暑い夏に吹かせる別れの風
蝉が鳴き始める夏。
空は高く、強い日差しが地面を照り返していた。
じっとしているだけでも暑い。
校舎の窓は開け放たれ、遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる。
昼休み。
いつもの体育館裏。
日陰になった場所には、何匹もの猫達が集まっていた。
真尋はその中の一匹を膝へ乗せ、耳を指先でくりくりと撫でている。
猫は気持ち良さそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「ねぇ…凪ちゃん…」
真尋がぽつりと呟く。
「風間さん…だいぶ痩せてきてる…ご飯ちゃんと食べてるんだけどな…」
その声は、どこか元気が無かった。
凪も小さく視線を落とす。
「…そっか…」
風が吹く。
けれど夏の風は熱く、涼しさはほとんど感じない。
二人とも俯いたまま、しばらく黙っていた。
猫だけが、何も知らないみたいに真尋の手へ頭を擦り付けている。
「最近…疲れてる顔する事増えたし…」
真尋が小さく続ける。
「前は、もっと笑ってた…」
「……」
凪は返事をしなかった。
返せなかった。
病院へ通う度、少しずつ細くなっていく風間さんの姿を、自分も見ていたから。
「……治療って…辛いんだね…」
真尋の指が止まる。
猫が不思議そうに真尋を見上げた。
蝉の鳴き声だけが、やけに大きく響いていた。
空気を変えるように、凪が静かに口を開いた。
「じゃぁ、おさらい…心…落ち着かせて…」
「…うん…」
真尋は猫をそっと膝から下ろし、静かに座り直した。
夏の風が、長いピンク髪をゆっくり揺らす。
「イメージは…優しい…風…」
「……」
真尋は目を閉じた。
じっと動かない。
呼吸だけが、静かに繰り返される。
それを凪は黙って見つめていた。
周囲では猫達が思い思いに過ごしている。
一匹の茶トラが、草むらへ視線を向けた。
狙いを定めるように腰を低くする。
風が吹く。
ふわり――。
一枚の落ち葉が転がった。
その瞬間。
猫が飛びつく。
ぱしっ!
前足で落ち葉を捕まえ、
そのまま転がり回る。
「……ふふっ」
真尋が小さく笑った。
「集中切れた」
凪が言う。
「だって可愛いんだもん…」
目を開けた真尋は、猫を見ながら少しだけ表情を緩めていた。
さっきまでの沈んだ空気が、ほんの少し軽くなる。
凪はそんな真尋を見て、小さく息を吐いた。
「でも…今ちょっとだけ出来てた」
「え?」
「風…少し揺れた」
真尋がきょとんとする。
その時。
カラン――。
近くに置いてあった空き缶が、
ひとりでに少し転がった。
「!?」
驚く真尋。
凪は静かに空き缶を見る。
「今の…ボク?」
「……多分ね」
真尋は自分の手を見つめた。
夏の熱い風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
じりじりと暑い日が続き、
教室でも「夏休み」という言葉が増えてきた頃。
いつもの体育館裏。
猫達は日陰で伸び切っている。
「……夏休みかぁ…」
真尋がぽつりと呟いた。
「早いね」
凪はスポーツドリンクを飲みながら答える。
「ねぇ、夏休みもいっぱい会える?」
「ん?…まぁ、風間さんのお見舞いあるし」
「やった!」
ぱっと明るくなる真尋。
そして、指を折りながら数え始めた。
「まず、風間さんのお見舞い!」
「うん」
「社の掃除!」
「夏は草凄そう…」
「あと風間さんのお家の風通し!」
「窓開けないと湿気すごいからね」
「あとねあとね!」
真尋は楽しそうに続ける。
「猫達に氷持ってくる!」
「猫に?」
「暑そうだから!」
「食べないと思うけど…」
「えぇー…」
少ししょんぼりするヒロイン。
すると。
「あと、夏祭りとか…」
小さな声で真尋が言った。
「……夏祭り?」
「う、うん…もし時間あったら…」
視線を逸らしながらモジモジしている。
凪は少し考えた。
「……行けそうなら」
「ほんと!?」
ぱっと顔が明るくなる。
「でも、人多いよ?」
「凪ちゃん居れば大丈夫!」
即答だった。
凪は少し困ったように笑う。
蝉の鳴き声。
暑い風。
夏は始まったばかりだった。
けれど二人の予定表は、
もう少しずつ埋まり始めていた。
「そだ!風間さんにも伝えて一緒にまたお掃除行こ!」
真尋がぱっと顔を上げる。
「うん、そうだね」
凪も小さく頷いた。
「今度は草刈りもしないとかなぁ…夏だし…」
「虫いっぱい居そう…」
「絶対いる」
「うぅ…」
真尋は少し青ざめる。
「でも風間さん喜んでたし…頑張る…」
ぎゅっと拳を握るヒロイン。
「社、綺麗になると嬉しそうだったよね」
「うん…なんかね、あそこ行くと風間さん元気になる気がするの」
真尋は空を見上げた。
真っ青な夏空。
白い雲がゆっくり流れている。
「お家も、ちゃんと生きてる匂いするって言ってたし!」
「あれ嬉しそうだったね」
「だから夏休みいっぱい行く!」
元気よく宣言する真尋。
すると。
「……熱中症ならない程度にね」
凪が冷静に返した。
「はっ!」
真尋の動きが止まる。
「……ボク暑さ弱いんだった…去年も倒れてた保健室常連でした…」
しゅんと肩を落とす真尋。
そんな二人の足元では、猫が気持ち良さそうにひっくり返っていた。
「猫はいいなぁ…」
「自由だね」
蝉の鳴き声が響く。
夏休みまで、
あと少しだった。
放課後。
照り返す夕日を浴びながら、
二人はいつものように病院へ向かっていた。
「朝はそこそこ元気そうだったよ」
真尋が言う。
エレベーターへ乗り込み、七階へ向かう。
ピンポン――。
静かな音と共に扉が開く。
廊下を進み、見慣れた病室の前へ。
コンコン。
「どうぞー」
少し弱々しいが、いつもの風間さんの声だった。
「失礼します!」
真尋が元気よく扉を開ける。
「まぁ、いらっしゃい」
風間さんはベッドの背を少し起こし、微笑んだ。
以前より少し細くなった気がする。
けれど、二人を見る目は優しかった。
「今日はどうしたの?」
「夏休み作戦会議です!」
真尋が胸を張る。
「作戦会議?」
「うん!夏休み中のお見舞いとか、社のお掃除とか、お家の風通しとか!」
「まぁまぁ」
風間さんは楽しそうに笑った。
凪は持ってきたノートを開く。
「真尋が予定まとめたいって」
「えへへ…」
ノートには、びっしり予定候補が書かれていた。
・お見舞い
・社掃除
・家の風通し
・草刈り
・猫のお世話(?)
・夏祭り(小さく書かれてる)
「最後の夏祭りってなぁに?」
風間さんがニヤリとする。
「わぁぁ!?そこ見ちゃダメ!」
慌ててノートを閉じる真尋。
凪は視線を逸らした。
「ふふふ、青春ねぇ」
「ち、違うもん!」
顔を真っ赤にする真尋。
風間さんは笑いながら咳き込む。
「大丈夫!?」
真尋が慌てて背中をさする。
「えぇ…大丈夫よ…ありがとう…」
少し息を整えながら、風間さんは優しく真尋の頭を撫でた。
「夏休み、楽しみね」
「うん!」
その返事だけは、
真っ直ぐで明るかった。
数日後。
ついに夏休みが始まった。
朝から蝉の鳴き声が響き渡り、
空は雲一つない快晴。
けれど今日は、
ただ遊びに行く日ではない。
事前に病院へ外出申請を出し、
風間さんの体調も確認済み。
無理のない範囲で、
短時間だけ出かける予定になっていた。
そして今回は――。
「今日はワシも同行じゃ」
白衣ではなく、
涼しげなシャツ姿の院長先生が現れた。
「おじい様!」
真尋が嬉しそうに駆け寄る。
「おお、真尋。ちゃんと帽子被っとるな、偉い偉い」
ぽんぽんと頭を撫でる院長。
今日は熱中症対策として、
真尋も凪も薄手の帽子を被っていた。
「風間さんの体調、今日はどうですか?」
凪が聞く。
「朝の数値は悪くない。じゃが無理は禁物じゃな」
院長先生は真面目な顔で答える。
すると。
「院長先生ったら、今日は保護者みたいねぇ」
車椅子へ座った風間さんが笑った。
「実際保護者みたいなもんじゃろ」
「ふふふ」
穏やかな空気が流れる。
今回は前回よりも人数が多い為、
さらに大きめの車が用意されていた。
影野達も別車両で同行するらしい。
「じゃぁ、出発じゃな」
院長先生の言葉で、
皆が車へ乗り込む。
真尋は窓際へ座り、
わくわくした様子で外を見ていた。
「今日は何からする?」
「まずは社!」
「その後お家!」
「あと休憩も忘れずに」
凪が釘を刺す。
「はーい!」
返事だけは元気だった。
夏の日差しの中。
ゆっくりと車は走り出す。
賑やかな夏休みの一日が、また始まろうとしていた。
今回は、少しでも風間さんの負担を減らせるように、
真尋の家からお手伝いが二人同行していた。
そのおかげで作業は驚くほど早い。
落ち葉を集める人。
枝を束ねる人。
雑草を抜く人。
凪と真尋も一緒になって動く。
「真尋、そっち無理しなくていいよ」
「だ、大丈夫!これくらい!」
額に汗を浮かべながらも、真尋は頑張っていた。
院長先生は時々風間さんの顔色を確認し、水分補給を促している。
「ほれ、ちゃんと飲まんと倒れるぞー」
「はーい」
蝉の声が響く中、掃除はどんどん進んでいった。
そして――。
社の屋根の上。
そこにはミミが居た。
丸く座り、じっと皆の様子を見ている。
「ミミちゃんだ」
真尋が小さく手を振る。
ミミは尻尾だけゆらりと動かした。
気が付けば、時計は丁度お昼。
掃除はほとんど終わっていた。
残るのは、集めた落ち葉や枝が燃え尽きるのを待つだけ。
パチパチと、焚き火の音が静かに響いている。
すると、お手伝いさん達が手際よく動き始めた。
折りたたみテーブル。
椅子。
日除け。
あっという間に、簡易的な休憩スペースが出来上がる。
「わぁ…準備早い…」
真尋が感心する。
「流石プロですね」
凪も少し驚いていた。
そして運ばれてきた昼食。
真尋達の分は、彩りの良いお弁当。
だが――。
風間さんの前へ置かれたのは、病院で管理された特別食だった。
量は少なめ。
塩分や栄養も細かく調整されている。
真尋は少しだけ、そのお弁当を見る。
「……」
すると風間さんは、優しく笑った。
「そんな顔しないの。これでも前より食べれるようになったのよ?」
「…ほんと?」
「えぇ、真尋ちゃん達と一緒だと不思議と食べれるの」
その言葉に、真尋は少し安心したように笑った。
夏の空の下。
焚き火の煙が、ゆっくり空へ溶けていった。
騒がしかった掃除も終わり、辺りには穏やかな静けさが戻っていた。
焚き火の火は小さくなり、ぱち…ぱち…と時々音を立てるだけ。
それを見届けたように――。
社の屋根の上から、ミミがゆっくり降りてきた。
とん。
軽い音を立て、地面へ着地する。
「ミミちゃん…おいで…」
風間さんが、そっと指先を差し出した。
ミミは一度、皆の顔を見回す。
そして。
迷う事なく、車椅子の風間さんの膝へ飛び乗った。
「ふふ…重くなったわねぇ…」
優しく笑う風間さん。
ミミは丸くなり、喉をゴロゴロ鳴らしている。
その柔らかな毛並みを、風間さんは静かに撫でた。
長い時間を確かめるように。
愛おしむように。
そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で、
ミミへ語りかける。
「ミミちゃん…もう会えなくなるわ…」
「……」
「これからは…あの二人が…来てくれるから…よろしくお願いね…」
優しく、ゆっくり撫で続ける。
ミミは言葉を理解したみたいに、静かに目を細めた。
少し離れた場所で、真尋と凪は片付けをしている。
笑い声も聞こえる。
その姿を見ながら、風間さんは小さく微笑んだ。
「……良い子達でしょう…?」
風が吹く。
木々が揺れる。
夏の匂いの中、ミミは風間さんの膝から離れようとしなかった。
昼食も終わり、片付けを終えた頃には、夏の日差しがさらに強くなっていた。
蝉の鳴き声も、朝よりずっと大きい。
「真尋ちゃん?そろそろ移動する?」
風間さんが声をかける。
「……すぅ……」
返事は無かった。
社の縁側。
真尋は、ころんと横になったまま眠っていた。
帽子は顔に半分かかり、長いピンク髪がさらりと畳へ広がっている。
その足元には――。
ミミが丸くなって寝ていた。
ぴったり寄り添うように。
「……寝ちゃったね」
凪が苦笑する。
「ははは、まぁ無理もない。この暑さじゃからな」
院長先生も笑った。
真尋は小さく寝息を立てている。
時々、ミミの尻尾がぱたりと揺れた。
風間さんはその光景を静かに見つめる。
「……平和ねぇ」
ぽつりと呟く。
夏の風が、社の中をゆっくり通り抜けていく。
風鈴がちりんと鳴った。
誰も急かさなかった。
真尋が起きるまで、少し休む事になった。
凪は縁側へ腰を下ろし、眠る真尋を見守る。
すると。
「んにゅ…」
寝ぼけた真尋が、無意識に凪の方へ少し寄った。
「……」
凪は少し困った顔をしながらも、そのままにしておく。
ミミも安心したように、再び目を閉じた。
穏やかな夏の時間だけが、ゆっくり流れていた。
お手伝いさん達が、交代しながら真尋を団扇で扇いでいる。
ぱた…ぱた…。
優しい風が、眠る真尋の髪を揺らした。
「んぅ…」
気持ち良さそうに寝返りを打つ。
足元では、ミミも一緒になって丸まっていた。
その光景を見ながら、風間さんがぽつりと呟く。
「凪ちゃん…お願いがあるわ…」
「……?」
凪は静かに顔を向けた。
風間さんは、社の天井を見上げながら続ける。
「私の骨は…ここに撒いて欲しいの…この社に…」
夏の風が吹く。
蝉の声が、遠くで鳴いていた。
「………わかりました…」
凪は静かに答える。
風間さんは小さく笑った。
「私は…ここが…好き…」
優しく、懐かしむような声。
「あの人と…出会ったのも…」
「あなた達と出会ったのも…」
「この社…」
木漏れ日が、風間さんの横顔へ落ちる。
その表情は、どこか穏やかだった。
凪は少しだけ俯く。
「……まだ先の話です」
「ふふ…そうね…」
風間さんは笑う。
「でもね…人って…最後を考えると…帰りたい場所が見えるのよ…」
その言葉に、凪は返事が出来なかった。
ただ、眠る真尋を見る。
真尋は何も知らず、安心しきった顔で眠っていた。
ミミがゆっくり目を開ける。
そして、風間さんの方をじっと見つめた。
まるで、全部わかっているみたいに。
どれくらい眠っていたのだろう。
蝉の鳴き声が、少しだけ遠くなっていた。
風も昼間より穏やかになっている。
「……んぅ…」
真尋が小さく声を漏らした。
長い睫毛が揺れ、ゆっくり目を開ける。
「起きた?」
凪が声をかける。
「……あれ…ボク…寝ちゃってた?…」
まだぼんやりしている。
「一時間半くらいな」
院長先生が笑った。
「そんなに!?」
がばっと起き上がる真尋。
その勢いで、足元のミミもびっくりして顔を上げた。
「みゃぅ」
「ご、ごめんねミミちゃん!」
慌てて撫でる真尋。
するとミミは安心したように、再びごろりと横になった。
「熱中症ならんで良かったわい」
院長先生は冷えたお茶を差し出す。
「ありがとうございます…」
真尋は両手で受け取り、こくこくと飲んだ。
「ぷはぁ…生き返る…」
その言葉に、皆が少し笑う。
風間さんも、穏やかな顔で真尋を見ていた。
「気持ち良さそうに寝てたわよ」
「うぅ…恥ずかしい…」
顔を赤くするヒロイン。
「ミミちゃんも一緒に寝てたしね」
「え!?ほんと!?」
嬉しそうにミミを見る。
ミミは尻尾だけぱたりと動かした。
「さて…そろそろ行くかの?」
院長先生が時計を見る。
空は少しずつ、夕方の色へ変わり始めていた。
「次はお家だね!」
真尋は立ち上がる。
さっきまでの眠気は、だいぶ抜けたようだった。
風間さんはそんな真尋を見ながら、小さく目を細める。
その笑顔は、どこか安心したようにも見えた。
社の前まで、ゆっくり車が移動してくる。
ドアが開き、お手伝いさん達が荷物を積み込んでいった。
「帽子忘れてない?」
「大丈夫!」
「飲み物持ったかの?」
「あります!」
真尋は元気よく返事をする。
その横で、凪は風間さんの車椅子を押していた。
「ありがとうね、凪ちゃん」
「いえ」
車のステップが静かに下りる。
負担が少ないよう、ゆっくりと風間さんを乗せていく。
夏の夕方の風が、木々を揺らした。
カナカナカナ――。
今度は蝉の声も、少し落ち着いた音に変わっている。
皆が車へ乗り込み始めた頃。
ふと、真尋が辺りを見回した。
「あれ?ミミちゃんは?」
さっきまで居たはずだった。
けれど――。
社の石段の上。
そこに、ミミが静かに座っていた。
じっと、こちらを見ている。
「ミミちゃん!また来るねー!」
真尋が窓から手を振る。
ミミは鳴かなかった。
ただ、静かに尻尾を揺らす。
凪も小さく頭を下げた。
エンジン音。
ゆっくり車が動き出す。
その姿を、ミミはずっと見送っていた。
車が鳥居の向こうへ消える頃には――。
ミミの姿も、いつの間にか社の奥へ消えていた。
車は山道を抜け、風間さんの家へ到着した。
夕方の光に照らされた家は、どこか静かだった。
「ただいま…って感じするね」
真尋がぽつりと呟く。
「そうだね」
凪は鍵を開け、玄関扉をゆっくり開いた。
少しこもった空気。
けれど、嫌な匂いではない。
「じゃあ窓開けるね!」
「うん」
二人は家の中を走り回るように、次々と窓を開けていく。
ガラガラ――。
開け放たれた窓から、夏の風が一気に入り込んだ。
カーテンが大きく揺れる。
「わぁ…風すごい…!」
真尋の長いピンク髪が、ふわりと舞った。
「空気入れ替わるね」
「うん!」
凪は最後の窓を全開にする。
すると、止まっていた家の空気が、再び動き始めたみたいだった。
一方、庭では――。
「こちらも始めます」
お手伝いさん達が、手際よく草むしりを始めていた。
夏の雑草は元気で、短期間でもかなり伸びている。
「すご…もうこんな生えるんだ…」
真尋が驚く。
「夏は早いからね」
凪は縁側へ座りながら答えた。
刈られた草の匂い。
風鈴の音。
遠くの蝉の声。
家の中では、風が気持ち良さそうに通り抜けていく。
風間さんはソファーへ座り、その様子を静かに見ていた。
「……やっぱり、この家好きだわ…」
小さく呟く。
真尋はその隣へ座る。
「また皆で来ようね!」
「えぇ…」
風間さんは優しく微笑んだ。
その笑顔は、少しだけ寂しそうでもあった。
家の中へ風が通り抜ける中――。
凪は台所へ立っていた。
袖を軽くまくり、何やらボウルの中を混ぜている。
「凪ちゃん、何作ってるの?」
真尋が興味津々に覗き込む。
「クッキー」
「クッキー!?」
ぱっと目を輝かせるヒロイン。
凪は小麦粉の入った生地を、手際よくまとめ始めた。
こねこね。
指先で押し、丸め、また伸ばす。
「すご…慣れてる…」
「妹とよく作るから」
「わたしも!形作る!」
「はいはい」
凪は苦笑しながら、生地を切り分けて真尋へ渡した。
真尋は真剣な顔になる。
「……むむむ」
「そんな難しい顔しなくても…」
「芸術だから!」
小さな両手で、一生懸命形を作っていく。
星。
猫。
ハート。
そして何故か、よく分からない謎の生き物。
「……これは?」
「ミミちゃん!」
「……猫?」
「猫!」
凪は少し笑った。
風間さんは、紅茶を飲みながらその様子を見守っている。
「ふふ…仲良しねぇ…」
「凪ちゃん器用だからね!」
「真尋が不器用すぎるだけでは…」
「えぇー!?」
そんなやり取りをしている間に――。
オーブンの中から、少しずつ甘い香りが漂い始めた。
バターの香ばしい匂い。
ほんのり甘い香り。
「わぁ…!」
真尋の顔がぱっと明るくなる。
「いい匂い…!」
窓から吹き込む夏の風に乗って、焼き菓子の香りが家中へ広がっていった。
「焼けたよ」
凪がオーブンを開ける。
ふわぁ――っと、甘く香ばしい香りが広がった。
「わぁぁ…!」
真尋が目を輝かせる。
鉄板の上には、こんがり焼けたクッキー達。
星型。
猫型。
丸型。
そして、少し歪な“ミミちゃん”型。
「……これ耳取れかけてる」
「き、気のせい!」
真尋は慌てて誤魔化す。
凪は笑いながら、熱い鉄板を慎重に置いた。
「火傷しないでね」
「はーい!」
真尋は待ちきれない様子で、そわそわしている。
風間さんも、甘い香りに目を細めた。
「本当にお店みたいねぇ…」
「そこまでじゃないですよ」
そう言いながら、凪は紅茶の準備も始める。
カップへ注がれる琥珀色。
ふわりと立ち上る湯気。
「はい、どうぞ」
まず風間さんへ。
「ありがとう」
次に真尋。
「あちち…でもいい匂い…!」
そして――。
庭仕事をしていたお手伝いさん達にも、凪と真尋はクッキーと紅茶を配った。
「お疲れ様です!」
「ありがとうございます、お坊ちゃま」
「美味しそうですね」
皆、少し驚いたように笑う。
縁側へ座り、クッキーをかじる音が響いた。
さくっ。
「んー!おいしい!」
真尋が幸せそうに頬張る。
「凪ちゃんのクッキー好き…」
「それはどうも」
風が吹く。
開け放たれた窓。
風鈴の音。
紅茶の香り。
穏やかな夏の夕暮れが、静かに流れていた。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
紅茶を飲み終え、クッキーの皿も空になる。
窓から入り込む風も、昼間より少し涼しくなっていた。
「そろそろ閉めようか」
凪が立ち上がる。
「うん!」
真尋もぱたぱたと後を追いかけた。
ガラガラ――。
一つずつ窓を閉めていく。
風で揺れていたカーテンも静かになり、家の中は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「ここも閉めたよー!」
「ありがとう」
最後の窓を閉め終える頃には、外はすっかり夕暮れ色だった。
庭の草むしりも終わり、綺麗になった庭が夕日に照らされている。
「本当に助かったわ…」
ソファーへ座る風間さんが、穏やかに微笑む。
「また来るから大丈夫!」
真尋が元気よく言う。
「えぇ、待ってるわ」
その言葉に、凪も静かに頷いた。
帰る準備が始まる。
荷物をまとめ、鍵を確認し、皆で外へ出た。
玄関前で、風間さんは一度だけ家を振り返る。
夕焼けの中に立つその姿は、どこか寂しそうにも見えた。
「じゃぁ、帰りましょうか」
院長先生が声をかける。
皆が車へ乗り込み、ゆっくり走り出す。
窓の外には、夏の終わりかけた夕空。
真尋は少し眠そうに、凪の肩へ寄りかかっていた。
「……楽しかった…」
小さく呟く。
「うん」
凪は短く返す。
車は静かな帰宅路を、ゆっくり進んでいった。
病院へ戻る頃には、外はすっかり夜になっていた。
街の灯りが窓へ流れていく。
「今日はありがとの…」
院長先生が助手席から振り返る。
「いえ」
「楽しかったです!」
真尋も元気よく答えた。
病院へ到着すると、お手伝いさん達が手際よく準備を始める。
風間さんは少し疲れている様子だったが、表情は穏やかだった。
「今日は本当に楽しかったわ…」
「また行こうね!」
「えぇ…またね…」
真尋の手を優しく握る風間さん。
凪は車椅子を押し、病室前まで付き添った。
「凪ちゃん」
「はい?」
「……ありがとう」
静かな声。
凪は少しだけ目を伏せる。
「また来ます」
その返事に、風間さんは安心したように微笑んだ。
病室の扉が静かに閉まる。
そして、今度は真尋の家へ向かった。
車内では、真尋が船を漕ぎ始めている。
「……ねむ…」
「今日はいっぱい動いたからね」
「んー…」
こてん、と凪の肩へ頭を預ける。
そのまま、静かな寝息が聞こえ始めた。
「寝ちゃったか」
凪は小さく呟く。
屋敷へ到着すると、真尋の母が出迎えてくれた。
「あらあら、完全に寝てるわね」
「……すぅ…」
「今日は本当にありがとう、凪ちゃん」
「いえ…じゃぁ帰ります」
そう言った瞬間。
「駄目です」
即答だった。
「え?」
「もう時間見てみなさい」
時計は夜十時半を回っていた。
「こんな時間に一人で帰らせられないわ」
「でも…」
「はい決定。今日はお泊まりです」
「えぇ…」
凪が少し困った顔をする。
すると。
「やったぁ…」
半分寝ぼけた真尋が、嬉しそうに呟いた。
「真尋ちゃん起きてたの?」
「んへへ…」
眠そうに笑っている。
「凪ちゃん用のお布団準備しておくわね」
「……お世話になります」
観念したように頭を下げる凪。
真尋はその隣で、嬉しそうに袖を掴いていた。
その夜。
屋敷の客間へ案内された凪は、少し落ち着かない様子だった。
広い部屋。
ふかふかの布団。
静かな空調音。
「本当に泊まっていってくれるのねぇ」
真尋の母が、
くすりと笑いながら部屋へ入ってくる。
「……お世話になります」
「そんな硬くならなくていいのに」
今日は、凪は真尋の母と同じ部屋で寝る事になった。
真尋は流石に疲れたのか、自室でぐっすり寝ているらしい。
真尋の母は、そんな反応を見て楽しそうに笑った。
「あの子ったら、子供っぽいでしょ?…手がかかってないかしら?」
「いえ、妹に比べれば大人しい方です」
「あら、妹さん凄いの?」
「元気すぎます」
凪は即答した。
「朝は飛び乗って起こしてきますし…家の中走るし…急に戦いごっこ始めますし…」
「ふふふっ」
真尋の母は思わず吹き出す。
「なんだか想像できるわ」
「真尋ちゃんは静かな方です」
「外ではねぇ…家だと結構甘えん坊なのよ?」
「……そうなんですか?」
「えぇ。怖い夢見た日は今でも来るし」
「……」
凪は少しだけ、この前自分へしがみついて震えていた真尋を思い出した。
「でも最近は明るくなったの」
真尋の母は優しく微笑む。
「凪ちゃんと居る時、本当に楽しそう」
「……そうなら良かったです」
部屋の灯りが少し暗くなる。
窓の外では、夏の虫が鳴いていた。
「ありがとうね、真尋の傍に居てくれて」
静かな声だった。
凪は少し間を置いてから、小さく答える。
「……放っておけないので」
その返事に、真尋の母は優しく笑った。
深夜病院
「もう…時間がないみたいね…」
「…うむ…」
「残りの人生が…こんなに楽しくて…いいのかしら…」
「…いいんじゃないかのう…」
「ねぇ…先生…」
「ん?なんだい風間さん」
「先生と…子供の頃…一緒に遊んだ…ドールハウス…覚えてますか?」
「あぁ…今日見た、あの家にそっくりじゃったな…」
「ふふふ…はぁ…はぁ…そっくりに作ったの…初恋のあなたが好きだったあのドールハウス…」
「…そうだったのか…」
「えぇ…」
「さぁ…今日は疲れただろ?…ゆっくりおやすみ…」
「えぇ…また明日が来ますように…1日でも長く…居られますように…」
夜がふけていく。




