬を伝う。
生臭い血の匂いが鼻腔を刺す。
脚が震えた。
腕も。
内臓が、骨が、脳が。
無理だ。
死ぬなんて、やっぱり無理だ。
──死にたくない。
これは救済などではない。
ただの『未知』と『孤独』という名の独房への入り口だ。
「助けてくれ……! 助けてくれよ!!」
透は叫んだ。
なりふり構わず、泥を、靴を舐めるように助けを求めた。
自分でも呆れるほどの掌返しだったが、プライドも何かも振り払って空気を震わせた。
「はっ、死ぬんじゃなかったのか?」
幾重にも重なった魚人の壁の向こうから、冷ややかな嘲笑が聞こえる。
「死にたくないんだ……っ!」
本心が漏れ出た。
己を否定し、過去の行いを全て過ちだったと決めつけた。
自分すら、認められなかった。
惨めな自分を舞台上の悪役に仕立て上げ、悲劇の渦中から逃れ、他所者顔で平然と石を投げたのだ。
──やり直したい。
自分のした事くらい、認めてあげたい。
妹と、凪と、こんな別れ方で終わりたくない。
そんな切な願いが強くなる度、何かが心の中で蠢いた。
『強く、生きなさい』
突如、父の最期の言葉が脳を駆け巡った。
生きなければ。
父の言葉に、報いなければ。
手が震える。
恐怖感から来るものではない。
──生きる意思だ。
それは、あっという間に逆巻く潮流となり、心臓を押し上げる。
叫べば叫ぶほどに、自己を渦巻く力が強くなり、心が軽くなる。
何と不思議で、心地よい感覚だろうか。
やがて全身が水に包まれた。
肌をヒンヤリと刺す様な、それでいて温かく包み込む様な、そんな感覚だった。
これは形容している訳ではない。
本当に、包まれているのだ。
「……気持ちいい」
口をついて溢れ出た言葉が、耳を揺らす。
その瞬間、『触覚』が何かに触れた事を告げた。
それはザラついた異物で、非常に不愉快だった。
瞬きの後。
『視覚』それを溶かした事を告げる。
湧き出る源泉の如く、見事に融解している。
全てが呼応する。
『聴覚』が、『嗅覚』が、『味覚』が。
───『五感』が。
合わさる。
寸分のズレなく、心が、身体がそれに迎合する。
それが何とも心地よく、目をつぐんだ。
息を吸い、吐き出す。
普段と変わらないはずの呼吸すら、いまは血管を巡る血流、肺の拍動、脳波の蠢きまで、手に取るように知覚できた。
肺の空気を全て吐き出して、再び目を開く。
そこには何と平坦な景色が広がっていた。
魚人は、もう居ない。
彼らは跡形もなく消え去っていた。
代わりに、白髪の男が居た。
歳は三十程だろうか、酷く驚いた顔をしている。
何か言いたげな、そんな顔。
透は静かに見つめる。
やがて男は口を開いた。
「お前、俺と来い」




