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あの日の出会いと事件

あの日の不思議な思い出と『風間さん』に会いに『お見舞い』へ行く事になった。


真尋の家はとてつもない名家


病院の匂い


総合病院の院長先生は真尋の祖父で風間さんとは知り合い?


そして帰り道に事件が発生する事件


夜の防犯ブザー


真尋のは何も出来ない自分の「死」を覚悟


助けたのは、凪だった


凪の家族に温もりをもらう真尋


そして決意する…

風間と出会ってから、数日。


放課後。


校舎の端にある、小さな部室。


『不思議研究部』

プレートは少し傾いている。


部室の中には、机がひとつ。


椅子がふたつ。


棚がひとつ。


それだけの、小さな空間。


その机の上いっぱいに、現像された写真が並べられていた。

真尋は一人、写真を整理している。


アルバムは二冊。


一冊は『部活用』。


もう一冊は『自分用』。


「んー……これは部活用かなぁ……」


写真を並べながら悩んでいると。


ガラリ、と扉が開いた。


「来たよ」

凪だった。


「あっ!」

真尋の顔がぱっと明るくなる。


「丁度良かった!」


「写真できたよ!観て!」


「うん、観る」

凪は向かい側へ座る。


机ひとつ。

椅子ふたつ。


だから自然と向かい合う形になる。


真尋はアルバムを開いた。


「じゃーん!」


最初のページ。


駅前の大きな木。


朝の光。


そして——

ベンチですやすや眠る真尋


ページがめくられる。


電車。

窓の外の海。

おにぎり。

そして。

もぐもぐと食べている凪。


「……こんな写真、いつの間に」


「フィルムカメラのシャッターは静かだからね!」


真尋が得意げに言う。


「あと勘!」


「勘で撮ってるの?」


「うん!」


「すごいのか適当なのか分からない……」


次々とページがめくられる。


無人駅。

山道。

苔むした石階段。


そして、社。


風間。


虹。


あの日の空気が、そのまま閉じ込められているみたいだった。


「……すごいね」


凪が小さく呟く。


「ん?」


「たった一日なのに」


虹の写真を見る。


「すごく、濃かった」


真尋も少しだけ静かになる。


「……うん」



窓から風が吹き込む。


アルバムのページが、ぱらりと揺れた。


不思議な一日。


でも。


きっと、あの日から。


何かが少しずつ変わり始めている。


そんな気がしていた。


アルバムを閉じる。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


写真の余韻が、まだ部室に残っている。


その空気の中で。


凪が、静かに切り出した。


「そうだ」


「風間さんから連絡来て」


真尋が顔を上げる。


「こっちの総合医療センターで入院するって」


「……そっか」

少しだけ表情が曇る。

けれど、すぐに小さく笑った。


「病院って苦手なんだけど……」


「風間さんに会いたい」

その言葉に、凪も頷く。


「そうだね」


「一緒に、お見舞い行こうね」


「うん!」


次の休みに行く事が決まった。


午前中に真尋の家へ集合。


午後から病院へ向かう。


そんな予定を立てながら。


凪は、ふと思う。


(……そういえば)


真尋は、スマホを持っていない。

いや。

携帯電話そのものを持っていないようだった。

連絡は学校で直接。

もしくは、部室のパソコン経由。

不便そうなのに、本人は気にしていない。

だから凪は。


真尋に内緒で、小さなスマホを注文していた。

公共施設のWi-Fiだけでも連絡が取れるように。

少しでも、不便が減るように。


そして——

約束の日。


教えてもらった住所へ向かう。


高級住宅街。

綺麗に整えられた街路樹。


その中でも。

ひときわ大きな屋敷が目に入った。


「……大きい」


思わず、声が漏れる。


門だけでも、自分の家より高そうだった。


凪は少し緊張しながら、インターホンを押す。


『はい……』

落ち着いた、おじいさんの声。


「あの……凪と言います、真尋さんはいらっしゃいますか?」


少し間が空く。


『あぁ、お坊ちゃんの言っていた方ですね』


『どうぞ、今から鍵を開けますので奥へ』

通話が切れる。


直後。

ガコン、と重い音を立てて門が開いた。


奥の屋敷から、一人の男性が歩いてくる。

身なりの整った、ダンディな老人。


背筋は真っ直ぐ。


年齢を感じさせない立ち姿だった。


「いらっしゃいませ、凪様」


深く一礼する。


「私は執事をさせていただいております、有馬と申します」


「どうぞ、こちらへ」

玄関扉が開かれる。


その瞬間。

凪は思わず目を見開いた。


広い玄関ホール。


映画でしか見たことのないような中央階段。


途中で左右に分かれる造り。


高い天井。


静かな空気。


まるで別世界だった。


案内されたのは客間。


二十畳はあるだろうか。


革張りのソファ。


高級そうな木目のテーブル。


絵画や骨董品。


その全てが、やりすぎではなく自然に配置されている。


さらに奥には、小さなキッチンまで付いていた。


そこでは、メイドが紅茶の準備をしている。


有馬は一礼すると、静かに部屋を出て行った。


メイドがワゴンを押してくる。


「こちらへお掛けになって、お待ちください」


「ミルクと砂糖はこちらにございますので、ご自由にお使いください」


「は、はい……ありがとうございます……」

自然と、姿勢が伸びる。


凪は恐る恐る、紅茶へ角砂糖を三つ入れる。

さらにミルクを少し。


一口。


「……美味しいです」

思わず、本音が漏れた。


「お褒めいただき、ありがとうございます」

メイドが静かに微笑む。


香り高い紅茶だった。


雑味がない。


きっと、伝統ある淹れ方なのだろう。

タイマーを使わず。

感覚だけで、きっちり時間を測っている。


そんな丁寧さが、味から伝わってきた。


(……真尋、こんな家に住んでたんだ)


学校で見せる姿との違いに。


凪は、少しだけ驚いていた。


トントントン。


三回。


綺麗なノック音が響く。


「失礼いたします」


扉が開く。


先に入ってきたのは執事の有馬。


その後ろから。


一人の女性が入ってきた。


長い黒髪。


落ち着いた服装。


柔らかな雰囲気。


けれど。


どこか凛としている。


「こちらの方は、真尋お坊ちゃんの母君様です」


そう紹介すると、有馬は一礼し部屋を出ていった。


「座ったままで大丈夫ですよ」

女性は優しく微笑む。


「初めまして、真尋の母です」


「あっ……はい」

凪は慌てて背筋を伸ばした。


「初めまして……真尋さんと同じ部活の、凪と言います」

自然と緊張してしまう。


そんな凪を見て。

真尋の母は、ふふっと柔らかく笑った。


「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ」


「あまり、こういう事に慣れてなくて……」


「なるほどね」


意味深に微笑む。


「あの……なにか?」


「ごめんなさいね」


真尋の母は、紅茶を一口飲む。


「最近、あの子がとても楽しそうだったから」


「何があったのかなって」


カップを静かに置く。


「……いい子そうで、良かったわ」


凪は少しだけ目を丸くした。


その時。


バタバタと足音が近づいてくる。


勢いよく扉が開いた。

「お待たせ!」


そして。

「……って、お母様!?」


真尋が固まる。


真尋の母は、穏やかな笑顔のまま。


「真尋」


「元気なのは良いですけど」


「女性を待たせないのよ?」


「はい……お母様……」


真尋がしゅんと肩を落とす。


学校では見ない姿だった。


凪は少し驚く。


「あの……」


気になっていた事を、思わず口にする。


「よく分かりましたね……私が女って事……」


その言葉に。


真尋の母は、きょとんとした顔をした。


「真尋さん…そこに立ってないで、お座りなさい」

「はーい……」


真尋が凪の隣へ座る。


そして。


真尋の母は、当たり前のように言った。


「見たら分かりますよ、こんなに可愛い顔してるんですから」


「……っ!」

真尋が真っ赤になる。


「お、お母様ぁ……!」


「事実でしょう?」

さらりと言い切る母。


この家では、ちゃんと“娘、息子”として愛されている。

男でも女としても差別なく

そんな空気が、自然と伝わってきた。


「もー……」


真尋は顔を隠すように紅茶を飲む。


その様子を見て

凪は、少しだけ安心していた。


「あっ」


凪が、ふと思い出したように鞄を開く。


「忘れる前に、これ渡しておくね」

小さな紙袋を差し出した。


「ありがとう!」


真尋が受け取る。


「なんだろ?」

袋を軽く揺らす。


「……開けていい?」


「うん」


凪は少しだけ視線を逸らした。


「気に入るか分からないけど……」


真尋は紙袋から、小さな箱を取り出す。


「……?」

首を傾げながら、箱を開く。


そして。


「……これって、スマホ?」


中に入っていたのは、小さなスマートフォンだった。


縦は七センチほど。

横は四センチほど。

厚みも薄い。


色は、柔らかなシルバーピンク。


ころんと小さくて、どこか可愛らしい。


「うん」

凪が頷く。


「持ってなさそうだったから端末だけなんだけど……」


「よくカメラとか持ち歩いてるし、小さい方がいいかなって思って選んだ」


真尋は、まじまじとスマホを見る。


両手で包み込むように持って。


「……可愛い」


ぽつりと呟く。


そして。


ぱっと顔を輝かせた。


「ありがとう!」


「大事にする!」


本当に宝物みたいに握りしめる。


その様子に。


凪は少しだけ安心した。


「あらまぁ」

真尋の母が微笑む。


「いいの?」


「スマホなんて頂いちゃって」


「はい、大丈夫です」

凪は慌てて首を振る。


「そんなに高いものじゃないので」


「そう?」

真尋の母は、くすっと笑う。


「この子ったら、友達いないからスマホいらないって、ずっと言ってたのよ。親としては不便だったの…連絡も取れないし……」


「そうだったんですね……」


凪は思わず真尋を見る。


真尋は顔を真っ赤にしていた。


「そんな恥ずかしい事言わないで!お母様ったら、もぉー……!」


「ふふふ」

真尋の母は楽しそうに笑う。


「じゃあ今度、ちゃんと繋がるように契約へ行きましょうね?」


「うん!」

真尋は満面の笑みで頷いた。


その笑顔は。

新しい玩具をもらった子供みたいで。


でも。

凪には、それだけじゃない気がした。


“繋がれる”。

それが、真尋にとって嬉しかったのだと。

そんな気がした。


「この後は、どうするの?」

真尋の母が、穏やかに尋ねる。


凪は姿勢を正した。


「お昼過ぎたら、知り合いのお見舞いに総合病院へ行く予定です」


「あら、そうなのね」


「行く前に、お見舞いのお花か果物でも買って行こうかと思ってます」


その横で。

真尋が、うんうんと大きく頷いている。


「なら」

真尋の母は、少し首を傾げた。


「うちでお昼ご飯を食べて行くのかしら?」


「はい」

凪が答える。


「真尋さんが、食べて行ってって言ってくれたので」


「あら、そうだったの」

真尋の母は、どこか納得したように笑った。


「最近、よくキッチンに居るから何かと思ってたのよ」


「……!」

真尋の肩がびくっと揺れる。


「そういう事だったのね」


母は紅茶を一口飲む。


「メイドさん達が、最近キッチン周りをよく掃除してたから……」


ちらり。

真尋を見る。


「うっ……」

真尋が目を逸らす。


「ご、ごめんなさい……」


「いいのよ」

真尋の母は、優しく微笑んだ。


「やりたい事は、進んでやりなさい…でも、お片付けはきちんとね?」


「他の皆さんが大変だから」


「……はい」

しゅん、と小さくなる真尋。

その姿が少し可愛くて。


凪は思わず笑いそうになる。


「ふふっ」

真尋の母も、楽しそうに笑った。


厳しいわけではない。


でも。


ちゃんと見守っている。


そんな空気だった。


「それで?」

真尋の母が、少し楽しそうに聞く。


「今日は何を作ってくれるのかしら?」


「えっ」


真尋が固まる。


「そ、それは秘密!」


「凪さんを驚かせる予定だったの!」


「まぁ」


「楽しみね」

真尋の母は上品に微笑む。


そのやり取りを見ながら。


凪は、少し不思議な気持ちになっていた。


真尋は。

学校では、どこか掴みどころがない。


不思議で。


自由で。

でも、この家では。

ちゃんと家族に愛されて育った子なんだと。


自然と伝わってきた。


「じゃあ!」


真尋が勢いよく立ち上がる。


「凪ちゃん!お昼作るから、一緒に来て!」


「え、私も?」


「もちろん!」

真尋は嬉しそうに笑う。


「今日は共同作業なのです!」


「……なにそれ」

凪は困ったように笑いながら。


立ち上がった。


客間を出た後。


静かに扉が閉まる。


それを確認してから。

真尋の母が、そっと口を開いた。


「有馬さん」


「はい、奥様」


いつの間にか、有馬が側に立っていた。


「お花か果物、用意してくださるかしら?」


「かしこまりました」


有馬は静かに頷く。


「お見舞い用ですね」


「ええ……お願いします」

その会話を。

凪と真尋は知らない。


◇◇◇


「わぁ……」


キッチンへ入った瞬間。


凪は思わず声を漏らした。


広い。


家庭用というより、ホテルの厨房みたいだった。


大量の食材。


整然と並ぶ調理器具。


そして数人のスタッフ。


「今日はハンバーグだよ!」


真尋が嬉しそうに言う。


材料を見る限り。


トマト煮込みハンバーグらしい。


真尋が玉ねぎを刻み始める。


すると。


周りのスタッフ達も、一斉に玉ねぎを刻み始めた。


「えっ」


凪が目を丸くする。


ミンチをこねる。


皆もこねる。


成形する。


皆も成形する。


まるで。


真尋が司令塔みたいだった。


「……すごい」


「でしょ?」

真尋はどこか得意げだ。


周囲のスタッフ達は。


洗い物。


片付け。


火加減。


補助。


それぞれ自然に役割分担して動いている。


しかも。


その間に、パンまで焼き始めていた。


「屋敷って、こんな感じなんだ……」


凪が小さく呟く。


やがて。


トマト煮込みハンバーグが完成した。


ぐつぐつと煮える赤いソース。


香ばしい香り。


焼きたてのパン。


盛り付けは、スタッフ達が担当する。


けれど。


真尋は。


凪と、自分と、母の分だけは。


自分で丁寧によそっていた。


その料理が。


巨大なワゴンへ次々と積まれていく。


「お坊ちゃま」

スタッフの一人が微笑む。


「テーブルへどうぞ」


「うん!」

真尋は元気よく返事をした。


「ありがとうございます!」


そして。


凪の手を引く。


「凪ちゃん行こ!」


「わっ」

そのまま連れて行かれた先。


そこは。


大きなホールだった。


長いテーブル。


並ぶ椅子。


そして。


思っていたより、ずっと人が多い。


メイド。


執事。


料理人。


スタッフ達。


「……パーティー?」

思わずそう思ってしまうほどだった。


「あら」


真尋の母が笑う。


「真尋さん、ちゃんと作れたの?」


「うん!」

真尋は胸を張る。


「自信ある!」


「そう、楽しみだわ」

運ばれてくる料理を待つ。


テーブルには。


フォーク。

ナイフ。

スプーン。


そして。

お箸まで用意されていた。


「マナーは気にしないでくださいね」


真尋の母が、にこりと微笑む。


「好きな食べ方で大丈夫ですよ」

その言葉に。


凪は、少しだけ肩の力が抜けた。


でも。


こんな大勢で食事をするのは。


少しだけ、緊張する。


そんな凪の横で。


真尋は。

どこか嬉しそうだった。


ヒロイン——真尋は。

慣れた手つきで、フォークとナイフを使っていた。


切り分け方も綺麗だ。

凪も見よう見まねで真似をする。


少しぎこちない。


けれど。


真尋は何も言わず、自然に合わせてくれていた。


そんな二人を見ながら。


真尋の母が、ハンバーグを口へ運ぶ。


そして。


「……ん!」

少し驚いた顔をした。


「美味しいわね……うちの子、こんなに料理できたのね……」


「えっへん!」

真尋が得意げに胸を張る。


パンも、ふわふわだった。


ほんのり甘い香り。


トマトソースとの相性も良い。


気づけば。

緊張していた空気も、少しずつ和らいでいた。


楽しい食事の時間が過ぎていく。


そして。


「この後ちょっと……」


真尋が、うとうとしながら呟く。


「食休めしたら、出かけよ……ね……」


今にも寝そうだった。


「そうだね」

凪が苦笑する。


「一時間くらい? 二時間くらい?」


「うーん……」

真尋の頭がゆらゆら揺れる。


「二時間くらい……」


「わかった」


「ゆっくり休んでね」


「うん……ありがと……」


目を擦りながら立ち上がる。


すると。


いつの間にか近くにいた執事が、自然に手を添えた。


「こちらへどうぞ、お坊ちゃま」


「うん……」


そのまま、真尋は連れて行かれる。


その背中を見送りながら。


「ごめんなさいね」

真尋の母が声をかけた。


「いえいえ」

凪は少し笑う。


「いつもの事なので」


「あら」

真尋の母が、楽しそうに目を細める。


「そこまで心を許しちゃってるのね……」


再び、客間へ案内される。


「もし凪さんも休むようでしたら、お部屋に案内するわよ?」


「いえ、大丈夫です」

凪は首を横に振った。


「そう?」

真尋の母はソファへ腰掛ける。


「あの子、食事するとすぐ血糖値が下がっちゃうのよ」


「だからだったんですね」

凪は納得したように頷く。


「よく、お昼ご飯食べた後、猫達とお昼寝してるので」


その言葉に。

真尋の母が、少し優しく笑った。


「中身は、ずっと小さな子供のままでね……」


少し間が空く。


「あの子……普段、変な事言ったりしてないかしら……」


「変な事?」


「死にたくない、とか……」


「また死んじゃうの?……とか……」

凪は、一瞬だけ言葉に詰まる。


けれど。


「いえ……特には」

静かに答えた。


「そう……」

真尋の母は、ほっとしたように息を吐く。


「小さい頃から、言葉を覚えるのは早かったんだけれど……どこで覚えたのか……」



「いつも泣きながら、そんな事を言っていたのよ」

俯きながら語る。



「だから診察してもらったら……福祉手帳を、って言われて……」



(なるほど……)

凪は心の中で呟いた。


真尋の“生きづらさ”。


学校での周囲の反応。


全部が少しずつ繋がっていく。


「大丈夫です」

凪は、優しく微笑んだ。



「真尋さん、意外としっかりしてますよ」


「本当に?」


「はい」

凪は、少しだけ考える。


そして。


「優しくて……」



「とても気遣いのできる人です」

その言葉に。



真尋の母は、静かに目を細めた。


「あら……」

意味深な笑み。


「あなた、もしかして……」


「はい?」

凪はきょとんと聞き返す。


けれど。


「……いいえ」

真尋の母は、くすっと笑った。


「何でもないわ」



「ふふふ」



「いつかわかる日が来るわ」

そう言って、紅茶を飲む。


そして。


しばらく、色々な話をしているうちに——


勢いよく客間の扉が開いた。


「ふっかーつ!」

元気いっぱいの声。


時計を見ると、一時間半ほど経っていた。


「真尋!」

母の声が飛ぶ。


「はしたない!」



「お客様の前でしょう!」



「うっ……!」

真尋が固まる。


「ご、ごめんなさい……」

さっきまでの勢いが、一瞬でしぼんだ。


時刻は、午後二時三十分過ぎ。


「そろそろ出かけるのかしら?」

真尋の母が尋ねる。


「はい」

「うん!」

二人の返事が重なった。


「あら」

真尋の母が楽しそうに笑う。


「息までぴったりね」


「……っ」

真尋が少し照れる。

凪も、なんとなく視線を逸らした。


「有馬さん、用意はできてます?」


「はい、こちらに」

有馬が一歩前へ出る。


その手には、上品な箱。


中には。


綺麗にカットされた果物。

さらに、小さな食用花まで添えられていた。

まるで高級店の贈答品みたいだった。


「うん、良いわね」

真尋の母が頷く。


「じゃあ、包みをお願いします」


「かしこまりました、奥様」

有馬は慣れた手つきで、その場でラッピングを始める。


無駄のない動き。


あっという間に、綺麗な包みへ変わった。


そして。


「どうぞ」

凪へ差し出される。


「あの……これは?」


「お見舞いの品よ」

真尋の母が優しく言った。


「真尋のスマホのお礼と思って、受け取ってください」


「……はい…ありがとうございます」

凪は丁寧に頭を下げる。


「車も出すから、乗って行ってちょうだい」

にこやかに続ける真尋の母。


「ありがとうございます」


「お母様ありがとう!」

真尋が嬉しそうに言う。


「これくらい、お安い御用よ」

真尋の母は笑った。


「有馬さん、車まで案内してあげてください」


「かしこまりました」

有馬が扉を開く。


「では、こちらへ」

玄関へ向かう。


後ろから。


「行ってらっしゃい」

真尋の母の優しい声。


「行ってきます」

二人は振り返り、そう返事をした。


◇◇◇


屋敷の外。

停まっていた車を見て。

凪は固まった。


「……長い」

短めではある。


だが。


リムジンだった。


「えへへ」

真尋が少し得意げに笑う。


「これ、お出かけ用」


「お出かけ用なんだ……」

感覚がもう違う。


有馬がドアを開ける。


「どうぞ」


「ありがとうございます……」

恐る恐る乗り込む凪。


ふかふかだった。


座席が、ふかふかだった。


そのまま静かにドアが閉まる。


そして。

車は病院へ向けて発車した。


◇◇◇


二人が出発した後。


屋敷の書斎。

真尋の母が、窓の外を見ながら小さく呟く。


「凪さん……いい子だったわね」

紅茶を一口。


「いつか、お嫁さんになってくれないかしらね…ね? 有馬さん」


近くに立つ有馬は、少し間を置いて答えた。

「……お坊ちゃま次第かと」


「はぁ……」

真尋の母は、困ったように笑う。


「あの子の目……本人が気づいてない感じなのよね……」

そんな会話が。


静かな書斎で交わされていたらしい。


車で病院までは、あっという間だった。

静かに減速し。

リムジンは、そのまま地下駐車場へ入っていく。


「VIP用駐車場へ向かいます」

運転手が落ち着いた声で言った。


(車両が大きいから……だよね?)

凪はそう思う事にした。


駐車場には。


黒塗りの高級車が何台も停まっている。


さらに。

警備員まで常駐していた。


「……すごい」

思わず小さく呟く。


車が停車する。


運転手がドアを開けた。


「こちらに入口がございます」


「ありがとうございます」

凪が頭を下げる。


「お帰りの際も、お屋敷までお送りいたしますので、私はこちらで待機しております」


「よろしくお願いします」

そして二人は病院の中へ入った。


◇◇◇


総合受付。


白い照明。


静かな空気。


消毒液の匂い。


「あの……」

凪が受付へ声をかける。


「個室の風間さんに会いに来たのですが……」


「少々お待ちください」

受付スタッフが確認を取る。


その間。

真尋は、ずっと凪の服の裾を掴んでいた。


さっきまでとは違う。

静かだった。


というより。

病院そのものが怖いみたいだった。


「……確認が取れました」

受付スタッフが顔を上げる。


「こちらに面会人数と、代表者様のお名前をお願いいたします」


「はい」

凪が記入する。


「こちらで……」

用紙を返す。


「ありがとうございます」


「お部屋はお分かりになりますか?」


「はい、七階ですね」


「はい、左様でございます」


「ありがとうございます」

受付を離れる。


そのままエレベーターへ向かった。


◇◇◇


エレベーターの中。

静かだった。

数字だけが変わっていく。


凪は隣を見る。


真尋はまだ、服の裾を掴んでいた。


「……大丈夫?」

優しく聞く。


「うん……」

真尋は小さく頷いた。


「病院苦手で……」


「人沢山だし……」


「あと、あの匂いもするから……」


「そっか……」

凪は少しだけ考えて。


「無理そうになったら教えて」


「うん……ありがとう……」


数字が上がっていく。


5……


6……


7……



ピンポン。


『七階です。ドアが開きます』

電子音が響く。



扉が開いた。


「えーと……753室は……こっちかな?」

凪が案内表示を見ながら歩こうとする。


「違う……」

真尋が小さく言った。


「こっちだよ」


指差す。


「あれ、詳しいね」


「……だって、よく来るから」

少し俯きながら歩く。


「来たくないけど……」


「そうなんだ。診察?」


「うん……」

少し間。


「あと、おじいちゃんが院長……」


「……え?」

凪が固まる。


真尋はそのまま歩いていく。


「早く行こ……」


そして。


小さく袖を引っ張った。


テクテクと廊下を歩く。

真尋は、まだ凪の服の袖を掴んだままだった。


「逆から行くと、遠回りになって時間かかる……」


「なるほどね」

凪は周囲を見渡す。


「確かに、この病院ショッピングモールみたいに広いからね……」

苦笑いする。

すると。


「地下に……ショッピングセンターある……」


「え?」

凪が思わず立ち止まる。


「どんだけ大きいの、この病院……」


「入院に必要な物って、保険適用外のが多いから……」

真尋がぽつぽつ説明する。


「貸し出しより、購入した方が安い事もあるの……」


「オムツとか、寝巻きとか、肌着とか売ってる……」


「へぇ……」

本当に小さな街みたいだ。


そんな話をしているうちに。


目的の病室へ辿り着いた。



753室。



凪がコンコンとノックする。


「どうぞー」

中から風間さんの声が聞こえた。


横引きの扉を開ける。


広い個室だった。


大きめのベッド。

テレビ。

小さな冷蔵庫。


窓際にはソファまで置いてある。


「こんにちは、風間さん」


「あらまぁ!」

風間さんが嬉しそうに顔をほころばせた。


「来てくれたの? 凪ちゃんに真尋ちゃん!」


「うん!来たよ!」


さっきまで怯えていた真尋が、ぱっと明るくなる。


「あの……お見舞いです」

凪が、果物の箱を差し出した。


「あらまぁ、こんなに?」

風間さんが受け取る。


「ありがとうねぇ……」

蓋を開ける。


「とても綺麗に盛り付けてあって、食べるのが勿体ないわねぇ」

ニコニコと笑った。


すると。


「食べさせてあげる!」

真尋が身を乗り出した。


「あらまぁ、ありがとう」

箱の中に入っていた使い捨てフォークを取る。


マンゴーを刺して。


風間さんの口元へ。


「あーん……どう?」


「ん〜!」

風間さんが目を細める。


「美味しい!」


「食べきれないから、三人で食べましょ?」


「わーい!いちご食べる!」

子供みたいに喜ぶ真尋。


「ふふふ」

風間さんが今度はいちごを取る。


「じゃあ……はい、あーん」


「んーっ!」


真尋が頬を緩める。


「あまあま!」


その姿に。

凪も自然と笑ってしまう。

「凪ちゃんは? どれ食べる?」


「じゃあ……りんごで……」


すると。



「はい」

真尋がフォークを差し出してきた。


「凪ちゃん、あーん」


「……っ」

一瞬固まる。


風間さんがニコニコ見ている。


断れる空気じゃない。


「……ありがとう」


小さく口を開ける。


シャクッ。

りんごの甘さが広がった。


「……美味しい」


「でしょー!」

満足そうに笑う真尋。


その笑顔を見ながら。

凪は、自分の顔が熱くなっている事に気づいていた。


恥ずかしい。


でも。

少し嬉しい。

そんな感情が入り混じって。


凪は、なんとも言えない気持ちになっていた。


「こんなに騒いで、他の部屋に迷惑にならないの?」

凪が小声で聞く。


すると。


「大丈夫!大丈夫!」

真尋が元気よく答えた。


「この部屋、完全防音だから!」


「そうなの?」

凪が驚く。


「それならテレビも気兼ねなく観れるわねぇ」

風間さんも楽しそうに笑った。


そのまま。


二人の会話はどんどん弾んでいく。


「そうそう」

風間さんが、ふと思い出したように言った。


「これこれ、凪ちゃんに渡しておかないと……」

ベッド横の棚。


鍵付きの引き出しを開ける。


中から取り出されたのは、鍵束だった。


家の鍵。

車庫の鍵。

古そうな鍵。

色々付いている。


「これ、預けておくからお願いしますね」

凪は、そっと受け取った。


「はい」

静かに頷く。


「風を通しに行きますね」


「ええ」

風間さんが優しく微笑む。


「二人で好きに使ってちょうだいね」


「なになに?」

真尋が身を乗り出した。


「それ何?」

不思議そうな顔。


「私が入院してる間にね」

風間さんが説明する。


「家と社の空気の入れ替えをお願いしたいのよ」


「家って、人の出入りが無くなると……」


「案外、あっという間に朽ちちゃうからねぇ」

その言葉を聞いた瞬間。


「えーっ!」

真尋が大きな声を上げた。


「あの可愛いお家が!?」


「嫌だ!」


「毎週行かないと!」

本気で焦っている。


「ふふふ」

風間さんが楽しそうに笑った。


「無理しなくていいのよ?行ける時に、たまにでいいから」


「でも!」

真尋はむぅっと頬を膨らませる。


「あのお家、すごく好きなんだもん……」



「社も、静かで綺麗だったし……」

その言葉に。

凪は、少しだけ驚いた。


真尋は“人”だけじゃない。


“場所”にも、ちゃんと心を寄せている。


だから。


あんなに一生懸命、写真を撮るのかもしれない。

そんな事を、凪はぼんやり思っていた。


「来週から投薬らしいわ……」

風間さんが、自分の髪をそっと触る。


「髪の毛、抜けちゃうかしら?」

少しだけ不安そうだった。


すると。


「んー……」

真尋が考え込む。


「体質によるから、その時による!」


意外としっかりした返答だった。

凪は少し驚く。


真尋は。


病院が苦手なわりに。

医療に関する知識だけは、妙に自然だった。


何度も通ってきたからなのかもしれない。

そんな事を考えていると。


コンコンコン。

扉がノックされた。


「はーい!どうぞー!」

真尋が返事をする。


入ってきたのは。

スーツ姿の男性だった。


三十代後半くらいだろうか。

眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の人。


「来客中でしたか」


「大丈夫ですよ」

風間さんが答える。


男性はこちらへ歩いてきた。


そして。


「この子達が例の……ですか?」


「そうよ」

風間さんが頷く。


「じゃあ……お願いできるかしら?」


「わかりました」


男性は軽く会釈する。


「えっと……凪さんはどちらの方ですか?」


「私です……」

凪が手を挙げる。


「了解しました」


男性は鞄から書類を取り出した。


「では風間さん…ちょうどご本人達もいらっしゃいますし、書いちゃいましょうか」


「お願いします」


どうやら。


この男性は。

司法書士と弁護士、両方の資格を持っているらしい。


風間さんの昔からの知り合いだという。


机の上へ、次々と書類が並べられる。


「今回は主に」

男性が淡々と説明する。


「遺言書の作成と、贈与税関連の確認になります」


その言葉に。

病室の空気が、少しだけ静かになった。



“遺言書”。



その響きは。



やっぱり重い。



真尋も、さっきまでの明るさが少しだけ薄れていた。


けれど。

風間さん本人は、どこか穏やかだった。


「そんな暗い顔しないの」

風間さんが笑う。


「人ってね、いつか必ず死ぬのよ?だから、残せるうちに整理するの…それだけ」


まるで。

明日の天気でも話すみたいに。

穏やかに言った。


凪は、鍵束をぎゅっと握る。


真尋は。

俯いたまま、小さく風間さんの服の裾を掴んでいた。


書類が、机いっぱいに広げられていく。


契約書。

説明書。

確認書類。

どれも正式なものばかりだった。


スーツの男性——弁護士兼司法書士は。

慣れた手つきで、淡々と書き進めていく。


「こちらは生前贈与の範囲調整ですね、こちらは維持管理目的の委任関連になります。固定資産税の件もありますので……」


専門用語が飛び交う。

凪と真尋は。

完全に置いていかれていた。


「……」

「……」

二人でぽかんとしている。


そんな様子を見て。

風間さんがくすっと笑った。


「わからないわよねぇ」


「はい……」

凪が素直に頷く。


「さっぱりです……」


「わたしも……」

真尋も小さく手を挙げた。


弁護士の男性は、少しだけ表情を柔らかくした。


「簡単に言いますと」

書類を軽くまとめながら説明する。


「税金などで、皆さんが困らないよう整理しているんです」


「なるほど……」

凪はなんとなく理解した。


どうやら。


“家を渡す”。


それだけでも、色々な問題があるらしい。


「本来なら相続人がいるんですが……」

男性が静かに言う。


「風間さんの場合、ご親族関係がかなり整理されておりますので、今回は比較的スムーズですね」


「ふふふ」

風間さんが笑う。


「天涯孤独ってやつね」

軽く言っているが。

その言葉は、少し寂しかった。


「でもね」

風間さんが二人を見る。


「最後に、大切にしてくれる人へ渡せるなら」


「私は、その方が嬉しいの」

真尋は黙って聞いていた。


そして。


「……ちゃんと、風通すからね」

ぽつりと呟く。


その言葉に。


風間さんは、優しく目を細めた。


「ええ、お願いね」

窓の外では。


少し傾き始めた陽の光が。


病室を、柔らかく照らしていた。


「はい……書面は以上ですね」

スーツの男性が、書類を丁寧にまとめる。


「ありがとうございます……」

風間さんが頭を下げた。


男性は鞄へ書類をしまいながら。


少しだけ表情を柔らかくする。

「少しでも長生きされる事を願っています」


「ありがとうございます」

その言葉を残し。


男性は静かに病室を出ていった。


扉が閉まる。

部屋に少しだけ静寂が落ちた。


そして。


「……そんなに悪いの?」

真尋が、小さな声で聞いた。


さっきまでの元気な声じゃない。

不安そうな声だった。


風間さんは少し考えてから。


「少しね……」

穏やかに答える。


「ステージ4になりかけてるわ」

その言葉に。

空気が重くなる。


真尋は俯いた。

小さく唇を噛む。


「……きっと」

ぽつり。


「きっと! 大丈夫!」

無理やり明るくした声。


「あっ!」

突然、何かを思い出したようにポーチを漁る。


「これ、あげるんだった!」

取り出したのは。

小さな写真立てだった。


「……あら?」

風間さんが受け取る。


中に入っていたのは。


あの日の写真。


虹の下。


風間さん。

凪。

そして真尋。

三人が一緒に写っていた。


雨上がりの光。


大きな虹。


少し照れた凪。


満面の笑顔の真尋。


それを見た瞬間。

風間さんの目が、少し潤んだ。


「……綺麗」

優しく呟く。


「お気に入りの一枚なの!」

真尋が嬉しそうに言う。


「だから風間さんにも持ってて欲しくて!」

風間さんは。

写真立てを胸元へそっと抱き寄せた。


「ありがとう……」


静かな声だった。


でも。


とても嬉しそうだった。


その横で。

凪は、少しだけ窓の外を見る。


空は晴れていた。

けれど。

真尋の笑顔の奥にある不安を。


ちゃんと感じ取っていた。


『本日の面会時間は終了となります——』



館内放送が静かに響く。



病室の外も、少しずつ慌ただしくなっていた。


「はぁ〜……」

真尋がしょんぼり肩を落とす。


「もう時間かぁ……」

そして。


「おじいちゃんに言って、延ばしてもらおうかな……」


ぽつり。


すると。


「いや、色々まずいでしょ……」

凪が苦笑した。


「あはは、確かに!」

風間さんも笑う。


そして。


「あらまぁ」

少し驚いた顔をする。


「院長先生のお孫ちゃんだったの?」


「うん!」

真尋が元気よく頷いた。


「院長先生とは、小学校から一緒だったのよ」


風間さんが懐かしそうに目を細める。


「だから安く、この部屋貸してくれたの」


「へぇ〜……」

凪は少し驚いた。


風間さんと院長。

そんな昔からの知り合いだったらしい。


すると。

真尋の目がきらりと光る。


「ねぇねぇ!おじいちゃんの秘密とか知らない?」

急に探偵みたいな顔になる。


「ふふふ」

風間さんが笑う。


「院長先生の秘密ねぇ……」

少し考える。


「あー……」


そして。


「院長先生、ドールハウス好きだったわねぇ」


「えっ」

凪が固まる。


「ふふふ」

風間さんが楽しそうに笑う。


「よく一緒に遊んだわ」


「えぇぇ!?」

今度は真尋が驚いた。


「おじいちゃんが!?」


「小さい家具とか、ミニチュア並べたりするの好きだったのよ…器用だったわねぇ」


「ま、待って……」

真尋が頭を抱える。


「白衣で難しい顔してる、おじいちゃんしか知らない……」


その横で。

凪は想像してしまった。


幼い頃の院長先生が。


小さなドールハウスを真剣に組み立てている姿を。


「……可愛いかも」

ぽつりと漏れる。


「凪ちゃんまで!?」

真尋がツッコミを入れた。


病室に。

再び笑い声が広がった。


「では、失礼しますね」

凪が頭を下げる。


「ありがとうね、また来てね!」

風間さんが手を振った。


「はい! 必ず来ます!」

真尋も大きく手を振る。


病室を出る直前まで。


何度も振り返っていた。

そして。

扉が静かに閉まる。


病室に、静けさが戻った。


「ふぅ……」

風間さんは小さく息を吐く。


「賑やかだ事……」

窓の外を見る。


夕方の光が差し込み始めていた。


「これも、あとどれくらいあるかな……ふふふ」

少し寂しそうで。


でも、どこか満たされた笑みだった。


コンコンコン。


「どうぞ……」

入ってきたのは。


白衣のおじいさん。

この病院の院長だった。


「おや?」

カルテを見ながら近づく。


「顔色良いね、風間さん」


「えぇ」

風間さんが微笑む。


「可愛いお客さんが来てたからね……」


「おおお、それは良かったわい」

院長は聴診器を耳へかける。


「はい、口開けてー」


「……あー」


「はい、いいよ」


次は血圧計。

シュルル……と空気が入る音。


「……」


「ははは」

院長が笑った。


「ちょっと高いね、血圧」


「脈も早い」


「ついさっきまで、楽しく……」

風間さんが目を細める。


「あなたのお孫さんとお話ししてたからよ……」


「真尋かい?」


「えぇ」

風間さんは優しく笑った。


「真尋ちゃん……とっても可愛い子ね」


「気づかいできて……優しい……」


「どうやら恋してるわね……本人、気づいてないけど……」

院長は少し驚いた顔をした。


「……そうかい」

静かに椅子へ腰掛ける。


「心配してたが……そうか……」


「あの真尋がね……」

昔を思い出しているような声だった。


風間さんは。

枕元の写真立てを見る。


虹の写真。


そこに写る、二人。


「彼女さんに、私の全部を託すつもりだから……もし困ってる様だったら、助けてあげて欲しいわ……」

院長は少しだけ笑った。


「……孫息子の嫁さんとして来るならな」


「ははは」


「ふふふ……」

風間さんも笑う。


「なりますよ……そんな気がするの……」

病室の窓の外。

夕焼け色へ変わり始めた空

二人は静かに見つめていた。


車は静かに屋敷へ戻ってきた。


夕方。


空は茜色へ変わり始めている。

車が止まると。


「ただいまー!」


真尋が元気よく飛び出した。

すると玄関扉が開く。


「おかえりなさいませ、お坊ちゃん」


有馬さんが深く一礼した。


「真尋、帰ってきたの?」

奥から母の声。


「うん! お母様ただいま!」

元気いっぱいに返事をする真尋。


そして。


「凪ちゃんはどうする?」


真尋の母が凪へ視線を向ける。


「お家まで車で送りましょうか?」


「!……い、いえ!……大丈夫です」


凪は慌てて手を振った。


すると。


「あらそう?」

真尋の母は少し考える。


「でも女の子ひとりで歩くのは危ないわよ?ボディガード付けましょ! そうしましょ!」


「い、いえ! あの……」

凪が慌てる。


だが。


「真尋!」


「凪ちゃんを、ちゃんとボディガードとしてお家まで送ってあげなさいな!」


「!」

真尋の顔がぱぁっと明るくなった。


「はーい!わーい! もう少しだけ凪ちゃんと居られる!」

ぴょこぴょこ跳ねそうなくらい嬉しそうだった。


その姿に。

凪は少しだけ笑ってしまう。


「……私が守る側じゃ……」

小さく呟く。


すると。


「ん?」

真尋が首を傾げた。


「なんでもない」


「そっか!」

真尋は特に気にしていない様子だった。


有馬さんが、そっと二人へ近づく。


「では、お坊ちゃん」


「こちらを」

差し出されたのは、小さな防犯ブザー。


「夜道ですので、お気をつけください」


「ありがとう!」


真尋は受け取ると。


そのまま凪のバッグへ入れた。


「これで安心!」


「いや、そういう問題じゃ……」

苦笑する凪。

そんな二人を見ながら。

真尋の母は、どこか嬉しそうに微笑んでいた。


「何時でも遊びに来てね」


玄関前。


真尋の母が、優しく微笑みながら送り出してくれた。


「はい!また来ます!」

凪が頭を下げる。


門が閉まる。


その直後。

真尋の母の表情が変わった。


「影野……」


「……はい」

音もなく現れた黒服の男。


屋敷の護衛。


「真尋達を守りなさい……」


「バレないでね」


「は!」

短い返事。


執事達は。

主を守るために動く。


それが仕事だった。



二人きりの帰り道。


夜風が少し涼しい。


「スマホありがとう……」

真尋が小さく言った。


「うん……」

凪は少し照れながら答える。


「連絡先、私のは登録してあるから……メールして」


「何時でもいいよ……」


「うん!ありがとう!」

お互い少し照れてしまう。


沈黙が、変に恥ずかしい。

だから真尋が、また話し始めた。


「風間さんにも、また一緒に会いに行こ!」


「そうだね……時間のある限り、会いに行こうね……」


「たま、おにぎりとサンドイッチ作って、風間さんに食べてもらう!」


「うん、風間さんきっと喜ぶよ」


ふふふ。

二人で笑い合う。


気がつけば。

辺りはすっかり夜だった。


街灯が並び。

道路をオレンジ色に照らしている。


真尋はデジタルカメラを取り出した。


カシャ。


「この瞬間って、今しかない事だから……」


「大切にしたい……」

その言葉は。

どこか儚かった。


そして。


凪の家へ到着する。


「またね! バイバイ!」

真尋は名残惜しそうに手を振る。


そして。

来た道を、小走りで帰っていった。


姿が見えなくなるまで見送ってから。


凪は家へ入る。


「ただいま……」


「あら、おかえり!」

母の明るい声。


「一回部屋で休む……」


「はーい!ご飯出来たら呼びに行くわね!」


「うん……お願い」

階段を上がり、自室へ。


ふと。


窓を開けた。


夜風が入る。


「ちゃんと帰れてるかな……」

その時だった。


ピーピーッ!


遠くで。

微かに、防犯ブザーの音が聞こえた。


「……ん?」

耳を澄ます。


誰かの怒鳴り声。

何か揉めている音。

嫌な予感がした。


「母さん!ちょっとコンビニ行ってくる!」


「え!?もうご飯できるよ!?」


「帰ったら食べる!」

凪は飛び出した。


玄関を開ける。


夜の空気。


「くっ……仕方ない……」

地面を蹴る。

ジャンプ。

屋根へ飛び乗った。


「まだ聞こえる……」

防犯ブザー。

屋根から屋根へ。


音の方向へ飛び移る。


風が頬を裂く。


そして。

グチャリ。

何かを踏み潰す音。


同時に。

防犯ブザーの音が止まった。


ブォォン!!


車のエンジン音。


急加速。


凪は着地する。


そこには。

砕けた防犯ブザー。


そして。


倒れている人影。


「っ……!」


視界の先。


まだ逃げ切れていない車が見えた。


「まだ間に合う……!」


深呼吸。


肺へ空気を詰め込む。


「音速なら……体は二秒持つ!」

地面を蹴る。

世界が一瞬で引き伸ばされた。


三百メートル。

約一秒。

景色が線になる。


「くっ……!」


減速していた車へ追いつく。


回し蹴り。


ドゴォン!!


車体が横転しかけながら反転した。


エアバッグが作動する。


タイヤが悲鳴を上げる。


「真尋!!」

ドアをこじ開ける。


そこには。

手足をロープで縛られ。

シートベルトで固定され。


口へ布を噛まされた真尋がいた。

涙を流し。

震えていた。

凪は急いでロープを切る。

布を外す。


「っ……ぁ……っ……」

声にならない。


ヒクヒクと泣いていた。


「もう……大丈夫だよ……」

そっと抱き締める。

真尋の体は。


小刻みに震えていた。


凪は真尋を抱えたまま。


車のタイヤを蹴り潰す。


さらに。


全てのドアが開かないよう。


変形するほど蹴りを叩き込んだ。


犯人達は、もう出られない。


そして。


凪は真尋を抱え。


自宅へ向かって走り出した。


腕の中から。


プルプルと震えが伝わってくる。


真尋はまだ。


恐怖の中にいた。


「ただいま……」

玄関扉が開く。


「凪! ご飯前にお菓子は駄目よ!」


少しムッとした顔で。

母が出迎えた。


けれど。


次の瞬間。


凪に抱えられている真尋を見て、固まる。


「凪!?」


「猫だけじゃなく、女の子まで拾ってくるなんて!」

そして。

真尋の顔を見る。


涙でぐしゃぐしゃだった。


「あら……?泣いてるの? どーしたの?」

凪は、一瞬言葉に詰まる。


誘拐。


襲撃。


音速。


全部説明できるわけがない。


「……コンビニ行く途中で、車にひかれかけて、泣いてたから拾ってきた」

かなり苦しい言い訳だった。


「……そう……」

母は少しだけ怪しそうな顔をしたが。

深くは聞かなかった。


「ソファーにでも座らせたら……」


「うん……」

凪は、しがみついたまま離れない真尋を。


そっとソファーへ下ろす。

だが。

真尋の手は、服をぎゅっと掴んだままだった。


「……大丈夫だよ」

凪が優しく言う。


その声に。

真尋は小さく頷いた。


すると。


母が洗面所から戻ってくる。


手には。

お湯で湿らせたハンカチ。


「はいはい、顔拭こうね〜」

優しい声だった。


真尋は少しびくっとしたが。


抵抗はしなかった。

母は、涙で濡れた頬を。


優しく拭いていく。


「怖かったねぇ……」

その言葉で。

真尋の目に、また涙が浮かぶ。


「ぅ……っ……」

声を押し殺すように泣く。

凪は、その姿を見るのが辛かった。

母は、真尋の頭を撫でる。


「大丈夫、大丈夫」


「ここは安全だからね」

まるで小さな子をあやすみたいに。


優しく。


静かに。


その様子を見ながら。

凪は、強く拳を握っていた。


——あと少し遅かったら。


そう思うだけで。


背筋が冷たくなる。


そして同時に。

自分の中にある、怒りにも気づいていた。


「真尋……」

凪は、できるだけ優しい声で聞いた。


「お家の電話番号、わかる?」


「……」

真尋は無言のまま頷く。


そして。


ポーチをごそごそ探り。


福祉手帳を取り出した。


そこに挟まれていた紙を指差す。


「借りるね……」

凪は番号を確認しながら電話をかけた。


プルルル……



プルルル……



ガチャ。



「……はい」



低く落ち着いた声。



有馬さんだった。



「もしもし、凪です」



「あぁ、凪様!」



「どうなさいましたか?」



凪は少し息を飲む。



「真尋が……攫われかけました」



「——なんですと!?」



声色が変わった。



「奥様! 奥様!!」



受話器の向こうが騒がしくなる。



微かに聞こえた。



「影野は!? 影野は何やってたの!!」



「早く連絡取りなさい!!」



真尋の母の、取り乱した声だった。



すぐに。



再び受話器越しに声が聞こえる。



「もしもし!? 真尋の母です!」



「真尋は!? 怪我は!?」



凪は、真尋を見る。

まだ震えている。



けれど。



目立つ外傷は無かった。



「大丈夫です……今の所、目立った怪我はありません」



「あぁ……良かった……」



受話器越しに、安堵した声が漏れる。



「ただ……」



「相当怖かったみたいで……喋れないです」



「あと、影野さんかは分かりませんが、男の人が倒れてました」



「犯人は、車に閉じ込めてあります」



一瞬。

電話の向こうが静かになった。


「……わかったわ」


低い声だった。


「真尋を助けてくれて、ありがとう……」


その直後。

受話器を押さえたのか。


向こうの声が少し遠くなる。


だが。

凪には聞こえてしまった。


「今すぐヘリで現場に行きなさい!」


「影野は病院へ搬送……!」


「誘拐犯は、言うまでもないわね?」


「かしこまりました!」


……なんだか。

かなり危ない会話が聞こえた気がする。


凪は少し引きつった。


そして。



「もしもし? 凪さん?」



再び真尋の母の声。



「お父様かお母様、いらっしゃいますか?」



「はい……今、母が真尋を看病してくれてます」



「じゃあ、ちょっと代わってくださる?」



「はい……」



凪は受話器を差し出す。



「母さん、その子のお母様が話したいって……」



「え!? あたし!?」



少し慌てながら受け取る母。



「もしもし! 初めまして!」



そこから。



母親同士の会話が始まった。



凪には内容までは聞こえない。



けれど。



時々。



「まぁ……」



とか。



「そんな……!」



とか。



驚いた声が聞こえてくる。



その間。



ソファーでは。



真尋が、まだ凪の服の裾を掴んでいた。



離したら。



また怖い目に遭う気がするのかもしれない。



凪はそっと。



その小さな手を握り返した。


母親同士の話し合いの結果。



今夜は。


真尋が、凪の家へ泊まる事になった。


流石に。


今の精神状態で、一人にするのは危険だろうという判断だった。



そして。


電話の途中で。

真尋が男の子だという事も伝わったらしい。


「じゃあ、お風呂は……」


凪の母が考える。


「お父さん帰ってきたら入れてもらいましょうね……」


「……うん」

真尋は小さく頷いた。


絵面的には。

かなり危ない気もするが。


今はそんな事を言っている場合でもない。


「服は……」


「凪のがあるから大丈夫よね……」


「下着どうしましょ……」


「男の子用? 女の子用?」


「男の子用なら由羽のあるけど……」


「女の子用だと凪のになっちゃうわ」


「出さないで私の……恥ずかしい……」

凪が真っ赤になる。


その横で。

真尋は、ぼんやり聞いていた。


まだ少し放心状態だ。

そんな話をしていると。


ガチャ。

玄関扉が開いた。


「ただいまー!」

父親の声。


「お父さんおかえり」

凪が返事をする。


すると母が。


「あなたー! ちょっと話があるんだけどー!」

少し大きめの声で呼んだ。


その直後。


ドタドタドタ!!


小さな影が飛び込んでくる。



「とーちゃん!」


「なんか、お姉ちゃんがお姉ちゃん拾ってきた!」

元気いっぱいの小学生くらいの女の子。


凪の妹。

由羽だった。



「ややこしくなるから、ゆうちゃんは黙ってて……」

凪が頭を抱える。


「出たな! 怪獣お姉ちゃん!」


「ゆうちゃんパーンチ!」


ぽすぽす。


軽く叩いてくる。


「はいはい、お姉ちゃんの負けだから静かにね、シー……」

凪が口元へ指を当てる。


すると。

由羽は、ソファーの真尋に気づいた。


「……?」


きょとん。


「お姉ちゃんのお友達?」


「……うん」

凪が答える。


「泣いちゃったから、今日はお泊まり」


「そっか!」


由羽は、てててっと真尋へ近づいた。


そして。


小さなぬいぐるみを差し出す。


「これ貸してあげる!」

うさぎのぬいぐるみだった。


真尋は少し驚いた顔をする。


「……いいの?」


「うん!」


「泣いてる時、これ抱くとちょっと安心するから!」

子供なりの優しさだった。


真尋は。

震える手で、そのぬいぐるみを受け取る。


そして。


ぎゅっと抱き締めた。


「……ありがと」


か細い声。

でも。

ようやく出た言葉だった。


少しずつ。


本当に少しずつだが。

真尋の震えは落ち着いてきた。


温かいご飯を食べ。


ゆっくりお風呂にも入れた。


最初は浴室へ入るのも怖がっていたが。


凪の父が、冗談を交えながら優しく接してくれたおかげで。


なんとか入る事ができた。


そして。


問題は寝る場所だった。


「寝る場所どうしましょ?」

凪の母が腕を組む。


「ゆうちゃんとだと絶対寝れないし……」


「お父さんを廊下に出すのはかわいそうだし……」


ちらり。


凪を見る。


「はぁ……いいよ……部屋に布団持ってきてね……」

諦めたように言う凪。


「ありがとう! 凪ならそう言うと思ったわ!」

母は嬉しそうだった。


「なくなく承諾したんだけど……」

凪は小さくため息をつく。


そして。


ベッドには真尋。


床へ敷いた布団には凪。


そういう形に落ち着いた。


夜十一時。


部屋の電気は消えている。


窓の外からは、遠くを走る車の音。


そして。


カチ、カチ、と。


時計の秒針だけが静かに響いていた。


しばらく沈黙が続いた後。


真尋が。


呟くように話し始めた。


「……また死ぬのかと思った……」



「……」

凪は静かに聞いていた。



「楽しい世界が……終わっちゃうって……」



「……」



「悲しい事もあるけど……」



「……」



「嬉しい事も……沢山あった……」



「………」



「ぐるぐる頭の中で……思い出が流れて……寂しくなった……」

か細い声。


でも。

一言一言を噛み締めるように話している。



「怖かった……」



「……」



「動けなくなっちゃった……」



「………」



凪は。

天井を見つめながら。

静かに返事をした。


「……でも」



「……?」



「真尋は、ちゃんと生きてる」



「……」



「怖かったのに」



「助け呼ぼうとして」



「必死に生きようとしてた」



「……うん……」



「だから、大丈夫」



「……」



「私は、ちゃんと助けに行くから」

その言葉に。


真尋の呼吸が少しだけ落ち着いた。


真尋は、ぼんやりした声で考える。



「でも……」


「名前呼んでくれた時……嬉しかった……」



「……うん」



「ありがとう……」



静かな声。



それきり。



返事はなくなった。



すぅ……

すぅ……


穏やかな寝息が聞こえる。


眠ったのだ。


凪は布団の中で、小さく息を吐いた。



そして。


ベッドで眠る真尋を見る。

うさぎのぬいぐるみを抱え。

安心したように眠っていた。



「……おやすみ、真尋……」



そう呟き。


凪も静かに目を閉じた。


翌朝。



チチッ、チチッ――



窓の外から、小鳥の鳴き声が聞こえる。



薄く差し込む朝日。



凪はぼんやりと目を開けた。



そして。



ベッドの方を見る。



「……?」



真尋が。

ベッドの上で、真っ赤な顔をしてうずくまっていた。

膝を抱えて座り込み。

ぷるぷる震えている。


「……っ」


「?……どうしたの?」


「………っこ」


「ん?」


「おしっこ……漏れちゃう……」


「え!?」

凪は飛び起きた。


「こっち! 来て!」


慌てて真尋の手を引く。

真尋は小股で必死についてくる。


「ま、間に合う……かな……っ」


「頑張って!」

バタバタと廊下を走り。


トイレへ駆け込んだ。



ガチャ!



扉が閉まる。



数秒後。



……ジョボボボ……



「…………」



凪はトイレ前で天井を見上げた。


「間に合った……?」


少しして。



カチャ。



扉が開く。



真尋は。

顔を真っ赤にしたまま出てきた。


「……ありがとう……」


「だ、大丈夫だった?」


「……ぎりぎり……」

恥ずかしそうに目を逸らす真尋。


その姿に。

凪は思わず吹き出した。


「ふふっ……」


「わ、笑った!?」


「いや……ごめん……なんか安心した……」


「うぅ……」

真尋は顔を隠す。


昨日までの怯えた表情とは違う。


少しだけ。

いつもの真尋に戻っていた。


朝食の時間。



食卓には。


湯気の立つ味噌汁。

こんがり焼けた鮭。

少し甘めの卵焼き。

炊きたての白米。


そして漬け物。


どこか安心する朝の匂いが広がっていた。


昨日とは裏腹に。

真尋は、かなり元気を取り戻していた。


「おはようございます!」


ぺこり。

元気よく頭を下げる。


「あら! 元気になったのね! 良かったわ!」

凪の母が安心したように笑った。


「昨日はご迷惑をおかけしました」

真尋は改めて頭を下げる。


「いいのよ!」


「凪が拾って帰ってきただけだからね!」


「気にしないでね!」


「拾ってきたって言い方やめて……」

凪が小さく突っ込む。


すると。


「あっ!」


真尋が由羽を見る。


「ゆうちゃん! うさぎさんありがとうね!」

昨日貸してもらったぬいぐるみを抱えながら笑う。


「うん!」


「でもお姉ちゃんにあげるよ! うさぎさん!」


「いいの? 貰っちゃって?」


「うん!」

由羽は元気よく頷く。


「とーちゃんみたいにヒーローのうさぎさん!」


「ヒーロー?」

真尋が首を傾げる。


「あぁ……」

凪が味噌汁を飲みながら説明した。


「お父さん、ヒーローアクションスタントやってるの」


「あの特撮とかの……」


「なるほど……?」

真尋が父を見る。

凪の父は照れ臭そうに頭をかいた。


「まぁ、今は裏方の方が多いけどなー」


「だから格闘術とか護身術も教えてる」


「へぇ……すごい……」

真尋の目が少し輝く。


「じゃあ凪ちゃんも強いの?」


「まぁ普通くらい」


「普通じゃないでしょ……」

ぼそり。

真尋が呟く。


「ん?」


「……なんでもない」

凪は少し怪しんだが。


真尋は慌てて焼き鮭へ逃げた。


ぱくっ。


「おいしい!」


「でしょー!」

凪の母が嬉しそうに笑う。


そんな。


何気ない朝食の時間。

けれど真尋にとっては。


“また生きて迎えられた朝”だった。


だからこそ。

その温かさが。

少しだけ胸に沁みた。

朝食が終わると。


食卓には、穏やかな空気が流れていた。


「うさぎさん、しゅっぱーつ!」



「わー! まってー!」



リビングでは。



由羽と真尋が、ぬいぐるみで遊んでいる。



真尋は年上なのに。



精神年齢が近いのか。



由羽とすぐ仲良くなっていた。



うさぎのぬいぐるみを両手でぴょこぴょこ動かしながら。



「悪い怪獣だぞー!」



「きゃー!」



楽しそうに遊んでいる。


その様子を見て。

凪は少し安心していた。


昨日の怯えた姿が。


嘘みたいだったから。


一方。


凪の父は。

リビングの端で、日課の筋トレを始めていた。


「ふっ……!」



「ふっ……!」



静かな呼吸。

腕立て伏せ。

腹筋。


スクワット。

動きに無駄がない。


「お父さん毎日やってるの?」

真尋が聞く。


「んー?」

父はスクワットしながら答える。


「体鈍ると怪我するからなー」


「あと、いざって時に守れなくなるし」



「守る……」

真尋が小さく呟いた。

その横で。


キッチンでは。

母が洗い物をしていた。

カチャカチャと食器の音。


そこへ。


「手伝う」

凪が袖をまくる。


「あら、ありがとう」


自然な手つきで皿を洗い。

母がすすぎ。


凪が拭いていく。


息の合った流れだった。


真尋は。

ぬいぐるみを抱えたまま。

その様子をぼんやり眺めていた。


「……いいなぁ」

ぽつり。

小さな声。


「ん?」

凪が振り向く。


「なんでもない!」

真尋は慌てて笑った。


でも。

その目は少しだけ羨ましそうだった。


“普通の家族の朝”。


それが。


真尋には少し眩しく見えたのかもしれない。


父の筋トレが終わったタイミングで。


「ゆうちゃんパーンチ!」

由羽が勢いよく突撃した。



ぽふっ。



小さな拳が父のお腹へ当たる。



「ははは! まだまだだな!」



「くそー!」

由羽は軽々と持ち上げられた。


じたばた暴れる。


「降ろせー!」


「悪の怪獣めー!」

楽しそうな親子だった。


そんな中。

真尋が、おそるおそる口を開く。


「あの……凪お父さん……」


「んー?」


「格闘術……ううん……護身術って……ボクにもできますか?……」

その場の空気が少し静かになる。


父は由羽を肩車したまま。

真尋を見た。

「興味あるのかい?」


「……今のままだと……守ってもらってばかりで……」



「自分自身を……自分で守れたらなって………」

その声は小さい。


でも。


昨日の出来事を思えば。

その気持ちは自然なものだった。


父は真面目な顔になる。


「ふむ……そうだな……」



「元々、弱い人――特に女性が身を守るために使われているから、もちろん可能だ!」



「やる気次第だ!」

力強い声だった。


真尋の目が少し輝く。



「辛いだろうが……」



「どんな風されたか説明できるかい?」



「……はい……」

真尋は少し俯きながら話し始めた。



「えっと……まず、車が目の前に停まって……」



「びっくりして立ち止まったら……後ろから口を塞がれて……」



「慌ててブザーの紐を引きました……」

すると。


「あなた!」

母が睨む。


「デリカシーが無い事聞くんじゃありません!」


「いやいや!」

父は苦笑いした。


「実際あった話は参考になるんだよ!」

そして。


「凪、ちょいちょい!」


「ん?……」

凪が手を拭きながら近づく。


「ここに立て」

父は凪の背後へ回った。


「こんな感じか?」

後ろから口を押さえ。

取り押さえようとした――その瞬間。



ぐるんっ!



「うおっ!?」



父の身体が浮いた。



そのまま前へ投げられる。



ドサッ!



「……あ」

凪が固まる。

「ごめん……つい」



「いたたたた……」

父は起き上がりながら笑った。


「まぁ、こんな感じに」



「凪みたいな細いのでも簡単に投げられる」



「細いとは失礼な……」

凪がむっとする。


その横で。

真尋と由羽は。


キラキラした目で見ていた。


「すごい!!」


「凪ちゃんかっこいい!!」


「いや、今のは反射で……」

少し照れる凪。


そんな凪を見ながら。


真尋は。


昨夜。

自分を助けてくれた瞬間を思い出していた。


風みたいだった凪の姿


「あの!」

真尋が勢いよく身を乗り出した。


「それを使えば、車を変形させるくらいになれますか!?」


「なれますか!?」

由羽まで便乗する。


凪はビクリと肩を震わせた。


父は「あー」と笑いながら頭をかく。


「あはは! 可能だ!……って言いたいところだが…人間には難しいだろうなー」



「え?」

真尋がきょとんとする。


「でも昨日、凪ちゃんが――」


「シーッ!!」

凪が慌てて真尋の口を塞いだ。


「むぐっ!?」


「ん? 凪がどうした?」

父が首を傾げる。


凪は冷や汗を流しながら笑った。


「な、なんでもないよ!」


「幻を見たんだね……」


「むーっ!」

真尋は口を押さえられたまま抗議する。


「だって本当に――」


「シーッ!!」

さらに強めに口を塞ぐ凪。


「……?」

父は少し怪しんだが。


「まぁいいか!」

深くは追及しなかった。


ほっとする凪。


しかし。


真尋はジト目で見上げてくる。


「……後で聞く」


「聞かなくていい」


「絶対聞く」


「やめて……」

ぼそぼそ小声でやり取りする二人。



そんな様子を見て。

由羽がニヤニヤ笑う。


「お姉ちゃん達なかよしー!」


「っ!!」

真尋と凪の動きが止まった。



「ち、違うから!」


「そ、そうだよ!」



慌てる二人。


だが。


息ぴったりだった。


そんなやり取りをしていた時だった。



ピンポーン。


インターホンが鳴る。



「はーい! どちら様?」

凪の母が玄関へ向かう。


すると。


「すみません! 凪ちゃんのお宅でしょうか? 真尋の母です!」



「あー! はいはい!今開けますね!」



ガチャリ。

鍵を開ける音。


玄関には。

真尋の母が立っていた。


いつもの上品な服装。


けれど。

その表情には、明らかな疲れと心配が滲んでいた。


「この度は、ご迷惑おかけしてすみません……」

深く頭を下げる。


「いえいえ!」


「こちらこそ、うちの子がお世話になってます!」


「同じ部活の子とお聞きしてます!」

凪の母も慌てて頭を下げ返す。


「あ! お母様!」

真尋がぱたぱたと走る。


そして。


ぎゅっ。

母へ抱きついた。

「……ごめんなさい……」

震える小さな声。


真尋の母は。

優しく抱き締め返した。


「無事で良かったわ……」


「痛い所とかない?」



「うん! 平気!」



「そう……」



その瞬間。

真尋の母の肩から。

少しだけ力が抜けた。


昨夜から。

ずっと気を張っていたのだろう。


そんな二人を。

凪は少し離れた場所から見ていた。


すると。


真尋の母が、ふと顔を上げる。


そして。


凪へ向かって頭を下げた。


「本当に……ありがとう」


「あなたが居なかったら……」


「真尋は今頃……」


そこから先は言わなかった。

言えなかった。


凪も。

静かに首を横へ振る。


「間に合って良かったです」

その言葉に。

真尋の母は、少しだけ目を細めた。


「……真尋」


「はい?」


「いいお友達ができたわね」


「うん!」

真尋は満面の笑みで答えた。

その笑顔を見て。

凪はようやく。


“助けられて良かった”


そう心から思えた。


リビングに。



緑茶とお茶菓子が運ばれてきた。


湯呑みから立つ湯気。

ほんのり甘い和菓子の香り。


「少し……凪ちゃんとお話してもいいかしら?」

真尋の母が静かに言う。


「はい、もちろん!」


凪の母は察したように頷いた。


「ほら、真尋ちゃん、ゆうちゃんと遊びましょ?」


「うん!」


「わーい!」

由羽が真尋の手を引っ張っていく。


父も空気を読んだのか。


「じゃあ俺は洗車でもしてくるかなー」

そう言って外へ出ていった。

静かになるリビング。


向かい合う。


凪と、真尋の母。


少しの沈黙。


そして。



真尋の母が口を開いた。


「あの後の事……少し聞いたわ」


「……はい」



「倒れていた方……影野だったそうね」

凪は静かに頷く。



「背後から殴られて、脳震盪を起こしていたそうよ」



「命に別状はないみたい」



「そうですか……良かった……」

凪は少し安心した。


あの時。


倒れている人影を見た瞬間。


“護衛の人だ”と察していた。


「それと……」

真尋の母の声が少し低くなる。



「約300メートル離れた場所で……パンクした車が見つかったわ」



「中には男が4人」



「車内に閉じ込められた状態で暴れていたそうよ」

凪の指先がぴくりと動く。


「……」


「警察の話では」



「院長先生の孫を攫って、身代金を要求するつもりだったみたい」



「かなり前から計画していたそうよ」

静かな怒りが混じった声だった。


「誤算は……」



「凪ちゃんが、ずっと真尋の近くに居たこと」



「……」

凪は何も言わなかった。


言えなかった。


“ずっと近くにいた”どころではない。


あの瞬間。


人間離れした速度で追いつき。


車を蹴り飛ばした。


普通ではない。


絶対に。


知られてはいけない。


真尋の母は。

じっと凪を見る。


まるで。

何かを確かめるように。


「……犯人達が、その後どうなったかは聞いてないわ」



「聞かない方がいいとも思ったし」



「そう……ですね」

緑茶をひと口飲む。

少しだけ苦かった。


そして。


真尋の母は。


ふっと表情を和らげた。


「でもね」



「真尋を助けてくれた事だけは、本当に感謝してるの」



「ありがとう」

深く頭を下げる。


凪は慌てた。


「や、やめてください!」



「そんな……当然の事をしただけですから……」



「その“当然”ができる人は少ないのよ」

真尋の母は優しく笑った。


その言葉に。

凪は少しだけ。

胸が苦しくなった。


もし。


本当の事を知ったら。

この人は。

どんな顔をするのだろうか。


少し空気が落ち着いた頃。

凪は、先ほどの事を思い出した。


「あの……」



「さっき真尋さんが、護身術を習いたいって言ってました」



その言葉に。

真尋の母は、少し驚いた顔をした。


「……そう」


そして。

どこか優しく微笑む。


「あの子なりに……強くなろうと思ってるのかもしれないわね……」


湯呑みを両手で包み込む。

静かな声だった。


「確かに、あの子は一人で行動させるようにはしているの」



「でも……」

少し間を置く。



「ここからは秘密ですよ?」



「……はい」

凪も自然と声を潜めた。



「あの子には、常にボディガードを付けています」


「……え?」


「そう、貴女と二人でお出かけした日も」


「……」

凪の動きが止まる。


(まさか……観られてた?)

頭の中に。


あの日の光景がよぎる。


風。


魔法陣。


虹。


もし見られていたら。

かなりまずい。


だが。

真尋の母は、特に変わった様子もなく続ける。


「あの日、貴女達が出会った人」


「あの子のおじいさんの親友なの」



「はい……昨日知りました」



「あら、知ってたの?」



「はい……」


(……どうやら、あれは見られてた訳ではなさそう)

凪は心の中で、そっと息を吐いた。


真尋の母は続ける。


「影野達は、必要最低限しか干渉しないの」



「危険が無い限り、あの子の自由を優先してるわ」



「じゃないと……」

少し寂しそうに笑った。


「あの子、籠の鳥みたいになってしまうから」


その言葉に。

凪は静かに頷く。

真尋は自由だった。


不思議を追いかけ。


写真を撮り。


笑って。


泣いて。

転びながら前へ進む。

だからこそ。

今の真尋があるのだろう。


「でもね」

真尋の母は、凪を見る。


「昨日の事で、流石にあの子も怖かったみたい」


「だから、“強くなりたい”って思ったのかもしれないわね」



「……そうですね」

凪は、小さく微笑んだ。


“守られるだけじゃ嫌”。


きっと。


それは真尋なりの前進だった。


真尋の母との話は、一度そこで区切りになった。


「じゃあ、そろそろお暇しますね」



「そんな急がなくていいのよ?」

凪の母が笑う。


そして――。


なぜか始まった。


ママさん会。


「それでねー!」


「わかるわぁ!」


「最近お野菜高くないですか?」


「そうなのよー!」



永遠に続く会話。


紅茶。


お茶菓子。


時々笑い声。


完全に。


“お母さん達の世界”が出来上がっていた。


凪は、ぼんやりそれを見ていた。


(長い……)

気がつけば。

由羽と真尋は、遊び疲れていた。


ソファの端。


由羽はうさぎのぬいぐるみを抱え。


真尋はクッションに顔を埋めるようにして。


二人とも、すやすや眠っている。


「……寝ちゃったね」

凪が小さく呟く。

真尋のピンク色の長い髪が、さらりとソファへ流れていた。


寝顔は穏やかで。


昨日泣いていたのが嘘みたいだった。



「ふふふ……」

真尋の母も、優しく目を細める。



「本当に仲良くなったのね」



「……そうかもしれません」

凪は苦笑いした。


由羽は寝返りをうち。


ぎゅう、と真尋へ抱きつく。


「んぅ……」

真尋も無意識に抱き返した。


まるで姉妹みたいだった。


その様子を見て。

凪は自然と頬が緩む。


昨日。

命の危険があったとは思えないほど。

穏やかな時間だった。


窓の外では。


昼下がりの風が、カーテンを揺らしている。


その風を感じながら。

凪は、ぼんやり思った。


“こんな日常が、ずっと続けばいいのに”と。

ママさん会は結局夕方まで続いた。


貴重な日曜日は無くなり、翌日月曜日へ疲労を残したまま登校する事になった。


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