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3.ディーノ編


 私の周りにいる同年代の令嬢たちは、十歳にしてすでに完璧に「貴族」だった。

 若いくせに入念に化粧を施し、気位が高く、いつもおすましした顔で、値踏みするような視線を他人に送る。それが社交界というものであり、女という生き物なのだと、当時の私は思っていた。


 だからこそ、彼女ソアラ・ターセルがトライトン侯爵家にやってきた時、私の世界は一変したのだ。


 化粧なんてしていないのにその肌は驚くほど白く、ふわふわとしたミルクティー色の髪に大きくてキラキラと輝く丸い瞳。そして、考えていることがすべて顔に出るほど純真だった。


 ある日、庭でお茶をしていた時のことだ。大きな虫が不意に飛んできた。

 ソアラは声を出さず「キャーキャー」と怯えて顔を引きつらせているのに、私と目が合った瞬間、年上ぶろうとしたのか健気に胸を張ったのだ。


「わ、わたしがやっつけてあげるから! ……ディーノ君は下がってて!」


 怖いくせに、必死に私を守ろうとしてくれる姿が、たまらなく愛おしかった。

 結局虫は使用人があっさりと叩き落とした。ソアラは涙目になりながら「ありがとうございます!」とその使用人の手を両手で握りしめて感謝していた。

 その時その使用人に対して、理不尽なほどの嫉妬と怒り(ムカつき)を感じたのをよく覚えている。



 けれど、そんな幸せな日々は長くは続かなかった。

 彼女が我が家にいたのは、わずか四ヶ月ほどだった。兄のデリカさんが彼女を連れて街を出ていくと決まった日、私の心にはぽっかりと大きな穴が空いた。


 旅立ちの日、私はソアラに「どうして行ってしまうの?」と、みっともなくすがりついてしまった。ソアラは困ったように笑いながら、私の頭を優しく撫でて言ったのだ。


「ディーノ君は、いつか立派な貴族様になるでしょう? わたしは平民だから、ずっと一緒にはいられないの。でもね、ずっと応援してるから!」


 彼女は何の悪気もなく、ただ「身分が違うから」という当たり前の現実を口にした。

 だが、その言葉が私の胸に深く突き刺さった。


 ―― 違う。遠くから応援してほしいんじゃない。

    隣にいてほしいんだ。

    貴族という立場が彼女を遠ざける理由になるなら、

    そんなもの、自分から捨ててやる。


 遠ざかる馬車を見送りながら、私は自分の胸の奥で、今まで経験したことのないほど黒く、そして熱い感情が燃え上がるのを感じていた。私は、ソアラに惚れていたのだ。


 彼女が去った後、私は密かに、一つの大きな目標を立てた。

 ―― いつか、ソアラを妻にする。

 私は侯爵家の次男だ。ちょうど上の兄に男の子が産まれたことで、侯爵家のスペアとしての役割は終わりが見えていた。私が家を出て独立しても、何の問題もないはずだ。


 そのために、まず、それまで彼女たちが安全に暮らしていなければならない。

 幸いなことに、両親や姉のアウレリアは、二人が我が家を去った後もその動向を密かに追い、影ながら手厚いフォローを続けていた。


 兄のデリカさんは、隣国トラガの言語をはじめ数ヶ国語の読み書き会話ができる天才だ。彼らが危険な「冒険者」として身を削らなくて済むよう、父が手を回し、厳選して内密に斡旋したのが、「他国からの観光客の通訳兼護衛」という、安全で極めて実入りのいい仕事だった。彼らが何不自由なく暮らせるよう、家からのささやかな恩返しでもあった。


 そして次に、私は姉上にだけ計画を相談した。私が大人になるまで、ソアラに男が寄り付かないようにしてほしい。それにはどうしても姉上の協力が必要だった。


 姉上は「まあ、ディーノがねぇ……」と怪しく微笑み、「任せなさい」とだけ言って私の背中を押してくれた。私はその鉄壁のガードに感謝しつつ、男を磨く日々を送ることになった。



 ソアラたちが、観光客に付き合って王都のホテルに泊まる際、ソアラは度々私に会いに来てくれた。

 大抵はお互いの近況を話すだけで、私はさりげなくソアラの周りに悪い虫がいないかを確認し、また、自身の成長をアピールした。しかし、ソアラは私のことをいつまでも「かわいい弟」としか思っていないようだった。


 そんな状況が変化したのは、私が15歳になった時だ。

 お互い忙しくて日程が合わず、長いこと会えなかった。その間、それまで小柄だった私の身長は、急激に伸び、声も体つきも完全に大人の男のものへと急成長したのだ。


 久しぶりに王都で再会した時、ソアラは目を丸くして絶句した。

「え……ディ、ディーノ君!? 大きくなったね、全然、別人みたい……!」


 チャンスだと思った。今までこども扱いされていたこともあり、自分を男として意識してほしくて、私はそれまで以上にグイグイと距離を詰めてアプローチを仕掛けた。

 しかし、ソアラは私から視線をそらし、あからさまに身を引いてかわすようになってしまった。

 王都にいても仕事が忙しいと会ってもらえないことが増えた。


 避けられたことがショックで、私の心は黒く染まりそうだった。

 さらに、ソアラに平民の高ランク冒険者が言い寄っているという話まで耳に入った。

 私には届かない彼女の隣に、平民の強者が並ぶのかと思うと、狂いそうだった。


 ―― 開けてはいけない

    今まさにこの胸の奥で疼くのは

    すべてのものに嫉妬した、醜い自分自身なのだ


    開けてはいけない

    君を困らせる、この想いは罪悪


 私は、身を引く覚悟を決めた。

 私の愛が彼女の負担になるくらいなら、この感情は胸の奥にしまって、鍵をかけておくべきなのだ、と。



 だが、運命は存在した。

 ソアラが仕事の最中、護衛対象の代わりに誘拐されたのだ。家の情報網でそれを知った私は、考えるよりも先に体が動いていた。見過ごせるはずがない。私は家の私兵を動かし、なりふり構わず彼女のもとへ駆けつけ、救い出した。


 安全な場所に移動した後、息を乱しながら、張り裂けそうな胸の内をソアラにぶつけた。

「……すまない、君を困らせるつもりはないんだ。好きになってくれなくていい。ただ、密かに君を想うことは許してほしい…」


 私の言葉に、ソアラはポロポロと大きな涙を流して首を振った。

「違うの……違うの! ……わたしだって、ホントはずっと前から、ディーノ君のことが気になってた! でも、身分が違いすぎるよ……っ! わたしがだめなの。わたしじゃだめなの……!」


「ソアラ……!」

 嫌われてなかった。安堵すると同時に身分という超えられない壁に涙し、互いの想いを確かめ合っている、まさにその時だった。



「ただいまー。いやぁ、今回の客は結構めんどくさくって……って、え? どうしたの、二人して?」


 ガチャリとドアを開けて帰ってきたのは、仕事を終えた兄のデリカだった。

 感動的な修羅場の真ん中で、泣き合っている私たちを見て、デリカは怪訝な顔をしてみせた。


 私たちが恋の苦悩を涙ながらに説明すると、デリカは心底不思議そうに首を傾げた。


「そんなに好き合ってるんだったら、普通に結婚すれば? ダメなの?」


「「え……?」」


 あまりにも軽いトーンに、私とソアラは一瞬で「スン……」と涙が引き、静まり返った。



 翌日、落ち着いた私たちは、覚悟を決めて家へ向かった。「平民の娘との結婚など許さぬ」と一悶着あることを予想していたのだが――。


「あら、ようやくその気になったのね。おめでとう、ディーノ、ソアラ」


 姉のアウレリアは、紅茶を優雅にすすりながら、特に反対することもなく微笑んだ。

 上座に座る両親からも「うむ、ソアラ嬢ならなんの問題もない」と、まるで最初から決まっていたかのような祝福の言葉をかけられる。


「……あの、反対はされないのですか? 身分違いですし、私の婚約の話だって……」

 拍子抜けして尋ねる私に、姉上はくすくすと意地の悪い、でも優しい笑みを浮かべた。


「何を言っているの。ばかね。あなたが数年前に私に相談してきた時、すぐに両親とデリカに話を通していたわよ?」


「えっ!?」


「デリカもソアラも、人柄も素行も申し分なし。それにソアラは、魔法学園を中退したとはいえ、魔法使いとしてこの上なく優秀であることは実績が証明しているわ。我が家としては、あなたたちが結婚することに何の問題もないのよ。今まであなた宛てに来ていた他の貴族令嬢との婚約話は、裏で両親がすべて断っていたのよ」


 つまり、私が「姉の鉄壁のガード」だと思っていたものは、文字通りトライトン侯爵家による公式の「ソアラ捕獲計画」だったわけで。デリカがソアラの周りに男を寄せ付けなかったのも、私が頼んだからではなく、最初からお墨付きを得ていたからだった。


「「……あれ?」」


 私とソアラは顔を見合わせた。

 あんなに悩み、苦しみ、胸に閉じ込めようとした葛藤は一体何だったのか。デリカの「普通に結婚すれば?」という言葉は、本当に文字通りの意味だった。


 まぁ、結果的に目標は達成できそうだから、本当によかったのだけれど。


 私の横で、すべての真相を知って真っ赤になって照れているソアラの手を、私は今度こそ離さないように、ぎゅっと力強く握りしめた。


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