06 チーズとラジオ
兄は変わってしまった。
魚が降り、父が魚人になったあの日から。
以前の様に、遊んではくれない。
以前の様に、かけっこもしてくれない。
彼の背中に、何か重たいものが乗っている様な気がしてならない。
もし仮にそうだとするならば、その正体は分かりきっている。
妹である自分自身だ。
昨日から、少しずつ自分を蝕んでいく事実。
母親が帰って来ないこと。
自分が、兄の枷となっていること。
窓辺から差し込む夕日。
家中に充満する潮の香り。
部屋の奥は、既に闇に飲み込まれていた。
「はぁ」
凪は溜息をつきながら、見知らぬ人間が住んでいたであろう家を物色する。
テーブルに置かれたコップ。
割れたお皿。
散乱した料理は、妙に状態が良かった。
ここの家族は食事中だったのであろう。
生々しい程の生活感が、罪悪の背徳を加速させる。
『グルルルル』
腹の虫が呻き声をあげた。
昨日の朝から何も食べていない。
そんなことを思い出してから、床に散らかった食事が異様に魅力的に思えてしまう。
(ちょっとだけ…)
そう心の中で呟きながら、最も気になった唐揚げを持ち上げる。
「うぇっ!」
口に含んだ瞬間、それはサラサラと優雅な音を立てて形を崩した。
それは、粒子となり舌に付着した瞬間に存在を知ることが出来る
────塩だ。
他の料理も立て続けに結晶の残骸と化してしまった。
しかし、余りにも空腹だった。
それ故、ただの塩一つに異様なまでに惹きつけられる。
空腹こそ最高のスパイスとは言うが、まさか調味料にまでそれが適用されてしまうとは、思ってもみなかった。
もう我慢は出来ない。
塩を一掴みし、チロチロ舐めてみた。
結晶が体液に触れた瞬間、それらは混ざり合い、刺す様な感覚が、舌から喉を巡る。
「美味しい…」
暗い部屋で、少女は独り言つ。
言うつもりもなかった言葉が、漏れ出てしまった。
誰にも届けるつもりも無く、言葉を吐いてしまった自分が恥ずかしくて、火照った顔を手で覆う。
差し込む光に照らされた少女は、徐に立ち上がり再び塩を口に運んだ。
*
「特に異常はないな…」
そう声を漏らした透の周りには、ネジやらドライバのような小難しい部品が乱雑に散らばっている。
日は沈みかけ、いよいよ何も見えなくなってくる時間帯だ。
「となると、やっぱ電池か。凪の奴遅いな…」
透は独り言が多い。
こういった理屈っぽい事をするときは、さらにそれが増える傾向にある。
透の呟きが静かに反響する部屋にそぐわぬ、爆音が響き渡り、背中が微揺する。
「ただいま!」
「凪か、おかえり」
勢いよく開いた扉は、涼しい五月の風と共に部屋の空気をガラリと変える。
凪が電池をもってリビングに入ってきた。
「足元気をつけろ」
「痛っ!」
「大丈夫か?電気、点かねぇから。夜は大人しくしておこう」
「分かった。それでさ、お兄ちゃんお腹空いてない?」
「そういえば…」
思い出したかのように、透の腹がグルグルと鳴った。
「冷蔵庫なんか入ってたかな…」
そう言いながら立ち上がり、冷蔵庫まで歩いた。
透の後ろにいた凪は、どうも浮ついてしょうがないという様子だ。
扉を開けてみたところで、なんとも初歩的なところに気付かなかった己の愚かさに呆れた。
電気が通っていないということは、当然、冷蔵庫も冷えていない。
中から噴き出すであろう耐え難い腐卵臭に備え、鼻を摘んだが、意外にもそれは無臭だった。
「腐ってないのか...よかった」
「多分それ、食べられない」
背後から聞こえた声に首を回す。
振り返った先には、凪が何かを持って立っていた。
「さっき電池を探してた時に、散らかった食材があったの」
凪は、持っていた物をポケットに入れて、透の横に並び立つ。
「それも、時間が経っていた割に状態は綺麗だった。」
「それがなんだよ」
「でも」
ゆっくりと中に入っていたアルミの袋を取り出した。
細い指をしなやかに曲げ、包装を解いていく。
それは至ってシンプルな動きだったが、傀儡を操るかの様な奇妙さを孕んだ鮮やかな手つきに、無性に目を奪われた。
「それは私の口の中で」
次第に、包まれていた物体が露出する。
鮮烈なバター色をしたその立方体をゆっくりと摘む。
「────崩れちゃった」
持っていたチーズがバラバラになり、幾千もの白い粒となって床に転がった。
それは、絶妙なバランスでなんとか形を保っていたに過ぎなかった。
魚降と呼ばれるその災害のせいかは知らないが、ただ少しの刺激でいとも簡単に崩壊する、不安定な物体と成り下がっていた。
「なんで...」
透は絶句した。
これでは魚人云々の前に、飢餓で静かに息絶えてしまう。
不規則に浮かんだ発疹が、透の肌を覆い始める。
「でも安心して」
そう言ってポケットからさっきの袋を取り出した。
「食べられる物、見つけたの」
「カロリーメイト?」
「うん。パサパサの食べ物は多分全部食べれると思う」
そう言いながら手渡されたそのパッケージを破り捨て、中から二つの棒切れを取り出した。
それをゆっくりと口に運ぶ。
先程の様に突然に崩れ去ることはなかった。
ただ、それは両の歯によって砕かれ、押し潰され、さっきのチーズのように粉々になった。
「うま!凪は食べなくて良いのか?」
「うん。もう沢山食べたから」
そう言って、少し膨らんだお腹を透に見せつける。
「食い過ぎだろ」
「うるさーい」
いつもの調子の凪に、透は眉を下ろす。
いつの間にか、差し込む光は無くなっており、部屋は外と変わらぬ暗闇だった。
「じゃあ、電池入れてみるか」
「いれるー!」
テンションの高い凪に、以前の様に合わせる事の出来なくなっていた。
妹を追う様にして、ラジオの方へと歩みを進める。
鼠色のその機械は、寝静まった様にピクリとも動かない。
「ほんとに電池で治るの?」
「回路や部品に異常は無かったから、多分治る」
そう言って電池をはめ込むと、再び電子ノイズが流れだした。
『ジーー、ジジジ……』
静寂に包まれた部屋。
互いの顔を確認する事すら儘ならぬ暗黒。
そんなひっそりとした空間に反響するは、世界の終焉を告げる電子音。
『昨日の正午、突如として降り注いだ雨、魚降によって、世界人口の約七割が行方不明となりました。』




