03 帰路
雨上がりの黒く変色したコンクリートを、透は凪を背に乗せて歩いていた。
辺りは静寂に包まれ、透の一挙手一投足が、やけに反響して聞こえる。
曲がり角を曲がると、透たちの住む潮室団地に入った。
そこも同様に物音の一つもなかった。
普段から閑静な場所ではあるが、ここまで静まり返っていることはない。
「凪、傷は大丈夫かよ」
透が尋ねる。
「……うん」
凪の傷は思ったよりも浅く、急いで手当てをする必要もなさそうで、透は密かに胸を撫で下ろした。
しかし、住宅地を進むにつれ、拭いきれない違和感が二人を執拗に追いかけてくる。
それは些細なものだが、まるで誰かが仕組んだかのような、不気味で無機質な違和感だった。
「なんか、人がいない」
凪が静寂を破った。
「そうだな」
透はそれ以上、何も言わなかった。
一瞬、恐ろしい考えが脳裏をよぎったが、それを口にする覚悟も確証も、今の彼にはなかった。
海風が、二人の濡れた服を乾かすように通り抜けていく。
*
「母さんには、なんて言えばいいかな」
透がぽつりと呟いた。
「パパ……お魚さんになっちゃったんだよね」
「ああ。あの雨が降ってから、急に」
「でも、パパはなんか知ってそうだったよ」
「……とりあえず、母さんに聞くのが一番手っ取り早いな」
「うん」
二人は確認し合うように言葉を交わし、再び黙りこくって歩みを進めた。
潮風の吹くこの宅地は、想像以上に広い。
東に行けば海があり、反対側へ進めば街がある。
魚が住む世界と、人が住むの境界。
いわばこの住宅地は、砂浜のような場所だった。
しばらく歩き、レモンイエローの屋根を左に曲がった先に、馴染み深い家が見えた。
深海家は住宅地の東側に位置しており、海からは十分程で着く距離だった。
「凪、もう着くぞ。歩けそうか?」
「しんどいから、お兄ちゃんの背中がいい」
「分かった」
十中八九、嘘だと分かっていた。
凪は昔から歩くのが嫌いで、学校に行く時も「車で送って」と母にごねてばかりいたからだ。
しかし、今は不思議とその我儘が愛おしかった。
ぽっかりと空いた心の穴が、彼女の柔らかい体温を欲していたのかもしれない。
茶色の屋根に、庭の木製ブランコ、アサガオのプランター。
見慣れたはずの我が家だが、降り注いだ魚から溶け出た水が付着しているせいか、どこか異質なものに見えた。
透は玄関の前で凪を背中から下ろし、静かにドアノブへ手を伸ばした。
だが、金属の冷たさを感じたまま、手首が動かない。
生ぬるい風が二人の頬を掠めた。
自分の家の扉を開けるだけなのに、強い拒絶感が体を強張らせた。
まるで他人の家のドアであるかのように躊躇してしまう。
いつもの「ただいま」という言葉が、やけに重々しい儀式のように思えた。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
背後から凪の不審そうな声が響く。
「なんでもない」
透は意を決してドアノブを回した。
ギー、と鈍い音を立てて扉が開く。
漏れ出てきた冷気が、一瞬だけ二人の肌を撫でた。
目の前に広がるのは、何の変哲もない玄関。
しかしそこは、五月とは思えないほどひんやりと冷え切っていた。
「……ただいま」
返事はない。
靴を脱ぎ、中に上がる。
家の中はしんと静まり返り、時計の針の音だけが無機質に響いていた。
カーテンはすべて閉め切られ、日の光が入らない部屋は、宵闇に包まれた帰り道のようだった。
「ママはお出かけしてるのかな」
「……もしかしたら、近くでお祭りでもやってるのかもな」
適当な言葉でお互いを誤魔化しながら、二人はリビングのソファに腰を下ろした。
「……めっちゃ眠い」
「うん」
壁掛け時計の短針は、三時を指している。
「俺、ちょっと横になってくる」
「………………」
凪は引き止めなかった。
透は立ち上がり、重い足取りで階段を上った。
二階には三つの部屋がある。
透の部屋、両親の寝室、そして父親の書斎。
透は母親を探すことすら放棄して、淡々と自分の部屋の戸を選んで床に就いた。
毛布を頭から被り、深く目を瞑る。
キャパを超えた出来事に疲れてしまっていた彼が、吸い込まれるように眠りにつくその瞬間
──下の階から、少女の小さく啜り泣く声が聞こえてしまったのを、彼はどうしても忘れられなかった。




