九鬼方にマグロ鍋と伊勢エビのあら汁の準備が整ったことを報告しに5000文持ってうかがう。概ね好感触
博之は、九鬼方の松坂の館へ出向いた。ただの顔出しではない。
鮪鍋と海老殻出汁の港飯について、ある程度の準備が整ったことを伝えるためである。
もちろん、手ぶらで行くわけにはいかない。五千文の寄進も包ませ、紋付き袴の古参を数人
連れていった。
通されると、九鬼方の家臣は機嫌よく迎えた。
「おう、松坂屋。例の飯、形になったんか」
「はい。ようやく、店に出してもよいかと思えるところまで来ました」
「ようやくか」
「味が定まりまして……と言いたいところですが、厳密にはいつまで経っても定まりません」
博之は苦笑した。
「私の勘所でやっているところが多いので。ただ、紙に書きながら何度か試し、下の者でも
ある程度作れるところまでは来ました」
「それなら十分やろ」
「はい。そろそろ松坂の港でも、飯として出そうと思っております」
家臣は少し身を乗り出した。
「で、鮪はどうする」
「五十文で出します」
「五十文?」
家臣は思わず声を上げた。
「そんな高値で売るか」
「売ります」
博之はきっぱり言った。
「あれは、なかなかの味でございます。しかも、今まで捨てていたようなところを飯に変える。
利益率も高い」
「それは分かるが」
「ただし、こちらでは九鬼様に価値を見ていただいておりますので、買い取りの値もきちんとつけます」
博之は続けた。
「よその国へ行けば、鮪の端など、まだただ同然で手に入るかもしれません。ですが、
ここでそれをやると、九鬼様のところに旨味が残りません」
「ほう」
「こちらも儲けすぎてはいけません。港の者が魚を持ってくる意味があり、九鬼様の筋にも銭が落ちる。そこを整えた上で、うちが料理して売る。その形がよいと思っております」
家臣は腕を組み、少し感心したように頷いた。
「なるほどな。捨てるものを銭にするが、その銭を独り占めせんということか」
「はい。そうでなければ長く続きません」
博之はさらに言った。
「それに、最初は売れ筋に難があると思います」
「なぜや」
「鮪を鍋にするという発想自体に、抵抗がある者も多いはずです。脂が強い、傷みやすい、
臭いと思われている。そこを伊勢松坂屋の味付けで食えるものにするから、ようやく売れる」
「確かに、ただ煮ただけでは食えんやろうな」
「はい。生姜、ねぎ、大葉、味噌だまり、小魚出汁。火の通し方。そこが合わないと、
臭くて終わります」
「つまり、伊勢松坂屋でないと作れん飯になる」
「そういうことです」
博之は深く頷いた。
「ある種の港飯の名物を、うちが押さえる形になります。ですので、値段は強気で行かせてもらいます」
家臣はしばらく博之を見て、それから大きく笑った。
「飯のことに関しては、お前の言う通りやな」
「ありがとうございます」
「お前はすごいぞ。鮪の端を五十文の飯にするか」
「伊勢で流行れば、かなり大きいと思っております」
「流行るやろうな」
家臣は頷いた。
「しかも、こちらとしては今まで値が薄かったところを買ってもらえる。うまくいくなら、
至るところでやってほしいぐらいや」
「そこが問題でございます」
「人手か」
「はい。足りません」
博之は正直に答えた。
「特に帳簿をつける者が足りません」
「帳簿か」
「うちは、一文なしに近いところから始まっております。食いぶちのない者、戦で親を失った子、
流れ者を中心に集めてきました。ですので、読み書き算用が弱い」
「それは仕方ないな」
「ただ、安易に町場の算用ができる者を雇うと、それはそれで角が立ちます」
博之は少し顔をしかめた。
「昔からうちにいる者が、飯を作り、薪を割り、串を刺し、鍋を洗い、ようやく古参になっている。
そこへ外から帳簿だけできる者をいきなり上に置くと、店の中が歪みます」
「なるほど」
「だから、一から育てないといけません」
博之は続けた。
「たとえ算術が多少できても、まずは串刺し、掃除、薪割りから始めさせています。
よほどの才能がない限り、現場を飛ばさせません」
「そこは厳しいな」
「厳しくせざるを得ません」
博之は苦笑した。
「お武家様でも同じでございます。よほどの免許皆伝でもない限り、最初は下働きから
やってもらいます。飯屋の火も見られない者に、店は任せられません」
「言い切るな」
「もう規模が大きくなりすぎました」
博之はため息をついた。
「松坂では、ありがたいことに『雇ってくれ』という声は来ます。伊勢松坂屋の名前も通ってきました。
ですが、それは松坂だからです」
「伊勢では違うか」
「はい。伊勢では、まだ名前が通りきっておりません。しかも神宮があります。
伊勢の城下もあります。魅力的な働き口が多い。単価も高い。給金も高いかもしれない」
「できる者はそちらへ行くか」
「そうです」
博之は頷いた。
「だから、うちに来る者の中で、鮪の端を五十文の飯に変える価値に気づける者がどれだけいるか。
そこにかかっています」
「錬金術の価値が分かる者か」
「はい」
「分からん者は、ただの魚臭い仕事と思うやろうな」
「そうです。鮪を煮る、あらを炊く、すり身を練る、海老殻を煮出す。外から見れば汚れ仕事です。
けれど、それが銭になる。そこに気づく者が残れば、伊勢でもやれます」
家臣は少し黙った。
それから、ゆっくりと言った。
「飯の話をしていると思ったら、もう人の話やな」
「はい」
「さらに言えば、家の話や。人をどう集め、どう育て、どこへ置くか。これは機内、
いや国を動かす話に近い」
「私もそこまで来ると、だいぶ難しいです」
博之は正直に言った。
「私は飯のことなら考えられます。けれど、人の採用、教育、帳簿、土地との関係、
神宮や港の力関係。そこまで広がると、さすがに一人では見切れません」
「それでもやろうとしておる」
「やらざるを得ません。店が大きくなりすぎました」
家臣は笑った。
「お前、飯屋の旦那というより、だんだん人を抱える頭領やな」
「飯屋でございます」
「分かっておる。飯屋やから、こちらも安心して見ておれる」
そして家臣は、少し真面目な顔になった。
「伊勢の港については、話を進める。だが、人が足らんというなら、無理に一気に広げるな」
「心得ております」
「まずは松坂の港で、鮪五十文を通せ。海老出汁のあら汁も出せ。評判を作れ」
「はい」
「その評判を持って、伊勢へ来い。そうすれば、港の者も話を聞きやすい」
博之は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、儲けすぎて恨まれるなよ」
「それが一番怖いところです」
「九鬼の筋にも銭を落とす。漁師にも値をつける。寺社にも挨拶する。そういうやり方なら、
長くできる」
「はい」
博之は五千文の寄進を改めて差し出した。
「本日は、そのご報告と、改めてのご挨拶でございました」
「受け取ろう」
家臣は包みを受け取った。
「鮪の五十文飯、楽しみにしておるぞ」
「必ず形にいたします」
館を出ると、ヨイチが小さく息を吐いた。
「旦那、飯の話から人材の話になってましたね」
「そこが一番しんどい」
「でも、九鬼様も分かってくれた感じでした」
「ありがたいな」
博之は空を見た。
鮪の端を五十文にする飯。
それは料理だけではない。
仕入れ、火加減、帳簿、人材、土地の信用。
すべてが揃って、初めて成り立つ。
「飯屋って、面倒やな」
博之が呟くと、ヨイチが笑った。
「今さらですか」
「今さらや」
それでも、道は見えていた。
まず松坂の港で、鮪鍋を五十文で売る。
それが通れば、伊勢の港へ。
そしてその先に、神宮の端の名物飯がある。
博之は紋付き袴の袖を直し、ゆっくり松坂の本店へ戻っていった。




