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帳簿が嫌になり古参の者と雑談。伊勢神宮に見せだしてモテたい。女衆にも博之の呪いと毒が回っている話を解説する

一通りの挨拶回りと、九鬼様への炊き出しが終わると、博之は本店の奥で帳簿を前にして、

畳の上にごろごろ転がっていた。

「もう嫌や。神宮にも行った。九鬼様にも飯出した。寺社にも頭下げた。これ以上、何をせえ言うねん」

 帳面は開いたまま、筆は横に転がっている。

 ヨイチが茶をすすりながら、冷静に言った。

「帳簿です」

「帳簿見ても疲れるだけや」

「見ないともっと怖いです」

「分かってる。分かってるけど嫌なんや」

 博之は子どものように畳の上で転がった。

「まあでも、神宮で店出したら、わしもモテるんちゃうか」

 その場にいた女衆が、一斉に顔を上げた。

「は?」

 お花が眉を上げる。

「そんなにモテてどうするんですか」

「いや、やっぱりな、もっと可愛い若い女の子にちやほやされたいんや」

 女衆たちは顔を見合わせ、ため息をついた。

「そういう本音がぼろぼろ出るから、モテへんのですよ」

「ひどい」

「ひどくないです」

 女衆の一人が帳面をちらりと見て、にやりと笑った。

「でも、今の旦那の帳簿の数字を見たら、乳くらいなんぼでも揉ませてあげますわ」

「言い方が生々しいねん」

 博之が思わず顔をしかめると、部屋にいた者たちがどっと笑った。

「そらそうでしょう。稼いでる男は、それだけで価値がありますから」

「それは目先の金があるからやろ」

「当たり前じゃないですか。稼がない旦那なんて嫌です」

「身も蓋もないな」

「でも、今の旦那の帳面を見たら、食いついてくる女の子は数人はいますよ」

「数人かい」

「数人です。でも、食いつかれたら最後ですよ」

「最後?」

「奥方様として絶大なる権力を持って、店を引っかき回されます」

 お花が静かに頷いた。

「旦那様の場合、奥方様が本気で采配を振るったら、寄進も炊き出しも、人の採用も、

 かなり変わりますね」

「それは困る」

「だから、私らに冗談でからかわれてるくらいが、旦那様にはちょうどいいんです」

「からかい方が雑やねん」

 ヨイチが横で笑った。

「旦那、乳の話から店の統治の話になるあたり、やっぱり普通の色恋には向いてませんわ」

「うるさいわ」

 博之は不満そうに寝返りを打ったが、少し口元は緩んでいた。

 しばらく笑いが続いたあと、博之はふと真面目な顔になって身体を起こした

「でもな、これは女衆にも関係ある話やぞ」

「何の話ですの」

「わしの呪いや」

「呪い?」

「毒が回っとる」

 女衆たちは怪訝な顔をした。

「何言うてるんですか」

「お前ら、稼ぎすぎとる」

 博之は言った。

「稼ぎすぎると、旦那にもそれなりのものを求めるようになる。うちの古参同士で結婚するのはええ。

 仕事も分かるし、暮らしも分かる。けど、それを露骨にやりすぎると、うちの中だけで

 完結してしまう」

「宗教みたいになる、という話ですね」

「そうや」

 博之は頷いた。

「わしはそれをあんまり推奨してへん。もともと身寄りなしや流れ者が多かったんやから、

 地元に根付くのも大事や。松坂の町の者と縁ができて、家庭を持つのもええ」

「でも、簡単ではないですね」

「そうや。なぜなら、こんな魅力的なわしを見続けてたら、他の男が退屈に見えるからや」

 一瞬の沈黙のあと、部屋がまた笑いに包まれた。

「自分で言います?」

「魅力的というか、珍妙です」

「飽きないのは確かです」

「ある意味、魅力的ですよ」

「ある意味ってなんやねん」

 博之が抗議すると、女衆の一人が笑いながら言った。

「だって、一文無しからここまで来て、九鬼様だの神宮だの言いながら、鮪を鍋にしてるんですよ。

 人生としてはめちゃくちゃ面白いです」

「見てて飽きないです」

「普通の男ではないのは確かですね」

「褒められてる気がせんな」

「半分褒めてます」

「また半分か」

 博之は頭をかいた。

「それに、飯の呪いや」

「飯の呪い」

「そうや。わしの飯を食い続けたら、よそに行った時に困る。親子丼、天ぷら、すり身天、

 鮪鍋、海老出汁のあら汁。そんなもんを知ってしもたら、普通の飯が寂しくなるやろ」

 女衆たちは、それには素直に頷いた。

「それはありますね」

「松坂屋の飯に慣れると、戻れません」

「特に湯浴みの後の蜂蜜饅頭とか、もうあれは危ないです」

「ほらな」

 博之は少し得意げに言った。

「うまい飯が当たり前になるのは、呪いや。よそで食えへんくなって、結局戻ってくる」

「それ、ほんまに呪いですね」

「しかも、この呪いは伊勢湾界隈で広がるぞ」

 ヨイチが笑った。

「旦那、飯で人を縛る気ですか」

「縛る気はない。勝手に戻ってくるだけや」

「怖い飯屋ですわ」

 博之はまた畳に寝転がった。

「だから難しいんや。嫁ができて、わしの動きを制限されるのも嫌や」

「例えば?」

「寄進に馬鹿みたいに金を使うのはやめなさい、とか」

 女衆の一人がすかさず言う。

「それは言いますね」

「言います」

「私でも止めます」

「それやったら店が潰れてまう」

 博之は真顔になった。

「店は、頭を下げて金を回してるから続いてるんや。寄進をやめたら敵が増える。

 炊き出しをやめたら評判が落ちる。飯を配るから人が来る。銭を吐き出すから、銭が戻ってくる」

 冗談のような空気が、少しだけ締まった。

「そこを分かってくれる嫁ならええんやけどな」

 博之は小さく言った。

「でも、百万文近い帳面見たら、普通は止めるやろ」

「止めますね」

「止めます」

「ほらな」

 博之はため息をついた。

 お花が穏やかに笑う。

「旦那様は、飯と商いと寄進と人助けが全部絡まっていますからね」

「人助け言うな。敵を作りたくないだけや」

「それも含めてです」

 ヨイチがにやにやしながら言った。

「旦那、結局モテたいんですか、モテたくないんですか」

「ちやほやはされたい」

「責任は?」

「怖い」

「最低ですね」

「正直やろ」

 女衆たちは呆れながらも笑った。

 この男は、格好つけきれない。金を稼ぎ、店を増やし、神宮に道を作ろうとしているのに、

 色恋の話になると途端に情けなくなる。

 だが、そこが妙に人を安心させる。

 完全な大商人でも、冷たい頭領でもない

 飯のことになると異様に鋭く、人のことになると面倒を見すぎ、女のことになると逃げ腰になる。

 それが博之だった。

「まあ、帳簿に戻りましょう」

 書記の者が冷静に言った。

「いやや」

「百万文が見えてる男が駄々こねないでください」

「百万文が見えてるから嫌なんや」

「ならなおさら見てください」

 ヨイチが笑う。

「旦那、神宮でモテる前に、帳簿にモテてますよ」

「いらんわ、そんなモテ」

 女衆の笑い声が、また部屋に広がった。

 外は正月の冷たい風が吹いている。

 だが、伊勢松坂屋の奥には、飯の匂いと、銭の重さと、どうしようもない人間臭さが満ちていた。

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