伊勢の港に到着。九鬼様経由で顔役に1万文寄進して挨拶。端の小屋で横丁をやる許可をとる
伊勢の港に着いた瞬間、博之はしばらく言葉を失った。
松坂の港も活気はあった。だが、伊勢の港はまた違う。
船が入り、荷が降ろされ、魚を担ぐ者が行き交い、商人が声を張り、旅人らしき者もいる。
海の匂い、魚の匂い、濡れた木の匂い、人の熱気。
博之は港を見渡して、思わず呟いた。
「ここで商売するんか……」
胸の奥に、ぞわりとしたものが走った。
怖さもある。
だが、それ以上に、虫が騒ぐような感覚があった。
ここで鮪鍋を出す。
すり身天を揚げる。
海老出汁のあら汁を炊く。
握り飯を売る。
うまくいけば、ここから神宮へ道がつながる。
九鬼方の家臣が、港の顔役のところへ案内してくれた。
「こちらが伊勢松坂屋の博之や。松坂の港で飯をやっておる。うちからも話は通してある」
博之は深く頭を下げた。
「伊勢松坂屋の博之でございます。このたびは、九鬼様のご縁で、伊勢の港にて商いの
ご挨拶に参りました」
そして、一万文の包みを差し出した。
「まずは、ご挨拶としてお納めください」
顔役は包みを見て、目を細めた。
「一万文か。ええ商売をされてますな」
「おかげさまで、松坂の方でなんとかやらせてもらっております」
「松坂の飯屋が、伊勢の港へ来たと」
「はい。松坂では城下、郊外、港、街道筋で飯屋をやっております。伊勢の郊外でも細々と
始めさせてもらっております。今回は九鬼様のご紹介で、こちらの端の方で横丁のようなものを
やらせていただければと思い、ご挨拶に参りました」
顔役は博之をじっと見た。
「いきなり店を構える前に、一万文持って挨拶に来る。そこはええな」
「ありがとうございます」
「ここは港や。勝手をすれば、すぐ嫌われる」
「心得ております」
「端の方に、空いている場所はある。そこで飯屋でもやりなはれ。ただし、揉め事は起こすな」
博之は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。まずは、馴染ませていただくところから始めます」
そこで博之は、持ってきた弁当を差し出した。
「こちら、松坂の港で作ってまいりました弁当でございます。うちの飯がお口に合うかは
分かりませんが、後ほど召し上がっていただければ」
「いや、今ちょっと見せてもらおう」
顔役は弁当を開けさせた。
中には、握り飯、漬物を混ぜ込んだ飯玉、田楽、鶏串がきれいに詰められている。笹で包み、
持ち歩きやすくしてある。
「ほう」
顔役は少し身を乗り出した。
「色がええな。この黄色いのはたくあんか」
「はい。細かく刻んで飯に混ぜております」
「こっちの赤みがあるのは?」
「梅しそでございます」
「梅を漬けとるか」
「はい。飯に混ぜると、道中でも食べやすく、味も締まります」
顔役は一つ摘んで口に運んだ。
少し噛んでから、頷く。
「うまいやないか。飯だけで味がある」
「ありがとうございます」
「笹で巻いてあるということは、街道沿いでも売っているのか」
「はい。道すがらに食べるには、ええ塩梅やと言っていただいております。
漬物を混ぜておりますので、多少は日持ちもします」
「なるほどな。港でも、船に乗る者が持っていくにはよさそうや」
博之はその言葉に反応した。
「そう言っていただけるとありがたいです。港用には、もう少し塩を効かせることも考えております」
「ふむ」
顔役は今度は田楽と鶏串を見た。
「これは田楽か。こっちは鶏串」
「はい。松坂でよく出しているものです」
顔役は田楽を一口食べる。
「味噌の加減がええな」
続いて鶏串。
「塩加減も悪くない。飯がうまいことは分かった」
その一言に、博之は少しだけ胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
「ただ、ここでは松坂と同じでは通らんぞ」
「はい。こちらでは、海のものを中心にやらせていただくつもりです」
「海のもの?」
「鮪の赤身の端をねぎと生姜で煮たもの。魚の端をすり身にして揚げたもの。魚のあらを大根と
炊いた汁。海老の殻から取った出汁を使った汁物。そういった港飯を考えております」
顔役は九鬼方の家臣をちらりと見た。
「なるほど、九鬼様が面白がるわけや」
九鬼方の家臣は笑った。
「松坂の港で食ったが、なかなかのもんや」
「なら、まずは端でやってみるがええ」
顔役は言った。
「飯がうまいなら客はつく。だが、漁師や荷運びの者に横柄にするな。魚を買う時も、
値を叩きすぎるな。逆に高く買いすぎても揉める」
「心得ております」
「寺社にも顔を出せ。ここにも昔からの店がある。そこを潰すような安売りはするな」
「はい」
博之は何度も頭を下げた。
挨拶を終えて外へ出ると、ヨイチが横で小さく言った。
「旦那、最初としては上々ですな」
「上々やな」
博之は息を吐いた。
「でも、ここからや」
「まずは横丁を整えるんですね」
「そうや」
博之は港の端の空き地を見た。
そこに、これから仮の店を並べる。
鮪鍋の大鍋。
すり身天を揚げる油場。
あら汁を炊く竈。
握り飯と弁当を置く台。
魚を捌く場所。
水場。
薪の置き場。
そして、帳面を見る者の座る場所。
「まず飯を配るぞ」
博之は言った。
「いきなり売る前に、ここらの者に食ってもらう。弁当、握り飯、あら汁、すり身天。少しずつでええ」
「炊き出しですか」
「炊き出しというより、顔見せや」
ヨイチが頷く。
「飯で挨拶ですね」
「そうや」
博之は古参たちに指示を飛ばした。
「竈を組め。鍋を出せ。水をもらえる場所を確認しろ。魚を捌く台は風下に置け。油場は人通りから離せ。握り飯は笹で包んで並べろ。すり身天は揚げたてを少しだけ配れ」
「鮪はどうします?」
「まだ出しすぎるな。まずは少量や。臭みがないことを見せる程度でええ」
「値段は?」
「今日は値をつけん。まず食わせる」
「旦那、また銭を吐きますね」
「最初に吐かんと入ってこない」
博之はそう言って、港の人々を見た。
好奇心を持ってこちらを見る者。
警戒する者。
九鬼方の家臣がいることで、少し安心して近づいてくる者。
伊勢松坂屋の紋付き袴を見て、何者かと囁く者。
ここは松坂ではない。
誰も、まだ伊勢松坂屋を知らない。
だから、飯から始める。
「よし」
博之は袖をまくった。
「伊勢の港で、最初の飯や」
湯気が上がる。
味噌の香りが広がる。
油が温まり、すり身天がじゅわりと音を立てる。
港の者たちが、少しずつ足を止める。
博之はその様子を見ながら、静かに笑った。
ここからだ。
松坂の外れのボロ小屋から始まった飯屋は、ついに伊勢の港で火を入れた。




