01 魚降
日の光が届かない部屋に一人、男は目に涙を浮かべ、手記を綴っている。
ペンを握るその手は、雪のように白く、震えている。
「どうか、許してくれ」
男はペンを置き、そう呟いた。
少しふやけた紙の表面が、蛍光灯の冷たい光に照らされ、ぼんやりと輝いていた。
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「お兄ちゃん!早く起きて!」
初夏の風がカーテンを撫で、窓から差し込んだ光が忙しなく揺れる。
妹の深海凪は、兄の透を起こそうと必死に体を揺すっていた。
「うるっさぃ……」
早朝から面倒な起こされ方をした透は、頭を掻きながら寝返りを打つ。
少し長い黒髪は、寝ぐせでボサボサになっている。
そんなだらしない様子を見た凪はムッとし、最終兵器と言わんばかりに、耳元で大きく叫んだ。
「パパ帰ってきたよ!」
「ホント!?」
少年は先程とは打って変わって目を見開き、勢いよく毛布を弾き飛ばすと、一心不乱に階段を駆け降りた。
下に降りると、スーツを着た見慣れた大きな背中が、テーブルに向かって座っていた。
「父さん、おかえり。今回はなんだか早いね!」
「ああ、今年は魚が多めに獲れたんだ」
男は徐に振り向いた。
白い肌に綺麗なスーツ。
顎には逞しい髭を生やしていた。
体格はかなり良さそうに見える。
「毎年そうだったらいいのに!」
透は興奮気味に話す。
「ははっ、そうだな」
男は苦笑した。
そして、ゆっくり口を開く。
「透はもう二年生か。どうだ、中学校は楽しいか?」
男の珈琲色の目が細まる。
「うん!」
透は、満面の笑みを浮かべて首を縦に振った。
透の父・宗一郎は漁師で、一年に一回しか帰ってこない。
『父が帰ってくる』というだけで、凪も透も眠れぬ夜を過ごすことになるのだ。
「お兄ちゃん!今日はパパ、海に連れてってくれるらしいよ!」
階段を急いで降りてきた妹は、金色の髪と、ピンク色の長袖の余った部分をぷらぷら揺らしながら嬉しそうに言った。
「透、凪。早く朝ごはんを食べないと、連れていってあげないわよ」
母・深海ノアは、コップにお茶を注ぎながら二人を急かす。
凪よりも少し深いブロンドの髪。
濃い紅色のリップ。
漂う香水の匂い。
それらを纏った彼女は、何とも言えない色気を醸し出している。
食卓には、湯気があがっていた。
ふりかけがかけられた艶のある白米に、底の見えない味噌汁、それから香ばしい焼き鮭。
いつもよりも少し豪華な朝食に、子どもたちは目を輝かせた。
『いただきます!』
「あつっ!」
「詰め込みすぎなのよ、あんたは」
「なにこれー、美味しくない!」
「凪!好き嫌いしないの!」
「ははっ、ゆっくり食べなさい」
潮の香りの漂う住宅街に、幸せに満ち溢れた笑い声が風に乗ってよく響いていた。
*
「船を貸してほしいだぁ?」
つるつるの頭に鉢巻を巻いた、見るからにベテランの漁師である男は、顔を顰めた。
「頼む。どうしても今日、子どもたちを海に連れてってやりたいんだ」
宗一郎は、深々と頭を下げる。
「一体どうしたんだよ、お前は。急に帰ってきやがって」
「すまん、急な話だったんだ」
「うーん、まあ、いいか。ちゃんと返せよ? 穴でも空いてたら、ただじゃおかねぇからな」
男はにやりと笑う。
「ありがとう、本当にありがとう」
宗一郎の目は、かすかに潤んでいた。
「何泣いてんだよ。男ならシャキッとしろ、シャキッと!」
屈強な男に背中を力強く叩かれ、坊主は「ははは」と高笑いをしながらどこかへ去っていった。
「ああ、そうだな」
宗一郎はポツリと呟き、深く息を吸い込むと、肺いっぱいに外気を満たした。
「透!凪!船を出すぞ、こっちに来い!」
「はーい!」
遠くから小さな影一つ、こちらへ向かってくる。
それを見た宗一郎は、ふと訝しげな表情を浮かべた。
「……凪はどうした?」
「吐き気がするって言って、途中でトイレに行ったよ」
透はケロッとした調子で答える。
反対に、父の眉間には厚い皺が寄り、髭の生えた顎に手を当てて唸っている。
「父さん、どうしたの?」
透の白く澄んだ目が、少し小さくなる。
「いや、凪が心配でな」
宗一郎はすぐに表情を緩め、ふっと息を吐いた。
「……まあいい。早く船を出そう。海は天候が変わりやすいからな」
「うん!」
眩しい日差しが照りつける中、父子は長細い釣り道具を蟻のようにせっせと船へと運んでいった。
*
凪が戻ってきたのは、船がぷかぷかと波に揺れ始めてから、しばらく経ってのことだった。
彼女の唇は、薄っすら紫がかっていた。
小さな船の上には、すでに竿やクーラーボックスが積み上げられている。
凪の隣には、母のノアの姿もあった。
「遅くなってごめんね。凪、本当に海行けそう?」
ノアは心配そうに、青白い顔をした凪の背中をさする。
「大丈夫だってば!それよりさ、早くお魚見たい!」
「……わかったわ。あなた、凪をよろしくね」
無邪気な娘に、ノアは少し脱力したように微笑んだ。
「……………」
透は、無言でじっと水平線を見つめている。
凪が船に乗り込むと縄が外され、大きなエンジン音と共に、小舟は岸から離れていった。
「遅くなりすぎないようにね!」
岸から手を振るノアの姿は、波のうねりと共に、あっという間に小さくなって見えなくなった。
雲一つない澄み切った空には、燦々と太陽が鎮座している。カモメの群れが強い日差しを浴びて、山の方へと飛んでいく。
*
「父さん。次の漁のときは、俺も連れてってよ」
「いいぞ」
「え、本当に……!?」
透は思いがけない即答に少し困惑したが、すぐに喜びを抑えきれなくなり、甲板の上で小さくシャドーボクシングをした。
「えー、じゃあ私も行く!」
「子どもにはまだ早えよ。ランドセルでも背負って待っとくんだな!」
透は軽くあしらいながら、釣り竿を握り直した。
「早くないもん!もう六年生だもん!」
凪はぷくっと頬を膨らませ、透に飛び掛かった。
「お、おい、何すんだよ!」
彼女の幼い拳は、同じ血が通っているとは思えぬほど容赦なく繰り出される。
華奢な体から繰り出されるその突きは、空を切る程に速く、素人のそれではない。
凪は、二年生の頃から培ってきた空手経験を存分に発揮して襲い掛かった。
「謝る、謝るからもう勘弁してくれ!」
透は、振り下ろされる拳を必死に躱しながら叫んだ。
それを横目で見ていた宗一郎は、優しく微笑んでいた。
生ぬるい風が吹き抜け、彼はわずかに身震いする。その目は、また少し潤んでいた。
*
「おっ、かかったぞ!」
宗一郎が声を張り上げた。
陸からだいぶ離れたポイントでエンジンを止め、釣りを始めてから数分後のことだった。
「どう?大きい?」
「ああ、これはかなりの大物かもしれない。透、男ならこの魚を釣り上げてみせろ!」
宗一郎は力強く竿を握らせたまま、それを透に預けた。
「凪、変なちょっかい出すなよ!これは俺への試練なんだからな!」
透は額に青筋を浮かべ、歯をくいしばる。
必死に竿を持ち上げようとするが、まだ成長途中の体では、強烈な引きに耐えきれない。体ごと海の方へと引っ張られていく。
「お兄ちゃん、がんばれ~(笑)」
凪は、さっきまで威勢の良かった兄の滑稽な姿を面白そうに笑った。
対照的に、透の顔色はみるみる青ざめていく。
「やばい……これ、本当に……っ」
透は必死に竿にしがみついたが、無慈悲な力は容赦なく彼を水面へと引きずり込んでいく。
「試練なんでしょ? 私が手出ししちゃダメだよ」
「ほんと……に、やばいって……!」
また、生ぬるい風が三人の頬を掠めた。
「透!」
宗一郎は、何かを察知したかのように血相を変えた。
「今すぐ手を離せ!」
「あっ──」
次の瞬間、透の体は釣り竿ごと浮き上がり、見事な放物線を描いて波間に落下した。
激しい水しぶきが宗一郎の服を濡らす。
いつの間にか、空には黒く厚い雲が広がっていた。男の額を、冷たい汗と塩水が伝う。
「凪! 私は透を助けに行く。ここで待ってなさい!」
宗一郎は己の不甲斐なさを呪うように奥歯を噛み締めると、迷わず海へと飛び込んだ。
「う、うん……」
ジリジリと肌を焼くような直射日光の下、少女の金色の瞳には、言いようのない不安から涙が浮かんでいた。
*
一面に広がるのは、深く、そして澄んだ蒼。
それは美しくもあるが、底知れぬ恐怖を孕む世界のようでもあった。
透の肺には、もう空気が残っていなかった。
体が宙を舞った瞬間、驚きで息を吐き出してしまったからだ。今はただ、冷たい水圧に意識を奪われながら、沈んでいく自分を受け入れるしかなかった。
(痛い、耳が……)
沈むほどに水圧は高まり、意識が遠のいていく。
感じるのは、耐えがたい息苦しさと、凍えるような水の冷たさ。
(なんでだよ、父さん……)
気泡が消えゆく暗闇の中で、透はただ一人だった。
あのとき自分が意地を張らなければ。
あのとき自分がもっと強かったら。
あのとき、父さんが自分に釣り竿を渡さなければ。
頭をよぎるのは、過去への後悔と、他者への恨み、そして強い自責の念。
しかし次に感じたのは、水の中にあるはずのない異質な感触だった。
『温もり』。
それは少しざらざらとした手触りで、奇妙に柔らかかった。
(とう……さん……?)
消えかけた意識のなか、その何かに力強く腕を引かれ、彼は水面へと押し上げられていった。
*
「うぅ……」
「お兄ちゃん……?」
目を覚ました透の視界に飛び込んできたのは、心配そうに覗き込む凪の顔だった。
小舟の縁に頭を預けられた透は、息を荒げながら、自分を引っ張り上げた恩人に問いかける。
「凪、俺を……助けてくれたのか?」
透の問いに、凪の目にぽろりと涙が溢れた。
「ち、違うの! 魚がね、お兄ちゃんを海から引っ張り上げてきたの! それで、わ、私、ありがとって言いたかったのに……!」
ばしゃん、と水面が割れた。
そこから、宗一郎が顔を出す。彼の目に光はなく、濡れた体を引きずって静かに船へと上がってきた。
「ごめん、俺が……しっかりしていれば……」
そう呟く宗一郎の動きが、ピタリと止まる。
そして、震える声で呟いた。
「透……なのか?」
男の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。彼は泣きながら透の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
透もまた、生存の安堵に涙を流す。
しかし、凪だけはどこか引きつった顔で、言いたげに口をもごもごさせていた。
「誰が、透を助けてくれたんだ?」
少し落ち着いてから、宗一郎が当然の疑問を口にする。
その言葉に、凪の顔がパッと輝いた。
「あのね、お魚だよ!」
凪が興奮気味に指をさす。しかし、宗一郎の顔からはみるみる血の気が引いていった。
「それは、どんな魚だったんだ」
「あのね、なんか、手とか足みたいなのが生えてたの!」
一瞬、宗一郎の顔が激しく歪む。
だが彼はすぐに自分の両頬を「パシッ」と強く叩き、いつもの温和な笑みを無理やり貼り付けた。
「見間違いじゃないのか? そんな生き物、いるわけないだろ」
凪は不満そうに眉を寄せる。
「違うよ、本当に見たもん!」
必死に父に訴える凪に、透も続いた。
「……俺も、引き上げられたときに感じたんだ。すごくザラザラしてて、硬い鱗みたいな……だから、本当かもしれない」
「…………」
宗一郎は深く息を吸い込むと、小さく首を振った。
「……帰ろう」
エンジンが掛かり、船は進み始めた。
空を見上げれば、先ほどまでの晴天が嘘のように、真っ黒な雲が頭上まで迫っていた。
「雨、降りそう」
透がぽつりと言った。
「降らなければいいがな」
宗一郎は虚ろな目で空を見つめたままだ。
船のエンジンが唸りをあげる。
しかし、さっきまで何もなかったはずの水平線の向こうに、おかしな影が見え始めていた。
重苦しい空気の中、宗一郎がゆっくりと口を開く。
「……父さんがいなくても、平気か?」
風が、生温い風が吹いた。
「どういうこと、それ?」
透と凪は怪訝そうに眉をひそめた。
「母さんがいなくても、平気か?」
ぽつ、ぽつと、船体を叩く冷たい雨粒が落ちてくる。
「なんでそんなこと聞くの……?」
透が不安げに聞き返すが、宗一郎はそれ以上言葉を続けようとしなかった。
見ると、体が震えていた。
これから起こる事を恐れているかの様に見えた。
そんな様子の父に、凪も透の表情も段々と沈んでいく。
その時。
びちゃ、と、頭上から泥のような音が降ってきた。
「え……?」
「お魚……?」
見上げた空から降り注いでいたのは、雨粒ではなく、無数の魚だった。
雨に打たれた宗一郎は甲板の上に力なく崩れ落ちる。
そして、絞り出すような、か細い声で呟いた。
「こんな俺で……ごめんな」
ポタリと、彼の顎から一粒の雫が落ちる。
それは確かに微かな塩分を含んだ涙だった。
しかし、子どもたちにはもう、目の前の男を「父親」と呼んでいいのか分からなかった。
「パパ……?」
髭が剝がれ落ちた。
確かに、あの父の髭が。
「√″縺奇ス後??・縺奇ス具ス具ソ?」
「え……」
「♀?九?縲√″縺奇??・縺奇?具シ帙♀?九?縲」
脳髄を直接掻きむしられるような、おぞましい音声が二人の鼓膜を揺らす。
先ほどまで父だった「ソレ」は、人の形を保ったまま、目の前でぐにゃりと変体していた。
その姿は、数秒前までそこにいた人間の男とは似ても似つかない。
全身が黒光りする硬質な鱗に覆われ、呼吸をするたびに不気味にぬらつく皮膚がうねる。
「嘘だ……」
二人はその場に釘付けになった。
手足は震え、息が荒くなる。
かつて、そこには確実に人間が居た。
それは紛れもない事実だ。
だが、この生物は父親ではない。
脳裏に言葉が次々と浮かび上がる。
しかし、どれも使い物にならないガラクタだ。
この怪物を表す上で、選ばされた言葉。
もう、そう呼ぶしかなかった。
それは、紛うことなき。
────『魚人』だった。




