05 裂け目
住宅が建ち並ぶ街路。
それは歪なほどに真っ直ぐ伸びており、視界を遮る障害物は一つとしてない。
そんな道の真ん中で、少年は吹き荒ぶ潮風に打たれながら、呆然と立ちすくんでいた。
凪が、居ない。
透の額から汗が滴り落ちた。
透は迷わず首を振り抜いた。
そして走ってきたはずの道を見通そうとする。
しかし──。
「────違う」
透の手が震えた。
さっきまでいたのは、銀翠谷へと繋がる通路だったはずだ。
今は──
「そんな訳ないだろ……」
透は乱暴に目を擦り、再び正面を向き直す。
「.....」
────海が、あった。
下を見れば、一面に敷き詰められた砂がぐにゃりと全体重を受け止めている。
天を仰げば、異様なほど鮮やかな青空が視界のすべてを覆い尽くしていた。
見知らぬ現象、見知らぬ生命体、見知らぬ土地。
昨日から立て続けに降りかかる異変の全てが、総力を挙げて透の精神を削り取っていく。
吹き荒れる風に呼応するかの如く、波は踊り狂っている。
然し、どういう訳か目に映る景色には、そんな激情を覆い隠すほどの拭い切れぬ違和感が、目に付いて仕方がなかった。
(何だ、あれ)
海の少し上に、ぽっかりと「裂け目」のようなものが浮かんでいた。
硝子窓程の大きさのそれは、サイズにそぐわぬ異様な存在感を放つ
周囲の空間を歪ませ、しかし注意深く凝視しなければ見落としてしまいそうなほど半透明で、不安定な現象。
周囲の違和感の正体は、間違いなくあれだった。
もしかすると、自分はあの裂け目を通ってここへ飛ばされたのかもしれない。
そう直感した瞬間、透は吸い込まれるように走り出した。
歪みに向かって、一直線に身体を投げ出す。
戻らなければ。
凪のところへ、今すぐに。
周囲の景色が、線の様に細くなり、自分が今どこにいるのかすら分からない。
裂け目に近づけば近づくほどに、息が切れる。
喉に血が塗りたくられる。
水を撫でる音が、直接脳を揺らす。
先程の物と良く似た感覚が、透に降りかかった。
視界が真っ白に染まる。
身体から重力が抜け、意識が急速に遠のいていった。
*
気がつくと、見慣れた景色が目に飛び込んできた。
横に視線を滑らせると、そこには凪が立っていた。
「お、お兄ちゃん! どこ行ってたの?」
凪は目を丸くして叫んだ。
透はそれに答える余裕もなく、大きく口を開けて荒い息を吐き出す。
不足していた酸素がようやく全身を巡っていく。
少し落ち着きを取り戻すと、顎を引き戻しながら言葉を絞り出した。
「……分からない。でも、もうここに近づくのはやめよう」
凪は緊張を解き、少し目元を緩めた。
「怖かったんだぁ」
「違う」
透も脱力したように瞼を伏せた。
「ただ、ここは危険なんだ」
「なにが? あ、」
凪は何かを思い出したように首を振った。
「あの化け物さ、こっちに来れないみたい」
「どういうこと?」
「私ね、アイツに捕まりそうになったの。お兄ちゃんがどんどん先に行っちゃったから」
透は気まずさに視線を落とした。
そんな兄を見て、凪は悪戯っぽく笑いながら言葉を続ける。
「そしたら急に立ち止まって、消えちゃったの」
「なんだよそれ……」
透は少し思案してから、ぽつりと言い出した。
「もしかしたら……」
「どうしたの?」
「潮室団地には魚人がいない。でも、銀翠谷にはたくさんの魚人がいる。ということは、魚人はこの団地に入れないのかもしれない」
息を整えながら、論理を組み立てていく。
「もし潮室に存在できない理由があるなら、父さんが昨日突然消えたことにも説明がつく」
言い切った後の凪の反応が、妙に透の印象に残った。
凪は一瞬だけ何か深い考えに沈むような顔を見せ、すぐにいつもの笑みに戻った。
「凪、何かあるのか?」
「……いや。ご飯、これからどうしようかなって思ってただけ」
「なんだよそれ」
拍子抜けした透は、緊張の糸が切れたように笑ってしまった。
しかし──それが思った以上に深刻な問題であることを、この時の彼はまだ知らなかった。
────────────────
「あれ、水が出ない」
そんな少年の何気ない一言から始まる世界の崩壊があってもいいだろう。
自宅に帰り、母がいないことを確認した透は、重い足取りで洗面台に向かった。
手を洗おうと蛇口を捻ったが、乾いた音が響くだけで水は一滴も出ない。
「お兄ちゃん、テレビもつかなくなってる」
後ろから凪が声を潜めて割って入った。
「はぁ?」
透は困惑しながら玄関へ向かい、ポストを開ける。
中は空っぽだった。
幸いまだ時刻は午後四時。
窓から差し込む日光のおかげで部屋は十分に明るかった。
それから何度も確かめた結果、電気、ガス、水道のすべてが完全に止まっていることが判明した。
「外で何が起こってるんだ?」
「ママがお金払ってなかったのかも」
「それは確認した」
「えー。あ、」
凪が何かを思いついたように顔を上げた。
「ちょっと待ってて!」
バタバタと音を立てて階段を駆け上がっていく。
それからどれほどの時間が経っただろうか。
ソファーがすっかり透の体の形に馴染んでしまった頃、凪が埃まみれになって降りてきた。
「これ見て!」
凪が差し出したのは、長いこと放置されていた古びたラジオだった。
「使えるのか、これ?」
「知らない。でも、お兄ちゃんこういうの得意でしょ?」
確かに透は機械の構造に強かった。
夏休みの自由研究でラジコンを自作したこともある。
「まあ......」
そう呟き、透はラジオの電源スイッチに手を伸ばした。
積もった埃が、触れた振動だけで雪のように舞い上がる。
「あれ……」
透はそう呟きながら、訝しげに見つめる。
「つかない……?」
凪が痺れを切らしてラジオを叩こうとした、その瞬間。
『ジーー、ジジジ……』
現代の製品とは思えない酷いノイズとともに、機械が不気味に動き出した。
『……降が……割が消……』
「やっぱ聞こえな──」
「静かにしろ、凪」
透の制止に、凪は素直に口をつぐむ。
『……魚降……突如……』
「魚降……」
「魚が降ってきたの、なんで知ってるの?」
「こんな異常現象、情報が回ってない方がおかしいだろ」
「たしかに」
しかし、それ以上ラジオが音を拾うことはなく、再び沈黙した。
「電池か……?」
「私、探してくる!」
凪はキャビネットからタンスの隅までいそいそと捜索したが、やがて青ざめた顔で戻ってきた。
「あったか?」
ラジオの埃を払っていた透が声をかける。
「ないし……」
「向こうの家も探したか?」
「お兄ちゃん、何言ってるの?」
「いや、だって人もう居ねぇじゃん」
凪はまるで軽蔑するような目を向けてきた。
「どういう目だよ。でも、この家にないなら隣から取ってくるしかない。」
「うーん...」
「それに今は情報の方が大事だ。もしかしたら母さんに関する手がかりが流れるかもしれない」
「行ってきます!」
階段へ駆け出していく妹の背中を見送りながら、透は小さく息を吐く。
透は凪が戻るまでの間、ラジオの内部の点検を始めることにした。




