忘れられないあの日まで
毎朝、風間さんへ会いに病院苦手な病院へ行く様になった真尋。
その様子は凪へちゃんと報告していた。
毎朝。
まだ街が完全に目覚めきる前の時間。
真尋は病院へ向かう。
以前は病院の匂いだけで顔を曇らせていたのに、今では自分から足を運ぶようになっていた。
もちろん、一人ではない。
少し後ろには、必ず黒服の執事――影野が付き従っている。
病室の中には入ってこない。
だが、廊下の端には必ず立っていた。
誘拐未遂事件以来、それは絶対になったらしい。
「ありがとう…もうお腹いっぱいだわ」
風間さんは、トレーを見ながら微笑む。
残っているのは、ほんの少し。
蓮華で一口分程度の量だった。
「はい!…副作用が始まったのかもですね…多少は食欲落ちたり、吐き気や目眩なんかも出るらしいので、無理しないでくださいね!」
真尋は、どこか看護師のように説明する。
「えぇ…ありがとう。でも、やっぱり髪の毛が心配だわ…髪は女の命ですから…」
「……枕に抜けた毛とかはどうですか?」
「うーん…あんまり見ないかもね」
「シャワーの時とかは?」
「それも、いつも通り十本程度かしら」
「じゃぁ…髪の毛は大丈夫かもですね!」
ぱっと明るい顔になる真尋。
「あら!それなら嬉しいわ!」
風間さんもつられて笑った。
窓から朝日が差し込む。
病室の白い壁が柔らかい色に染まっていた。
「では学校に行ってきます!」
「真尋ちゃんありがとう。凪ちゃんにもよろしくね!行ってらっしゃい!」
「はーい!行ってきます!」
ぺこりと頭を下げると、真尋は病室を出る。
横開きの扉が静かに閉まった。
廊下。
待機していた影野が歩き出す。
「お坊ちゃま、学校へ送ります」
「うん…」
少しだけ、しゅんとした返事。
まだ風間さんの傍にいたかったのかもしれない。
エレベーターホールへ向かう途中。
白衣姿の老人とすれ違った。
「これは!会長!おはようございます!」
影野が深々と頭を下げる。
「おお!ご苦労さま!」
真尋もぱっと顔を明るくした。
「おじい様!おはようございます!」
「真尋もおはよう。風間さんのお見舞いかい?毎日ありがとうのぉ…」
「ううん!自分がやりたいからやってるだけですから!」
えへへ、と笑った後。
少しだけ表情が曇る。
「……風間さん、治りますか?」
院長先生は、すぐには答えなかった。
白い眉の奥の目が、少しだけ細くなる。
「……うーむ、どうじゃろな…。治療をしてみんことには、どうなるか…。ワシも神様ではないからのぉ…」
困ったように頭をかく。
真尋は小さく俯いた。
「……そっか」
「お坊ちゃま、学校に遅れてしまいますよ?」
「あ!行かないと!」
気持ちを切り替えるように顔を上げる。
「ではおじい様!行ってきます!」
ぺこりと頭を下げ、ぱたぱたと足早に車へ向かっていった。
その背中を見送ったあと。
院長先生は、小さくため息をつく。
「……優しい子じゃのぉ…」
再び、風間さんの病室。
コンコンコン、とノックが響く。
「どうぞー」
扉が開き、院長先生が入ってきた。
「今朝、どうですかな?」
「えぇ…気分はとてもいいわ。でも少し吐き気があるわね…」
「では、吐き気止めでも処方しましょうかの」
血圧計を取り出し、腕に巻く。
静かな電子音。
続いて聴診器を胸へ当てた。
「……ふむ」
「悪い?」
「今のところは、急激に悪化はしとらんよ」
「そう…」
風間さんは窓の外を見る。
青空。
その向こうを、白い雲がゆっくり流れていた。
「……ねぇ、先生」
「なんですかな?」
「もし私がいなくなったら…あの子達、仲良くしてくれるかしら」
院長先生は、小さく笑った。
「心配せんでも、あの二人は放っておいても一緒におる気がするわい」
「ふふふ…そうね…」
風間さんは安心したように微笑んだ。
お昼休みのいつもの体育館裏。
校舎の喧騒から少し離れたその場所には、今日も数匹の猫達が集まっていた。
日向で丸くなる猫。
フェンスの上で尻尾を揺らす猫。
真尋は、その真ん中に座りながら、猫じゃらしをゆらゆら揺らしている。
「今朝は、少し残してたけど…いつも通りだった!」
嬉しそうに報告する真尋。
「そっか。次の金曜日の放課後に、私もお見舞い行く」
凪がそう言うと、真尋の表情がぱっと明るくなる。
「ほんと!?」
「うん」
「やった!」
にこにこと笑いながら、足元の猫を撫でる。
あの誘拐未遂事件から、十日ほど。
真尋は以前より主人公の近くにいる時間が増えた。
けれど、怯えているというより――安心したがっているように見える。
主人公も、それを拒まなかった。
しばらく穏やかな時間が流れる。
風が吹き、猫の毛がふわりと舞った。
その時。
真尋がぽつりと呟く。
「ねぇ…凪ちゃん…」
「ん?」
「ボクにも…凪ちゃんみたいな『魔法』って使えるのかな…」
凪の手が止まる。
少しだけ沈黙。
猫が「にゃあ」と鳴いた。
「………正直…難しい………」
「……そっか…無理…なのか…」
しゅんと肩を落とす真尋。
だが凪は、小さく首を横に振った。
「……無理とは言ってない」
「え?」
顔を上げる真尋。
「使えるかは、真尋……君しだいだよ」
驚いたように目を丸くする。
「まずは、身体を鍛えてからにした方がいい…」
凪は真面目な顔だった。
「じゃないと、使った瞬間、そのまま気絶するかも」
「えぇっ!?」
「実際、魔力って体力に近い部分もあるから…身体が弱いと耐えられない」
「な、なるほど…」
真尋は難しい顔をしながら考え込む。
ぱっと身を乗り出す真尋。
近い。
かなり近い。
凪は少し顔を逸らした。
「……ただ、真尋の場合は、まず基礎からかな」
「基礎?」
「呼吸、姿勢、集中力、体力…あと精神の安定」
「うっ…最後が難しい…」
「知ってる」
「ひどい!?」
ぷくっと膨れる真尋。
だが凪は少しだけ優しく笑った。
「でも、真尋は前よりちゃんと前向いてるよ」
「……」
「怖いって言いながらも、病院行ってるし…風間さんのために頑張ってる」
真尋はきょとんとしていた。
やがて、少し照れくさそうに笑う。
「……えへへ…」
風が吹く。
猫達が一斉に主人公の周りへ集まり始めた。
「……なんで猫って凪ちゃんばっか行くの?」
「知らない」
「ずるい…」
「猫に言って」
すると、一匹の三毛猫が真尋の膝へ飛び乗った。
「あっ」
「ほら、来た」
「えへへ…」
喉を鳴らす猫を撫でながら、真尋は小さく呟く。
「……魔法、使えるようになったら…凪ちゃんみたいに誰か守れるかな…」
主人公は少しだけ目を細めた。
「真尋はもう、誰かを救ってるよ」
「え?」
「風間さん、真尋が毎日来るの嬉しそうだった」
「……」
「だから、焦らなくていい」
真尋は少しだけ黙り込む。
それから、照れ隠しみたいに笑った。
「お父さんに、護身術の事頼んでみようか?…習ってる内にある程度は体力とか着くでしょ…」
真尋は猫を膝に乗せたまま、うーんと考え込む。
「魔法って、結局は身体が資本だから」
「魔法使いなのに脳筋…?」
「だいたいそんな感じ」
「夢がない!」
真尋がぷくっと膨れる。
主人公は少し苦笑した。
「前の世界でも、強い魔法使いって結局ちゃんと鍛えてたし」
「へぇ…」
「魔力切れ起こすと、立てなくなったり、熱出たり、最悪気絶する」
「……ボク、一発で倒れそう」
「だからまずは体力」
真尋は真剣な顔になる。
「……じゃぁ、頑張る」
「無理しない程度にね」
「うん!」
返事だけは元気いっぱいだった。
その時、昼休み終了五分前を知らせるチャイムが遠くで鳴る。
「あっ、もう終わっちゃう!」
真尋は慌てて立ち上がった。
すると膝の上にいた三毛猫が、不満そうに「にゃー」と鳴く。
「あっ、ごめんね!」
慌てて撫でる真尋。
猫は満足したように尻尾を揺らした。
主人公はその様子を見ながら、小さく笑う。
「……真尋って、猫に好かれるよね」
「えへへ、同類だからかな?」
「どっちかと言うと小動物側」
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
「半分!?」
二人で笑いながら立ち上がる。
すると真尋が、ふと思い出したように主人公の袖を軽く掴んだ。
「ねぇ凪ちゃん」
「ん?」
「もしボクが、少しでも魔法使えるようになったら…」
少しだけ真面目な顔。
「空って飛べるの?」
凪は一瞬だけ目を丸くした。
それから、柔らかく笑う。
「……浮く程度なら…」
風が吹く。
体育館裏の木々が揺れ、木漏れ日がきらきらと二人を照らした。
その瞬間。
主人公は少しだけ思う。
――こんな平和な時間が、ずっと続けばいいのに、と。
放課後、野外部活活動と称し、凪の父の護身術教室に足を運ぶ。
夕焼けに染まった道場。
建物の中からは、掛け声やマットを踏む音が聞こえてくる。
「お父さん、居る?」
入口から凪が声をかける。
「お!凪!どうした?」
奥からタオルを首にかけた凪の父が出てきた。
「ほら、前に言ってた真尋ちゃんの護身術についての話ししたいんだけど…」
「おお!ついにやる気になったのか?」
「が、頑張ります!」
ヒロインはぎこちないファイティングポーズをした。
「ふはは!いい気合いだ!」
主人公の父は豪快に笑う。
「いつから、習いに来る?」
主人公の父は聞く。
「い、今から頑張ります!」
「おぉ、即日入門か!」
まじまじと真尋を見る凪の父。
「あ…あの?…何か…?」
顔を赤くしてモジモジする真尋。
「いや…まぁ…流石にそのヒラヒラ服では…破れたりしたらまずいだろ、更衣室にジャージか何か有るからそれに着替えようか」
「あっ…」
真尋は自分の服を見る。
ふわふわしたスカートに袖の広い服。
確かに運動には向いていない。
「は、はい!」
凪の父と真尋は更衣室へ向かった。
「うーん…これなら大丈夫かな?」
凪の父は、紺色のジャージのズボンと少し大きめの白いシャツを渡した。
「じゃぁ、着替えたら来て!」
「はい!」
更衣室の扉が閉まる。
真尋は道場のマットの上へ歩いていく。
「凪!鍛錬怠っていないようだな!」
「…お父さんこそ、前より機敏になってるし、身体が柔らかい」
軽く構えるふたり。
次の瞬間。
バシッ!
凪の父の拳を、凪が最小限の動きで受け流した。
「ほぉ!」
続けて回し蹴り。
凪は身体を沈めて避ける。
「実戦感覚は鈍ってないみたいだな!」
「お父さん相手だと気が抜けないだけ…」
そんなやり取りをしていると、更衣室の扉がそっと開いた。
「お、お待たせしました…」
真尋が顔を覗かせる。
少し大きめの白シャツにジャージ姿。
長いピンクの髪は後ろでひとつに結ばれていた。
「あっ…」
凪が少し視線を止める。
「おぉ!似合うじゃないか!」
主人公の父は笑う。
「うぅ…なんか恥ずかしい…」
袖を引っ張りながらモジモジするヒロイン。
「動きやすそうでいいと思う」
凪がそう言うと、
「ほんと!?」
ぱっと顔を明るくした。
「よし!まずは準備運動からだ!」
凪の父がパンパンと手を叩く。
「護身術は“勝つため”じゃない。“生きて逃げるため”の技術だ」
真剣な表情で聞く真尋。
「はい!」
「ん?…」
凪が不思議そうに真尋を見る。
「待って…お父さん…そのジャージ…私のじゃない?…」
ギロリと父を睨む凪。
「あ」
凪の父が目を逸らした。
「いやー…サイズ的に丁度いいかなって…」
「だからか…胸元がゆったりしてるの…」
真尋は、少し緩い胸元を摘んで見る。
次の瞬間。
ゴンッ!
「痛っ!」
凪の拳骨が父の頭に落ちた。
「勝手に人の服貸さないで…」
「すまんすまん!」
頭を押さえながら笑う父。
「ご、ごめんね!?ボク着替える!?」
慌てる真尋。
「いや、大丈夫…別にそのままで…」
凪は視線を逸らしながら言う。
「ほんと?」
「うん…動きやすいならそれでいい」
「えへへ…」
少し嬉しそうに笑う真尋。
「よーし!それじゃ改めて護身術教室開始だ!」
凪の父がパンッと手を叩く。
「まずは体力測定代わりに軽く走るぞー!」
「えぇっ!?」
「護身術も多少体力使うからな!あとは柔軟体操!」
真尋は凪を見る。
「……凪ちゃんもやるの?」
「やる」
「うぅ…じゃあ頑張る…」
「無理はしなくていいからね」
「うん!」
夕焼け色に染まる道場の中、小さな護身術教室が始まった。
初日という事で、ランニング、柔軟体操、筋肉トレーニング、護身術――。
主人公の父は、一つ一つ説明しながら身体を軽く動かしていった。
「まずランニングは体力作り!逃げ切る体力が無いと意味がない!」
「は、はい!」
道場の周囲を軽く走る真尋。
最初は元気だったが、
「はぁ…はぁ…」
数分後には肩で息をしていた。
「真尋、無理しない」
横を軽く流しながら凪が声をかける。
「だ、大丈夫…まだ…いける…」
「顔真っ赤だけど」
「運動不足なだけだもん…!」
その後は柔軟体操。
「身体硬っ!?」
凪の父が驚く。
「いたたたた!無理無理無理!」
前屈をしながら悲鳴をあげる真尋。
「これは怪我しやすいなぁ…」
「うぅ…」
次は軽い筋力トレーニング。
腹筋。
腕立て。
スクワット。
「うぅぅ…脚ぷるぷるする…」
「最初はそんなもんだ!」
そして最後に簡単な護身術。
手首を掴まれた時の逃げ方。
後ろから抱えられた時の重心移動。
真尋は真剣に覚えていた。
気がつけば、2時間程経っていた。
「お疲れ様!」
凪の父がタオルを渡す。
「つ、疲れたぁ…」
ふにゃっとした顔になる真尋。
その後、真尋は更衣室へ向かい着替えを済ませて戻ってきた。
「これ…洗って返すね!」
ジャージを差し出す。
「ううん、大丈夫」
そう言い凪は真尋からジャージを受け取る。
運動後なのに、ジャージからはほんのりと甘い香りがしていた。
「ご、ごめんよ…臭かった?」
不安そうに聞く真尋。
「いや…何か甘い香りしてるなって…」
「え?」
自分の匂いを嗅ぐ真尋。
「?…わかんないや」
「多分髪じゃないかな?シャンプーやコンディショナーの匂い…いつも風に乗って香ってくるから…」
「なるほど!」
長い髪を自分の鼻元に持って行く真尋。
「……あっ、本当だ!甘い匂いする!」
「多分それ」
「そっかぁ…」
ふわふわと髪を揺らしながら嬉しそうに笑う。
「運動したら汗臭くなるかと思った…」
「真尋、汗あんまりベタつかないタイプだし…」
「えへへ…」
すると、凪の父が後ろからニヤニヤしながら口を開く。
「青春だなぁ」
「お父さんうるさい」
即答する凪。
「ははは!まぁ真尋ちゃん、初日にしてはよく頑張ったぞ!」
「ほ、本当ですか!?」
ぱぁっと顔が明るくなる。
「うむ!体力はまだまだだが、筋は悪くない!」
「やった!」
ぴょこんと小さく跳ねる真尋。
「でも今日は絶対筋肉痛くるぞー?」
「えっ…」
固まる真尋。
「階段降りれなくなるかもな!」
「えぇぇ!?」
「だから最初は軽めなんだよ」
凪が苦笑する。
「これで軽めなの!?」
「今日は本当に基礎だけ」
「うそぉ…」
ガーンとショックを受ける真尋。
そんな様子を見て、凪の父は笑った。
「まぁ続ければちゃんと強くなる!大事なのは継続だ!」
「……うん、頑張る」
真尋は小さく拳を握る。
「次は…ちゃんと、自分でも動けるようになりたいから…」
その言葉に、凪は少しだけ目を細めた。
「焦らなくていいよ」
「でも…」
「真尋はもう十分頑張ってる」
「……っ」
少し照れたように視線を逸らす真尋。
「じゃ、じゃあ!今日は帰ろっか!」
「うん」
夕焼けは少しずつ夜色へ変わり始めていた。
「授業料金はおいくらですか?」
帰る支度をしながら、真尋が遠慮がちに聞いた。
凪の父はきょとんとした顔をした後、大きく笑った。
「娘の『彼氏』からは料金なんて貰うわけないだろ?」
「か、彼氏…」
一瞬で顔を真っ赤にする真尋。
「お父さん!真尋ちゃんはか、彼氏じゃないよ…」
凪も慌てて否定する。
「ん?彼氏じゃなきゃなんだよ?」
「ほ、ほら!同じ部活メンバー!」
「そ、そうです!ぶ、部活メンバーです!」
必死に頷く真尋。
顔が赤すぎて今にも湯気が出そうだった。
「そうなのか?いや、父さんはてっきり『付き合ってる』とばっかり!がはは…」
大笑いする凪の父に
ゴンッ!
凪の拳骨が綺麗に入った。
「痛っ!」
「変な事言わないで…」
凪は呆れた顔をする。
「いやぁ、だって仲良いしなぁ?」
「……」
「……」
視線を逸らす二人。
気まずそうにモジモジしている。
「ほら見ろ!その反応!」
「お父さん!」
「す、すみません!」
なぜか真尋まで謝る。
凪の父は豪快に笑いながら腕を組んだ。
「まぁ、真尋君は真面目だし礼儀正しいし、父さんは好きだぞ?」
「ほ、本当ですか?」
ぱぁっと嬉しそうになる真尋。
「おう!だから遠慮しなくていい!料金もいらん!」
「でも…」
「その代わり!」
凪の父がニヤリと笑う。
「ちゃんと続ける事!護身術は一日で強くなるもんじゃないからな!」
「……はい!」
真尋は小さく拳を握る。
「頑張ります!」
その目は、以前より少しだけ強く見えた。
護身術教室を出たあとは、凪は真尋を自宅まで送った。
夜の風はひんやりとしていて、運動後の火照った身体に心地よかった。
「脚…ぷるぷるする…」
真尋がふらふらと歩きながら呟く。
「だから言ったのに」
「うぅ…筋肉痛絶対くる…」
「多分明日の朝が地獄」
「やだぁ…」
情けない声を出す真尋。
そんな様子に、凪は少しだけ笑った。
「でも、ちゃんと最後までやれたね」
「えへへ…頑張った…」
褒められて嬉しそうに笑う。
少し沈黙が流れる。
街灯がぽつぽつと道を照らしていた。
「ねぇ…凪ちゃん」
「ん?」
「ボク…強くなれるかな…」
不安そうな声。
凪は少し考えてから答えた。
「真尋は、もう強いよ」
「え…?」
「怖かったのに、また外に出て、病院にも行って、自分から護身術やりたいって言えた」
「……」
「それって結構すごい事だと思う」
真尋はきょとんとしたあと、照れたように俯いた。
「なんか…そう言われると恥ずかしい…」
「本当の事だから」
「……ありがと」
小さく笑う。
やがて大きな門が見えてきた。
真尋の家だった。
すると門の近くに、黒服姿の影野が立っていた。
「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」
深々と頭を下げる。
「ただいま!」
元気よく返事をする真尋。
影野はその後、凪へ向き直った。
「本日も送っていただきありがとうございます」
「いえ…」
「お坊ちゃまが楽しそうで何よりです」
そう言った影野の表情は、どこか安心しているようにも見えた。
「じゃあ凪ちゃん!」
真尋が振り返る。
「また明日ね!」
「うん、また明日」
手を振るヒロイン。
門が閉まるまで、凪はその場に立っていた。
金曜日の放課後。
ふたりは風間さんの入院している病院へお見舞いに来ていた。
コンコン――。
凪が病室の扉をノックする。
「どうぞー」
中から風間さんの明るい声が聞こえた。
扉を開ける。
「風間さん!今朝方ぶりです!」
真尋が元気よく手を振る。
「今朝方ぶり真尋ちゃん!あら、今日は凪ちゃんも一緒ね!」
「はい、お久しぶりです。」
凪は軽く頭を下げた。
病室には夕方の柔らかな光が差し込んでいた。
以前より少しだけ、風間さんの頬は痩せた気もする。
それでも笑顔は変わらなかった。
「ふふふ、二人が来ると病室が明るくなるわね」
「今日はね!学校であった事いっぱい話すんだよ!」
真尋は椅子を引っ張ってきてベッドの横へ座る。
「まずね!護身術教室行ったの!」
「あらまぁ!」
驚く風間さん。
「凪ちゃんのお父さんに教わってるの!」
「へぇ…真尋ちゃん頑張ってるのね」
「うん!でも筋肉痛が酷くて階段降りる時変な声出た…」
「ちょ、真尋」
「えへへ…」
風間さんは楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見て、凪は少し安心する。
すると真尋が急に立ち上がった。
「そうだ!今日も髪の毛確認!」
「ふふふ、はいはい」
ベッドの後ろへ回る真尋。
優しく風間さんの長い髪を持ち上げる。
「……うん!まだ大丈夫そう!」
「本当?」
「うん!」
少し嬉しそうに風間さんは自分の髪へ触れた。
「よかった…」
ぽつりと呟く。
凪はその様子を静かに見守っていた。
窓の外では、夕焼けが少しずつ夜色へ変わり始めていた。
夕陽に照らされ、真尋の長いピンク色の髪がキラキラと輝いていた。
窓から差し込む橙色の光が、柔らかな髪を透かしている。
「綺麗な髪ねぇ…」
風間さんは優しく微笑みながら、櫛を通していく。
さらさらと静かな音。
「……くすぐったい…」
「ふふふ、ごめんなさいね」
真尋は大人しく座ったまま、されるがままになっていた。
風間さんの手つきは、とても慣れていて優しい。
まるで本当の孫に触れるみたいだった。
「…三つ編みに結いましょうね…」
「うん…」
長い髪が、丁寧に編み込まれていく。
夕陽に照らされた三つ編みは、ほんのり赤く見えた。
凪はその様子を静かに見守る。
どこか穏やかで、温かい時間だった。
やがて最後まで編み終えると、風間さんはリボンで先を結んだ。
「はい、できた」
「わぁ…」
真尋は嬉しそうに自分の髪を触る。
「なんか、お姉さんみたい…」
「あらまぁ、真尋ちゃんは元から可愛いわよ?」
「えへへ…」
照れ笑いするヒロイン。
その光景を見ながら、凪は口を開いた。
「明日、風を通すのと掃除に行ってきます」
風間さんが凪を見る。
「本当に行ってくれるのね…」
「はい」
「ありがとう…」
風間さんは少しだけ目を細めた。
「社も家も…きっと喜ぶわ」
「真尋も一緒に行く?」
「行く!」
即答だった。
「お弁当作って行く!」
「ふふふ、楽しそうねぇ」
夕焼け色の病室に、三人の穏やかな笑い声が響いていた。
「では、明日迎えに来ます」
凪は風間さんへそう伝えた。
「わかったわ」
風間さんは優しく頷く。
「朝早いのにごめんなさいね」
「大丈夫です」
「わたしも来るからね!」
真尋が元気よく言う。
「ふふふ、ありがとう真尋ちゃん」
風間さんは嬉しそうに笑った。
病室の時計を見る。
面会終了時間が近づいていた。
窓の外は、すっかり夕暮れ色だ。
「そろそろ帰ろっか」
凪が声をかける。
「うん!」
真尋は立ち上がると、自分の三つ編みを嬉しそうに触った。
「似合ってる?」
「うん、似合ってる」
「えへへ…」
嬉しそうに頬を緩める。
すると風間さんが小さく呟いた。
「まるで本当の娘か孫みたいね…」
「え?」
真尋がきょとんとする。
「あら、ごめんなさいね、なんでもないわ」
風間さんは笑って誤魔化した。
コンコン――。
外からノック音が響く。
「お坊ちゃま、そろそろお時間です」
影野の声だった。
「はーい!」
真尋が返事をする。
「じゃあ風間さん!また明日!」
「えぇ、また明日ね」
凪も軽く頭を下げる。
「失礼します」
病室の扉を閉める直前まで、
風間さんは穏やかな笑顔で二人を見送っていた。
翌日。
朝の空気は少しひんやりとしていた。
凪は待ち合わせのため、真尋の家へ向かっていた。
高級住宅街の中でもひときわ大きな屋敷。
インターホンを押す。
『はい』
聞き慣れた執事、有馬の声。
「あの…凪です」
『お待ちしておりました、どうぞ』
静かに門が開く。
庭を抜け玄関へ向かうと、有馬がすでに扉を開けて待っていた。
「おはようございます、凪様」
「おはようございます」
「お坊ちゃまは朝食を終え、準備中でございます」
「ありがとうございます」
屋敷の中へ案内される。
すると、階段の上からバタバタと足音が聞こえてきた。
「凪ちゃーん!」
三つ編みにされた長いピンク髪を揺らしながら、真尋が駆け下りてくる。
「おはよう!」
「おはよう真尋、走ると危ないよ」
「えへへ、ごめん!」
今日は動きやすそうな服装に、小さなショルダーバッグ。
その中にはきっと、お弁当や掃除道具のメモなんかが入っているのだろう。
「風間さんのお弁当も作ったんだよ!」
嬉しそうに見せる。
「サンドイッチと卵焼き!」
「朝早かったんじゃない?」
「うん!でも頑張った!」
そこへ真尋の母もやって来た。
「あら、おはよう凪さん」
「おはようございます」
「今日もありがとうね」
「いえ」
「病院までは車を用意してあるわ」
「ありがとうございます」
「あと、社の掃除用に少し道具も積んでおいたから自由に使ってちょうだい」
「わぁ!ありがとうございます!」
嬉しそうな真尋。
「では、お車の準備が整っております」
有馬が一礼する。
二人は屋敷を出て、車へ向かった。
今日はまず病院へ。
それから風間さんの家と、あの社へ向かう予定だった。
病院へ到着すると、二人はそのまま風間さんの病室へ向かった。
コンコン――。
「どうぞー」
聞き慣れた声。
扉を開けると、風間さんはすでに外出の準備を終えていた。
動きやすそうな服装に、小さな帽子。
どこか嬉しそうな表情をしている。
「あらまぁ、来てくれたのね!」
「来たよー!」
真尋が駆け寄る。
「今日はよろしくお願いします」
凪も軽く頭を下げた。
「こちらこそよろしくねぇ」
すると、白衣の看護師がカルテを片手に近づいてくる。
「では風間さん、外出前の説明をしますね」
「はい」
看護師は優しく説明を始めた。
「まず、お食事は無理して全部食べなくて大丈夫です。吐き気や気分不良があったらすぐ休んでください」
「わかりました」
「水分もしっかり摂ってくださいね」
真尋が真剣な顔でメモを取り始める。
「あと、人混みはできるだけ避けること。免疫が落ちているので感染症には注意してください」
「はい…」
「疲れたらすぐ休憩。長時間歩きっぱなしは禁止です」
「真尋、ちゃんと覚えられる?」
「だ、大丈夫!ちゃんとメモしてる!」
必死にノートへ書き込むヒロイン。
その様子に風間さんと看護師が小さく笑った。
「本当に付き添いがしっかりしてるわねぇ」
「えへへ…」
照れ笑いする真尋。
最後に看護師は風間さんへ薬袋を渡した。
「お昼のお薬はこちらです」
「ありがとうございます」
「何かあればすぐ病院へ連絡してくださいね」
「はい」
説明が終わる。
風間さんはゆっくり立ち上がった。
「なんだか遠足前みたいでドキドキするわね」
「わたしも!」
「じゃあ、行きましょうか」
三人は病室を後にした。
移動は全て真尋の家の車だった。
今回はリムジンではない。
風間さんの身体への負担を考え、大きめの普通車が用意されていた。
車高は低めで乗り降りしやすく、
ドアを開けると電動ステップまで出てくる。
「わぁ…すごい…」
風間さんが少し驚いたように呟く。
「お母様が、風間さん疲れないようにって」
真尋が説明する。
「ありがたいわねぇ…」
有馬が静かにドアを支え、風間さんを車へ案内した。
座席も柔らかく、広い。
長距離移動でも疲れにくいよう調整されているらしい。
「では、安全運転で向かいます」
運転手がそう言い、車は静かに発車した。
高速道路は使わない。
急な加速や振動を避けるため、下道をゆっくり走る。
窓の外を流れる景色は、少しずつ都会から郊外へ変わっていった。
「なんだか旅行みたいねぇ」
風間さんが微笑む。
「旅行!」
真尋も嬉しそうだ。
途中、赤信号で止まる度に、真尋は風間さんの顔色をちらちら確認していた。
「大丈夫?」
「えぇ、大丈夫よ」
「気持ち悪くない?」
「まだ平気」
「疲れたらすぐ言ってね!」
「ありがとう、真尋ちゃん」
そんなやり取りをしながら、車はゆっくり進んでいく。
片道約三時間。
決して短い距離ではない。
それでも今日は、不思議と長く感じなかった。
穏やかな空気が、車内を包んでいた。
最初に向かったのは、あの山の社だった。
車を降りると、木々の香りと湿った土の匂いが広がる。
雨の日から、まだそれほど日は経っていない。
社の周囲には落ち葉や小枝が散らばっていた。
石段にも細かな葉が積もっている。
「結構落ちてるね…」
凪が周囲を見回す。
「いっぱいお掃除しないと!」
真尋は腕まくりをした。
風間さんはゆっくりと社の縁側へ腰を下ろす。
少し疲れたようだが、表情は穏やかだった。
「風間さんは社でゆっくりしててね!」
真尋が箒を持ちながら言う。
「ええ、ありがとう。でも火の番くらいはさせてね」
風間さんは優しく答える。
社の小さな竈へ目を向けた。
「焚き火ですか?」
凪が聞く。
「えぇ、落ち葉もあるし、少しだけね」
そう言って風間さんは慣れた手つきで小枝を集め始める。
真尋と凪は掃除を始めた。
箒で葉を集め、落ちた枝を端へ寄せる。
「うぅ…思ったより広い…」
真尋が早速へばり始める。
「まだ十分も経ってないよ」
「もう腕疲れたぁ…」
「真尋、体力無さすぎ」
「鍛え始めたばっかりだもん…!」
そんなやり取りをしながら掃除は進んでいく。
やがて。
パチパチ――。
社の側から、小さな火の音が聞こえてきた。
風間さんが焚き火へ火を入れたのだ。
白い煙がゆっくり空へ昇っていく。
「なんか落ち着く匂い…」
真尋が呟く。
「木の匂いだね」
凪は空を見上げた。
木漏れ日が揺れている。
風間さんは火を見つめながら、どこか懐かしそうに微笑んでいた。
パチパチ――。
静かな山の中に、火の弾ける音が響いていた。
集めた落ち葉や枝が、赤い炎の中でゆっくり燃えていく。
白い煙は空へと細く伸び、木漏れ日の間を漂っていた。
「なんか焼き芋したくなる匂い…」
真尋が火を眺めながら呟く。
「わかる」
凪も小さく頷いた。
掃除はひと段落していた。
落ち葉は片付き、石段も綺麗になっている。
すると、黒服の執事――影野が静かに動き始めた。
社前の開けた場所へ、折り畳み式のキャンプテーブルを設置する。
さらに椅子も並べ、手際よく準備を進めていく。
「すご…キャンプみたい…」
真尋が目を輝かせる。
影野は保冷バッグから水筒や包みを取り出して並べた。
「お坊ちゃま、そろそろお昼ご飯の時間です」
「わーい!ご飯!」
一気に元気になる真尋。
「ちゃんと手洗ってきて」
「はーい!」
近くの水場へ駆けていく。
風間さんはそんな様子を見ながら、ふふっと笑った。
「本当に元気ねぇ」
「食べ物が絡むと特に」
凪が苦笑する。
やがて真尋が戻ってきた。
「手洗った!」
「ちゃんと石鹸使った?」
「使ったよー!」
影野が静かにアルコール消毒まで差し出す。
「うっ…」
「感染対策です」
「はーい…」
しゅんとしながら消毒する真尋。
その様子に風間さんがまた笑った。
穏やかな山の空気の中、小さな昼食会が始まろうとしていた。
テーブルの上へ、真尋が作ってきたお弁当が並べられていく。
「今日はいっぱい作ったんだよ!」
嬉しそうに蓋を開ける真尋。
中には丸いおにぎり。
三角のおにぎり。
海苔で猫の顔が作られているものまであった。
「可愛い…」
風間さんが目を細める。
さらにサンドイッチ。
卵。
ツナ。
トマトレタス。
ハムチーズ。
彩りよく並べられていた。
他にも、
卵焼き。
唐揚げ。
ブロッコリー。
ミートボール。
たこさんウインナー。
「おぉ…豪華」
凪が少し驚く。
「頑張った!」
真尋は胸を張った。
「朝すごく早起きして作っていたんですよ」
影野が静かに補足する。
「影野!」
真尋が恥ずかしそうに声を上げる。
「ふふふ、愛情たっぷりねぇ」
風間さんは優しく笑った。
真尋は照れながら、風間さんの前へ小さなお皿を置く。
「風間さんは無理しない量ね!」
「ありがとう」
「食べれなかったら残していいからね?」
「えぇ」
真尋は小さめのおにぎりと、柔らかそうな卵焼きを取り分けた。
「はい!あーん!」
「ふふふ、自分で食べられるわよ?」
「だめ!今日は患者さんだから!」
「じゃあお願いしようかしら」
風間さんが口を開ける。
「あーん…」
ぱくり。
「……おいしい」
優しく細められた目。
それだけで真尋は嬉しそうだった。
「ほんと!?」
「えぇ、本当に美味しいわ」
「やったぁ!」
山の静かな空気の中、穏やかな昼食の時間が流れていった。
三人はゆっくり時間をかけて昼食を楽しんだ。
山の風は穏やかで、木々が揺れる音と、時折響く鳥の鳴き声だけが聞こえる。
パチパチと焚き火も静かに燃えていた。
「この卵焼き甘くて好き…」
風間さんが小さく笑う。
「えへへ、ちょっとお砂糖多め!」
「唐揚げも美味しいわねぇ」
「それは昨日から漬け込んだの!」
「本格的…」
凪も感心していた。
普段より、風間さんはよく食べていた。
少しずつ。
ゆっくりと。
でも確かに箸が進んでいる。
楽しそうに会話をしながら食べる姿は、病室で見る時より元気そうに見えた。
やがて。
「ありがとう、もうお腹いっぱいよ」
風間さんが満足そうに息をついた。
空になった小皿が、いつもよりずっと多い。
「いっぱい食べれた!」
真尋が嬉しそうに声を上げる。
「えぇ…楽しいと食べられるものね」
風間さんは穏やかに微笑んだ。
少しだけ頬に赤みが戻っている。
凪はその様子を見て、小さく安心したように息を吐いた。
風が吹く。
社の鈴が、ちりん…と小さく鳴った。
まるで、この穏やかな時間を喜んでいるみたいだった。
食事が終わる頃には、用意していた料理は綺麗になくなっていた。
「全部食べちゃった…」
真尋が空のお弁当箱を見て驚く。
「ふふふ、真尋ちゃんのお料理が美味しかったからよ」
風間さんが優しく笑った。
「やったぁ…!」
嬉しそうに顔を綻ばせる真尋。
影野と運転手が後片付けを始める中、
凪は立ち上がった。
「じゃあ、掃除の続きをしようか」
「うん!」
真尋も元気よく返事をする。
食後で少し眠そうだったが、今日は頑張る気らしい。
今度は社の裏側だ。
普段あまり人が入らない場所らしく、落ち葉や枝がかなり溜まっていた。
「わ…こっち凄い…」
真尋が目を丸くする。
地面は少し湿っていて、苔むした石も見える。
木漏れ日が差し込み、どこか神秘的な空気が漂っていた。
「滑るから気を付けて」
凪が声をかける。
「はーい…」
箒で葉を集める真尋。
しかし。
「うぅ…腰痛い…」
数分でへばり始める。
「真尋、体力なさすぎ」
「いっぱい動いたもん…!」
頬を膨らませるヒロイン。
その様子を、縁側に座った風間さんが穏やかに見守っていた。
「頑張ってるわねぇ」
「筋肉痛になる未来しか見えないけど」
凪が苦笑する。
すると。
ガサッ――。
社の裏の茂みが揺れた。
「!?」
真尋がびくっとする。
次の瞬間。
にゃあ。
一匹の白黒猫が姿を現した。
「あっ!猫!」
一気に目を輝かせる真尋。
猫は少し警戒しながらも、三人をじっと見つめていた。
「あら、ミミちゃんじゃない?おいで〜」
風間さんが優しく指先を差し出した。
白黒猫は警戒する様子もなく、ゆっくりと近づいてくる。
落ち葉の上を、てくてくと静かな足取りで歩いてきた。
そして。
シュン……シュン……
小さな鼻を動かしながら、風間さんの指先へ鼻先を近づける。
匂いを確認しているようだった。
「かわいい…」
真尋が小声で呟く。
猫はしばらく確認すると、安心したのか喉を鳴らし始めた。
ゴロゴロゴロ……
そして、鼻先から首元にかけて、こつり……と身体を押し付けてくる。
「ふふふ、覚えててくれたのね」
風間さんは優しく頭を撫でた。
ミミちゃんは気持ち良さそうに目を細める。
「風間さん、この子知ってるの?」
凪が聞く。
「えぇ、この社によく来る子なの。前に来た時、ご飯を少し分けてあげたのよ」
「なるほど…」
真尋は完全に掃除を忘れ、猫へじりじり近づいていた。
「ミミちゃ〜ん…」
にじり寄る。
しかし。
猫はサッと凪の後ろへ隠れた。
「えぇ!?なんで!?」
「勢いが怖かったんじゃない?」
「そんなぁ…」
しょんぼりするヒロイン。
するとミミちゃんは、凪の足元へ擦り寄った。
「おぉ…」
「凪ちゃんばっかりずるい…」
「猫に言って」
凪が苦笑する。
風が吹く。
木々が揺れ、社の鈴がまた小さく鳴った。
穏やかな午後の時間が、静かに流れていた。
「よし…続きをやろっか」
凪が箒を持ち直す。
「はーい…」
少し名残惜しそうに真尋も立ち上がった。
ミミちゃんはしばらく三人の近くを歩いていたが、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
「ミミちゃん帰っちゃったのかな…」
真尋が辺りを見回す。
「山の猫だしね」
凪は集めた枝を運びながら答えた。
社裏は思った以上に広く、落ち葉の量も多かった。
箒で掃き、枝を集め、苔で滑りそうな場所を確認しながら進めていく。
途中から影野達も加わり、作業は一気に進んだ。
気が付けば――。
社の周囲は見違えるほど綺麗になっていた。
石畳も見えるようになり、風が通る。
「終わったぁー…!」
真尋がその場へへたり込む。
「お疲れ様」
凪はタオルを差し出した。
「ありがとう…腕ぷるぷるする…」
「明日筋肉痛だね」
「うぅ…」
風間さんは縁側から、
そんな二人を優しく見守っていた。
「本当に綺麗になったわねぇ…」
その声は、どこか嬉しそうでもあり、懐かしそうでもあった。
焚き火も小さくなり、赤い炭火だけが残っている。
山の空気は静かで、時間がゆっくり流れているようだった。
「次はお家の方行く?」
真尋が聞く。
「そうだね」
凪が頷く。
風間さんは社を見上げ、小さく頭を下げた。
「また来るわね」
風が吹き抜ける。
三人は、焚き火が完全に消えるまでその場で待っていた。
赤く残っていた炭も、少しずつ黒くなっていく。
影野が最後に水をかけ、煙がふわりと立ち上った。
「これで大丈夫です」
「ありがとう」
風間さんが静かに頷く。
凪は社を振り返った。
掃除された石段。
落ち葉の無くなった境内。
少しだけ明るくなった景色。
「綺麗になったね」
「うん!」
真尋も嬉しそうだった。
そして三人は再び車へ乗り込む。
次の目的地は、風間さんの自宅。
山道をゆっくり下り、車は静かに進んでいく。
「なんだか眠くなってきちゃった…」
真尋が小さく欠伸をした。
「いっぱい動いたからね」
「うん…」
そう言いながら、真尋はうとうとし始める。
長いピンク髪が肩から滑り落ち、こくりこくりと揺れていた。
「寝てていいよ、着いたら起こすから」
凪が声をかける。
「ん…ありがと…」
そのまま真尋は、ゆっくり目を閉じた。
風間さんはそんな二人を見ながら、優しく微笑む。
「本当に仲良しねぇ」
「……そう見えます?」
「えぇ」
凪は少しだけ照れたように窓の外を見る。
夕方が近づき、空は少しずつ橙色へ染まり始めていた。
穏やかな時間を乗せた車は、風間さんの家へ向かって走っていく。
しばらくして、車は風間さんの自宅へ到着した。
山の中に静かに建つ、あの可愛らしい家。
夕日に照らされ、どこか暖かそうに見える。
車が停まると、凪は隣を見る。
真尋は完全に眠そうだった。
「真尋…着いたよ」
頬をつつく。
「うーん…」
ゆっくり目を開ける真尋。
「着いた?」
「うん」
「真尋ちゃん、お家のソファーで横になりなさいな」
風間さんが優しく声をかける。
「うん…」
まだ半分眠ったまま、真尋は凪に手を引かれて車を降りた。
ふらふらしながら家の中へ入っていく。
久しぶりの室内は、少しひんやりしていた。
けれど、窓を開けて風を通したおかげか、嫌な空気は感じない。
「空気入れ替わってくね」
凪が言う。
「ありがとう…」
風間さんは静かに微笑んだ。
真尋はそのまま、リビングの大きなソファーへ倒れ込むように横になる。
「ふにゃぁ…」
完全に力が抜けていた。
「疲れた?」
凪が聞く。
「いっぱい動いたぁ…」
もぞもぞしながら答える。
長いピンク髪がソファーからさらりと垂れていた。
風間さんはクッションを持ってきて、真尋の頭の下へそっと入れる。
「これで楽かしら?」
「ん…ありがと…」
気持ち良さそうに目を細める真尋。
その様子に、凪と風間さんは小さく笑った。
窓から夕方の風が入り込み、カーテンをゆっくり揺らしていた。
しばらくすると、家の中に甘い香りが広がり始めた。
バターと砂糖の焼ける香り。
ほんのりとした紅茶の匂い。
「いい匂い…」
ソファーで横になっていた真尋が、
うとうとしながら呟く。
キッチンでは、凪がオーブンを開けていた。
熱気と共に、焼き上がったカップケーキの香りが広がる。
ミトンを使いながら、鉄板をそっと取り出した。
「熱っ…」
小さく呟きながら、慎重にテーブルへ置く。
ふわりと膨らんだカップケーキ。
焼き色も綺麗だった。
「凪ちゃんは、お菓子を焼くの上手ね」
風間さんが感心したように言う。
「買うより安く沢山作れますから。あと妹が喜ぶので」
「妹さんが居るのね…」
「はい、元気すぎますけど」
凪は苦笑した。
その様子に、風間さんもくすりと笑う。
紅茶の湯気がゆっくり立ち上る。
窓の外は、少しずつ夕暮れへ変わり始めていた。
「……いい時間ねぇ」
風間さんが静かに呟く。
その声は、どこか穏やかで、少しだけ嬉しそうだった。
すると。
「焼けた…?」
ソファーから、もそっと真尋が顔を出した。
「起きてたの?」
「匂いで起きた…」
寝癖で跳ねた長いピンク髪のまま、ぼんやりこちらを見ている。
「出来立て熱いから気を付けてね」
凪が言う。
「はーい…」
まだ眠そうな声だった。
「いただきます!」
真尋は焼きたてのカップケーキを両手で持つ。
そして――。
「はふっ…はふはふっ…!」
「あっ、真尋!まだ熱いって」
「でも出来立て美味しい…!」
涙目になりながらも食べ続けるヒロイン。
ふわふわの生地から、ほんのり甘い香りが広がっていた。
「んー…おいしい…」
幸せそうに頬を緩める。
風間さんも小さく一口食べた。
「……あら」
優しく目を細める。
「紅茶の葉を入れてるのね…いい香り」
「はい、アールグレイです」
凪が答える。
「なるほどねぇ…だから香りが上品なのね」
紅茶を一口飲み、もう一口カップケーキを食べる。
「すごく合うわ」
「よかったです」
真尋は二個目へ手を伸ばしていた。
「真尋、食べすぎじゃない?」
「動いたからお腹すいたの!」
「さっきお昼いっぱい食べたのに…」
「甘いのは別腹!」
胸を張る真尋。
その様子に、風間さんは楽しそうに笑った。
「本当に見ていて飽きない子ねぇ」
「昔からこんな感じです」
「むぅー」
頬を膨らませる真尋。
窓の外では、夕日が少しずつ沈み始めていた。
暖かな光に包まれながら、三人は穏やかな時間を過ごしていた。
楽しい時間はあっという間だった。
食べ終えた食器を片付け、凪は家の中を見回す。
開けていた窓から、夕方の少し冷たい風が入り込んでいた。
「そろそろ閉めるね」
「お願いするわ」
凪は一つずつ窓を閉めていく。
カーテンが揺れ、外の山の音が少し遠くなった。
最後の窓を閉め終える頃には、空は夕焼け色から群青色へ変わり始めていた。
「これで大丈夫かな」
「えぇ、ありがとう」
風間さんは家の中を見渡し、どこか安心したように微笑んだ。
「ちゃんと生きてる家の匂いがするわ」
その言葉に、凪と真尋も少し嬉しそうな顔をする。
「じゃあ、病院戻ろっか」
「うん!」
真尋は立ち上がると、眠気も抜けたのか少し元気になっていた。
三人は家を出る。
玄関の鍵を閉め、風間さんは一度だけ家を振り返った。
「また来るわね」
小さく呟く。
そして皆、車へ乗り込んだ。
帰り道は、来た時より静かだった。
真尋は風間さんへ寄り添うように座り、時々顔色を確認している。
「大丈夫?」
「えぇ、今日は凄く楽しかったわ」
「いっぱい食べれたしね!」
「ふふふ、そうねぇ」
車は夜道をゆっくり走る。
街の灯りが少しずつ増え、やがて大きな病院が見えてきた。
車がVIP入口へ滑り込む。
影野と運転手が先に降り、風間さんを支えた。
「今日は本当にありがとう」
風間さんが二人を見る。
「また来るね!」
真尋が笑顔で言う。
「えぇ、待ってるわ」
病院の明かりの中、風間さんは穏やかに微笑んでいた。
風間さんを病院へ送り届けた後、車はそのまま真尋の屋敷へ向かった。
夜の街は、昼間とは違う静けさに包まれている。
車内では、真尋が少し眠そうに窓へ寄りかかっていた。
「今日はいっぱい頑張ったね」
凪が声をかける。
「うん…でも楽しかった…」
小さく笑う真尋。
屋敷へ到着すると、玄関前には真尋の母と有馬が待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいまー…」
少し疲れた声。
「風間さんは大丈夫だった?」
「うん!いっぱい食べてた!」
「それは良かったわ」
真尋の母は安心したように微笑む。
「凪さんも今日は本当にありがとう」
「いえ、大丈夫です」
「泊まっていく?」
「明日も学校なので帰ります」
「そう…気を付けて帰ってね」
「はい」
すると。
「凪ちゃん…」
真尋が袖を軽く掴いた。
「ん?」
「また…一緒に行こうね」
「うん、もちろん」
その返事に、真尋は少し嬉しそうに笑った。
有馬が門を開ける。
「では、お気を付けて」
「ありがとうございます」
凪は軽く頭を下げ、夜道を歩き始めた。
街灯の明かりが、静かな道を照らしている。
昼間の賑やかさが嘘みたいだった。
凪はゆっくり歩く。
ふと空を見上げる。
夜風が頬を撫でた。
そして――。
人通りが無くなった瞬間。
風が吹き抜ける。
次の瞬間には、凪の姿は風のように消えていた。
屋根へ飛び移り、音も無く夜の街を駆けていく。
誰にも気付かれず。
まるで、夜そのものに溶け込むみたいに。
病室へ戻った風間さん
ナースコールを押す
駆けつける看護師
「ごめんなさい…真尋ちゃん…全部…出しちゃった…」
掃除する看護師を見つめながら呟く風間さん。
院長先生も駆けつける。
「全部出て少しは楽になったかい?風間さん…」
「えぇ…でもまだ少し吐き気が…」
「では胃薬と吐き気止め処方しましょう…」
聴診器、血圧計、注射器、点滴などが用意された。
「真尋ちゃん達には内緒にして欲しいわ…」
「守秘義務があるのでもちろんだよ…」
「あと…どのくらい?…」
「うーむ…長くて…1ヶ月…くらいかの…」
「そう…もう夏ね…あと1回、お家に帰れるかしら?…」
「ああ、帰れるとも…」
月明かりが、院長先生と風間さんの2人を照らす。




