02 束の間
魚が降る中、凪と透は狭い船内で、父親から化け出た怪物と相対していた。
凪は腰が抜けたのか、船の後方で尻もちをついたまま動けず、透はあまりの衝撃的な光景に呼吸を忘れている。
さっきまで父が着ていた服がビリビリに千切られ、デッキに無残に散らばっていた。
降り注ぐ魚は、甲板に触れた端から溶けるように水分へと変わり、船内は瞬く間に水浸しになっていく。
「お、お前……父さんに、何をした」
透は震えをこらえて問いかけた。
しかし、怪物の銀色の鱗は、透の震えた声ごとすべてを反射し、ただ鈍く冷たく輝くだけだった。
冷たい潮風が鼻孔の粘膜をチクチクと刺す。
およそ六平方メートルの小舟が波に揺らされる合間に、その魚人は探るような足取りで、ゆっくりとこちらににじり寄ってきた。
ここには逃げ場がない。
陸までは約三百メートル。
今のエンジンの速さなら、一分もかからずに到着するはずだ。
「凪、陸に着いたら真っ先に家に走れ。母さんなら、何か知ってるかもしれないから」
透は膝を折り、怯える凪の肩に手を置いた。
極度の緊張で、関節に乳酸が溜まっていくのがわかる。
手汗でぐっしょりと濡れた拳を握りこみ、後方へ後ずさりながら立ち上がった。
そしてすぐさま父と積み込んだ荷物の隙間からタモ網を掴み取り、怪物の前に立ち塞がった。
陸に着くまでの残り一分弱。
六十秒足らずのその時間。
それは本来、刹那的に流れる日常の一コマに過ぎない。
しかし今の彼らにとって、それは途方もなく遠い時間の壁のようだった。
魚人はにじり寄ってきて、口を開いた。
「縺溘s縺?」
耳の奥を抉るような異質な轟音と共に、白銀を纏う腕が目の前に突き出される。
透は反射的に上体を反らした。
「っ……!」
気付いた時には、頬肉を削り取られていた。
傷はやすりで削られたかのようにザラザラとしており、流れ出る血潮の量は枚挙にいとまがない。
直後、体に凄まじい衝撃が走り、透の体は激しく船縁に打ちつけられる。
その衝撃で、ボートが一瞬ぐらりと大きく傾いた。
鈍い音とともに、さっきまでの激しい揺れとは比較にならない振動が走る。
直後、目の前を塞いでいた巨大な影が、ふっと視界から消えた。
視線をわずかに下へ落とすと、あれほど脅威だった魚人は、甲板の上で情けなくぐにゃりと倒れ込んでいた。
その姿は、どこかで見覚えがあった。
まだ、小学生だった頃だろうか。
父と一緒に行ったあの船旅が、やけにしつこく脳内を掻き回す。
なんでだろう。
なんでそれを思い出してしまう。
「……船酔い、だって」
背後から聞こえた小さな声。
「ねぇ……パパさ、漁師のくせに、昔から船酔いしやすかったんだよ」
先ほどより少しだけ響くその声で、空気が微かに震える。
「船に乗るたびに、いつも気持ち悪そうにして、げろげろ吐いてたよね」
凪は泣きそうになりながらも、懸命に言葉を紡いでいた。
透は振り返らなかった。
凪がいつものように金色の瞳を潤ませていることなど、見なくても分かっていた。
それを見てしまえば、張り詰めていた糸がプツリと切れてしまう。
感情がすべて溢れ出てしまう気がして、前だけを真っ直ぐに見つめた。
彼は荒れた息を整え、服の裾で血を拭うと、震える声で言った。
「凪、もうすぐ陸だ」
堪えた。
目の前の怪物が、他でもない「父親」だと知った上で。
「すぐに、い……えに……」
堪えた。
絶望に呑まれて肩が上がらないように、妹に心配をかけないように。
「かあ……さ……ん……の……」
堪えているつもりだった。
「あ、あ、あ……」
「ああぁ゛あぁああ゛ああぁ゛ぁあ……!」
涙が、どうしても止まらなかった。
最も尊敬していた父親。
その大きな背中と、逞しく生えた、男らしい髭。
少しおっちょこちょいで、けれど誰よりも優しかった父親。
そんな父を奪ったのは一体なんだ。
──ただの雨か。
ただ無機質に、無慈悲に降り注ぐだけの、魚の雨なのか。
あふれ出る感情をどこにぶつければいいのか分からないまま立ち尽くす透の頭上に、ふと、重たい影が落ちた。
滴り落ちた冷たい水が、下を向いたまま打ちひしぐれる透の髪を濡らす。
大きな、人を模したような形をした影。
その気配を感じた瞬間、このあと自分たちに何が起きるのかが、嫌でも脳裏に鮮明に浮かんだ。
不思議と、肩の力が抜けた。
「お兄ちゃん!」
妹の叫び声が響いた。
それと同時に、身体がふわりと宙に浮くような感覚を覚える。
透は弾き飛ばされ、再び固い船縁に激しく叩きつけられた。激痛に、思わず目をギュッと強く閉じる。
「なに、すんだよ……」
掠れる声を吐き出しながら目を開けた先には、血まみれになった凪の小さな姿があった。
「……え?」
「お兄ちゃんは……早く、ママのところに行って……」
静かな、しかし透き通るようにハッキリとした声だった。
凪の胸元からは血が流れ落ち、力なくその場に崩れ落ちている。
それでも、こちらを見つめる彼女の瞳には、強い光が宿っていた。
自分の白い眼球が微細に震えるのを見つめながら、透はなぜか妙に落ち着いた呼吸を取り戻していた。
「……ふざけんなよ」
透は掠れた声で呟くと、深く息を吸い込み、涙混じりの血を乱暴に拭った。
そして、ふらつく足取りで、再び魚人のほうへと向き直る。
魚人はもはや何もしてこなかった。
ただ、自らの赤く染まった右手の平を呆然と見つめたまま、動かなくなっている。
ボートは惰性で進み、やがてゴンと鈍い音を立ててコンクリートの岸壁にぶつかり、停止した。
透は倒れている凪をそっと抱き上げると、後ろを振り返ることなく、ゆっくりと歩き出した。
「…………い」
どこか聞き慣れた、懐かしい声が降ってきた。
反射的に足を止め、透と凪は振り返る。
「強く、生きなさい」
いつの間にか、頭上を覆っていた雨は止んでいた。
振り返った先には、先ほどの衝突でひしゃげたボートと、どこまでも広がっている鉛色の水平線があるだけだった。
分厚い雲の切れ間から差し込んだ一本の光が、荒れた世界を薄橙色に照らし出している。
二人はそれ以上何も言わず、再びしっかりと前を向き、歩き出した。
冷たいアスファルトの上で、小さな足音だけが、まるで世界の中心に響くかのようにこだましていた。




