2月初旬。伊勢に向かう海の船で九鬼方の家臣と雑談。最近の若いもんはよく辞めますよね。九鬼方はどんな感じですか?
松坂の港を離れ、船がゆっくりと伊勢の方へ進み始めると、博之はしばらく黙って海を眺めていた。
冬の海は冷たい。だが、天気は悪くなく、波も思ったより穏やかだった。
船は荷を運ぶための大きなものらしく、博之が想像していたよりも揺れは少ない。
「いや、気持ちいいですな」
博之は思わず言った。
「もっと揺れるもんかと思ってましたけど」
そばにいた九鬼方の家臣が笑った。
「これは荷を運ぶ用の船やからな。でかい分、揺れは少ないんや。小さい船で行くなら、
もっと揺れるぞ」
「それは困りますね」
博之は苦笑した。
「ここでじっとしてる分には大丈夫ですけど、あまりに波が荒かったら、ちょっとやばいかも
しれません」
「俺らは荒波でも行くで」
「そこは本当に尊敬しますわ」
博之は素直に頭を下げた。
「わしら、火と鍋と帳面には慣れてきましたけど、海はまだまだですから」
「海は慣れや」
「慣れる前に吐きそうです」
船の上に笑いが起きた。
しばらく海を見ていた博之は、ふと思い出したように九鬼方の家臣に話しかけた。
「そういえば、一つ聞きたかったんですけど」
「なんや」
「九鬼様のところの若い衆は、辞めたりしますか」
家臣は少しだけ意外そうな顔をした。
「辞める?」
「はい。うちの最近の悩みがそれでして」
博之は横にいるヨイチを指さした。
「うちは、もともと寝なし草や一文なしに近い者を拾って始めた店です。この隣のヨイチなんか、
一日十文で薪くべからやってたんです」
九鬼方の家臣はヨイチを見て、少し笑った。
「ヨイチ殿は、なかなかひどい扱いをされてたんやな」
ヨイチは肩をすくめる。
「その日の飯にありつけるかどうかでしたからね。あの頃は、十文でも飯があるなら
ありがたかったんです」
「そういうことです」
博之は頷いた。
「飯が食えない者は、食らいついてくるんです。ところが最近の新しい子は、
なかなか食らいついてこない。半月で三分の一、下手したら半分辞めることもあります」
「半分か」
家臣は少し眉を上げた。
「それは大変やな」
「松坂では名前が通ってきたので、少しは減りました。でも城下で採る者なんかは、
やっぱりきれいなところだけ見て来るんです」
「なるほどな」
「紋付き袴を着て挨拶に行く古参を見て、自分もすぐそうなれると思っている。
でも、実際は薪くべ、掃除、串刺し、鍋洗いからです」
「そこを嫌がるわけか」
「はい」
下臣は少し海の方を見ながら、ため息のように笑った。
「分かるわ」
「分かりますか」
「うちの水軍衆の若い者も、根性ないやつが増えてきた」
博之は身を乗り出した。
「やっぱりありますか」
「ある。勢力が小さい時は、来るやつも覚悟して来る。だが、顔が利くようになると、
九鬼の名に連なりたい、船に乗りたい、手柄を立てたい、と言うやつが増える」
「うちと似てますね」
「でも、実際に船に乗せたら、潮風はきつい、飯は思ったより荒い、荷は重い、波は怖い。
そう言って、なんか違うと辞めるやつがちょいちょいおる」
博之は思わず笑ってしまった。
「それは困りますな」
「困る」
二人は、妙なところで意気投合した。
「なんでしょうね。必死さが足らんのですかね」
博之が言うと、家臣は頷いた。
「それもあるやろうな。怖い思いをしたことがあるやつは強い」
「分かります」
「悪天候で船が揺れて、死ぬかもしれんと思ったやつは、次から動きが変わる。
綱の持ち方も、荷の置き方も、人の声の聞き方も変わる」
「うちも同じです」
博之は深く頷いた。
「飯が食えなくて、本当に困った経験があるやつは、薪くべでも鍋洗いでもやります。
飯に近づけるだけでありがたいから」
「しんどい経験をした者は、食らいついてくる」
「そうです」
二人はしばらく黙った。
風が船の帆を鳴らす。
後ろの方で、ヨイチと九鬼方の別の家臣が小声で話していた。
「あれですね」
「何がです?」
「気が合ったらあかん人たちが、気が合ってしまいましたね」
「下の者がかわいそうですな」
「これから、松坂屋の下働きも、水軍の若い者も、もっと厳しく見られますよ」
「嫌な流れです」
二人はこっそり笑った。
博之はそれに気づかず、まだ家臣と話している。
「でも、厳しくしすぎても辞めるし、甘やかしても辞める。難しいですな」
「難しい。結局、最初にちゃんと伝えるしかないんやろうな」
「うちは、最初に薪くべ、串刺し、掃除を馬鹿にするやつは取らんようにしようと思ってます」
「それはええ。船でも、綱を馬鹿にするやつは使えん」
「綱ですか」
「船は綱一つで死ぬこともある。飯屋も火一つで店が焼けるやろ」
「ほんまにそうです」
博之はうんうんと頷いた。
少しして、話は女衆のことへ移った。
九鬼方の家臣が、ちらりと船に同乗している伊勢松坂屋の女衆を見た。
「それにしても、そちらの女衆はよう働くな」
「うちの女衆ですか」
「きびきび動くし、愛嬌もある。弁当を渡す時の声のかけ方もええ」
「そこは採用で見てます」
博之は少し得意げに言った。
「飯を売る商売ですからね。愛想が悪いと全然駄目です。味が同じでも、渡し方一つで
客の顔が変わります」
「なるほどな」
「特に女衆は、町でも港でも、場を柔らかくしてくれます。あの前の交流会も、ぎこちなかったけど、
悪くなかったでしょう」
「ああ、見ておった。港の若い者も、妙にそわそわしておったな」
「慣れてないんでしょうね」
「まあ、海の男は男ばかりのところで働くからな。愛嬌よく弁当を渡されたら、
それだけで落ちるやつもおる」
「それはそれで困りますな」
「いや、ええことやろ」
家臣は笑った。
「うまくいきそうなところも、ちょいちょいあったぞ」
「ほんまですか」
「ある。松坂屋の女衆は稼ぎもあるんやろ。飯も作れる。愛嬌もある。そら、悪い話ではない」
博之は少し考えた。
「うちとしても、地元に根付いてもらえるならありがたいんです。うちの中だけで固まると、
なんか宗教みたいになりますから」
「宗教?」
「まあ、身内だけで結婚して、身内だけで飯食って、身内だけで湯浴みして、身内だけで暮らすと、
ちょっと怖いでしょう」
「確かにな」
「だから、町の若い衆とも、港の若い衆とも、少しずつ縁ができればええと思ってます」
「そのための弁当会か」
「飯を間に置いた方が、話しやすいですから」
九鬼方の家臣は感心したように頷いた。
「お前のところは、ほんまに何でも飯でつなぐな」
「飯屋ですので」
「それで伊勢の港もつなげるわけやな」
「はい」
その頃には、遠くに伊勢の港が見え始めていた。
松坂の港とは違う、人の流れと船の影がある。荷を下ろす者、魚を運ぶ者、声を張る者。
港特有の活気が、海風に乗って伝わってくる。
博之は立ち上がり、目を細めた。
「着きますか」
「ああ、もうすぐや」
九鬼方の家臣が言った。
「ここからが本番やぞ。飯だけうまくても、港は取れん」
「分かっております」
博之は深く息を吸った。
潮の匂い。
魚の匂い。
油と火と飯の匂いが、これからここに混じる。
ヨイチが横に並んだ。
「旦那、緊張してます?」
「してる」
「珍しく正直ですね」
「海はまだ慣れん」
「港は?」
「もっと慣れん」
博之は苦笑した。
「でも、飯は作れる」
船が伊勢の港へ近づいていく。
鮪鍋。
すり身天。
海老出汁のあら汁。
松坂で生まれた港飯を、いよいよ伊勢の海へ持ち込む時が来た。
博之は紋付き袴の袖を整え、上陸の準備を始めた。




