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魚の降る街  作者: 野上大地
第一章
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6/10

06 チーズとラジオ

 兄は変わってしまった。


 魚が降り、父が魚人になったあの日から。


 以前の様に、遊んではくれない。

 以前の様に、かけっこもしてくれない。

 

 彼の背中に、何か重たいものが乗っている様な気がしてならない。

  

 もし仮にそうだとするならば、その正体は分かりきっている。

 妹である自分自身だ。


 昨日から、少しずつ自分を蝕んでいく事実。


 母親が帰って来ないこと。

 自分が、兄の枷となっていること。

 

 窓辺から差し込む夕日。

 家中に充満する潮の香り。


 部屋の奥は、既に闇に飲み込まれていた。

 

 「はぁ」


 凪は溜息をつきながら、見知らぬ人間が住んでいたであろう家を物色する。


 テーブルに置かれたコップ。

 割れたお皿。

 散乱した料理は、妙に状態が良かった。


 ここの家族は食事中だったのであろう。

 生々しい程の生活感が、罪悪の背徳を加速させる。


 『グルルルル』


 腹の虫が呻き声をあげた。


 昨日の朝から何も食べていない。

 そんなことを思い出してから、床に散らかった食事が異様に魅力的に思えてしまう。


 (ちょっとだけ…)


 そう心の中で呟きながら、最も気になった唐揚げを持ち上げる。

 

 「うぇっ!」


 口に含んだ瞬間、それはサラサラと優雅な音を立てて形を崩した。

 それは、粒子となり舌に付着した瞬間に存在を知ることが出来る


 ────塩だ。


 他の料理も立て続けに結晶の残骸と化してしまった。


 しかし、余りにも空腹だった。

 それ故、ただの塩一つに異様なまでに惹きつけられる。


 空腹こそ最高のスパイスとは言うが、まさか調味料にまでそれが適用されてしまうとは、思ってもみなかった。


 もう我慢は出来ない。

 塩を一掴みし、チロチロ舐めてみた。


 結晶が体液に触れた瞬間、それらは混ざり合い、刺す様な感覚が、舌から喉を巡る。

 

 「美味しい…」


 暗い部屋で、少女は独り言つ。


 言うつもりもなかった言葉が、漏れ出てしまった。

 誰にも届けるつもりも無く、言葉を吐いてしまった自分が恥ずかしくて、火照った顔を手で覆う。


 差し込む光に照らされた少女は、徐に立ち上がり再び塩を口に運んだ。


  *


 「特に異常はないな…」


 そう声を漏らした透の周りには、ネジやらドライバのような小難しい部品が乱雑に散らばっている。


 日は沈みかけ、いよいよ何も見えなくなってくる時間帯だ。


 「となると、やっぱ電池か。凪の奴遅いな…」


 透は独り言が多い。

 こういった理屈っぽい事をするときは、さらにそれが増える傾向にある。


 透の呟きが静かに反響する部屋にそぐわぬ、爆音が響き渡り、背中が微揺する。

 

 「ただいま!」


 「凪か、おかえり」


 勢いよく開いた扉は、涼しい五月の風と共に部屋の空気をガラリと変える。

 凪が電池をもってリビングに入ってきた。


 「足元気をつけろ」


 「痛っ!」


 「大丈夫か?電気、点かねぇから。夜は大人しくしておこう」


 「分かった。それでさ、お兄ちゃんお腹空いてない?」


 「そういえば…」


 思い出したかのように、透の腹がグルグルと鳴った。


 「冷蔵庫なんか入ってたかな…」


 そう言いながら立ち上がり、冷蔵庫まで歩いた。

 透の後ろにいた凪は、どうも浮ついてしょうがないという様子だ。


 扉を開けてみたところで、なんとも初歩的なところに気付かなかった己の愚かさに呆れた。


 電気が通っていないということは、当然、冷蔵庫も冷えていない。


 中から噴き出すであろう耐え難い腐卵臭に備え、鼻を摘んだが、意外にもそれは無臭だった。


 「腐ってないのか...よかった」


 「多分それ、食べられない」


 背後から聞こえた声に首を回す。

 振り返った先には、凪が何かを持って立っていた。


 「さっき電池を探してた時に、散らかった食材があったの」


 凪は、持っていた物をポケットに入れて、透の横に並び立つ。


 「それも、時間が経っていた割に状態は綺麗だった。」


 「それがなんだよ」


 「でも」


 ゆっくりと中に入っていたアルミの袋を取り出した。


 細い指をしなやかに曲げ、包装を解いていく。


 それは至ってシンプルな動きだったが、傀儡を操るかの様な奇妙さを孕んだ鮮やかな手つきに、無性に目を奪われた。

 

 「それは私の口の中で」


 次第に、包まれていた物体が露出する。

 鮮烈なバター色をしたその立方体をゆっくりと摘む。


 「────崩れちゃった」


 持っていたチーズがバラバラになり、幾千もの白い粒となって床に転がった。


 それは、絶妙なバランスでなんとか形を保っていたに過ぎなかった。


 魚降と呼ばれるその災害のせいかは知らないが、ただ少しの刺激でいとも簡単に崩壊する、不安定な物体と成り下がっていた。


 「なんで...」


 透は絶句した。

 これでは魚人云々の前に、飢餓で静かに息絶えてしまう。


 不規則に浮かんだ発疹が、透の肌を覆い始める。


 「でも安心して」

 

 そう言ってポケットからさっきの袋を取り出した。


 「食べられる物、見つけたの」


 「カロリーメイト?」


 「うん。パサパサの食べ物は多分全部食べれると思う」


 そう言いながら手渡されたそのパッケージを破り捨て、中から二つの棒切れを取り出した。


 それをゆっくりと口に運ぶ。


 先程の様に突然に崩れ去ることはなかった。

 ただ、それは両の歯によって砕かれ、押し潰され、さっきのチーズのように粉々になった。


 「うま!凪は食べなくて良いのか?」


 「うん。もう沢山食べたから」


 そう言って、少し膨らんだお腹を透に見せつける。


 「食い過ぎだろ」


 「うるさーい」


 いつもの調子の凪に、透は眉を下ろす。


 いつの間にか、差し込む光は無くなっており、部屋は外と変わらぬ暗闇だった。

 

 「じゃあ、電池入れてみるか」


 「いれるー!」


 テンションの高い凪に、以前の様に合わせる事の出来なくなっていた。


 妹を追う様にして、ラジオの方へと歩みを進める。


 鼠色のその機械は、寝静まった様にピクリとも動かない。


 「ほんとに電池で治るの?」


 「回路や部品に異常は無かったから、多分治る」


 そう言って電池をはめ込むと、再び電子ノイズが流れだした。


 『ジーー、ジジジ……』


 静寂に包まれた部屋。

 互いの顔を確認する事すら儘ならぬ暗黒。

 

 そんなひっそりとした空間に反響するは、世界の終焉を告げる電子音。


 『昨日の正午、突如として降り注いだ雨、魚降によって、世界人口の約七割が行方不明となりました。』


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