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契約結婚と仮面舞踏会  作者: 槙月まき
本当の結婚へ

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竜の解放②

 嘲りとも怒りともつかぬその声音が、あたり一帯に黒い靄を撒き散らす。森の木々が黒く染まり、幹から滴る樹液がまるで血のように地を濡らす。腐敗と怨嗟が入り混じった異臭が立ち込め、空気さえも毒のように濁っていく。


「そんな言葉で呪紋が解けると思うな。これは契約だ。『生贄と鍵』として、あの竜はここに捧げられた。」


 アデラは胸に手を当てた。心臓の鼓動が、強く、熱く、響いている。その中心にあるのは、王から与えられた任務ではない。彼女自身の、誰にも侵されることのない「誓い」だった。


「契約を結んだのが人なら、私は『誓い』で対抗する。」


 銀の剣が、突き刺さったままの雪の中で微かに光った。主の言葉に呼応するように、戦う意志を宿した刃が光を帯びる。


「私は王に命じられ、この森に来た。そしてその意志の前に、私は『私自身の誓い』を掲げる。」


 影の黒い靄が、怒りに燃えるようにアデラを取り囲む。しかし、それは触れる寸前で、見えない何かに弾かれた。まるで、アデラの中にある“信念”という名の障壁に阻まれるように。


「……それは、『契約』ではない。」


 影の声が一瞬だけ揺れた。それは焦りではない。だが、そこには、わずかな興味と──恐れに似た感情が滲んでいた。


「誓いか。なるほど。確かにそれは……いずれ我らにとって脅威となるかもしれんな。」


「なら、今からその『始まり』を刻んであげる。」


 アデラが叫んだ。風が巻き、空が鳴る。森が、彼女の祈りに応えるようにざわめく。


 竜の背に刻まれていた呪紋が、まばゆい光に包まれ、ひとつ、またひとつと消えていく。


 そして──


 竜が、咆哮を上げた。


 怒りでも、痛みでもない。まるで長い苦しみから解き放たれた者が、ようやく自由を取り戻したかのような、澄んだ叫びだった。


 黒い紋様が音を立てて砕け落ち、地面に消える。竜の瞳が、真紅から淡い琥珀色へと変わっていった。そこに宿っていた狂気の光は、跡形もなく消えていた。


「……おまえ、まさか。」


 影が、まるで呆れたように、あるいは敗北を悟った者のように呟いた。


 アデラはそっと竜の額に手を当てる。鱗の下から伝わる鼓動が、確かに“生きている”ことを告げていた。


「おかえりなさい。」


 竜は静かに目を閉じた。その巨体を雪の上に伏せ、まるで永い眠りの後のように、深い安堵を感じさせる息を吐いた。


 影は、それをしばし眺めた後、声を潜めた。


「まだ『門』は閉じていない。おまえがその竜を救ったとしても、『終焉』は……止まらぬ。」


「それでも、私は進む。あなたの言う『門』の先へ。」


 アデラが振り返ると、影の姿はすでに霧散していた。黒い靄だけが風に流れ、闇へと消えていく。


 静寂が戻った森。


 アデラは膝をついた。全身の力が抜け、呼吸さえも荒い。だが、その目はまだしっかりと前を見据えていた。


(この先に、何があるのかはわからない。それでも──)


「もう誰も、囚われないように。私は……進む。」


 竜が立ち上がり、静かに彼女の傍らに寄り添った。その姿はもはや猛獣ではなく、守り神のように穏やかだった。


 そして、森の奥──黒く裂けた岩壁の間に、ぽっかりと口を開けた「扉」が現れていた。





 

 それは、「終焉の咆哮」の中心にして、「全ての始まり」を封じた、禁断の扉だった──。

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