九鬼方への炊き出し道中ヨイチとの雑談。屋敷に帰り伊勢の道が見える話すると盛り上がる
九鬼方への炊き出しを終えて松坂へ戻る道すがら、博之はふとぼやいた。
「九鬼様のところで、人の話ができへんかったな」
隣を歩いていたヨイチが首を傾げる。
「なんですのん、人の話って」
「この前、古参らと話したやろ。半月で三割辞めるって話や」
「ああ、その話ですね」
「松坂でも三割や。城下の方やと、下手したら五割辞める。伊勢でやっても、
多分似たようなことになるんちゃうかなと思ってな」
ヨイチは少し考えてから、頷いた。
「伊勢は伊勢で難しいでしょうね」
「やっぱりそう思うか」
「仕事できるやつは、多分、神宮の方へ行きますよ」
「神宮か」
「そらそうでしょう。参宮客も多いし、単価も高い。飯屋でも茶屋でも宿でも、
稼げる場所は多いはずです。給金も松坂よりええかもしれません」
「そうなんよな」
博之は腕を組んだ。
「気づくやつは、もう気づいてるんよな」
「そうです。気づくやつは、どこでも気づきます。神宮近くで働くなり、既存の商人に入るなり、
うまいことやるでしょう」
「ほな、港で新たに雇っても、また半分ぐらい辞めるかもしれんな」
「ありえます」
ヨイチはあっさり言った。
「ただ、見えるやつは残りますよ」
「何が見えるんや」
「鮪を高値で飯に変える店なんて、なかなかありません。魚の端や殻やあらを銭に変える。
そこに気づけるやつは、伊勢松坂屋に残る意味を分かると思います」
「でも、そういうやつこそ神宮で働いてたりするんよな」
「そこが難しいところです」
博之は苦笑した。
「俺は外れ値やし、お前もたまたま俺にくっついてきただけやしな」
「そんなことないですよ」
ヨイチは笑った。
「時々、ちゃんとすごいなと思ってますよ」
「時々かい」
「ええ。時々です」
「失礼やな」
「でも、真似しようかなと思うところはあります」
博之が少し驚いた顔をすると、ヨイチはにやりとした。
「まあ、飯以外のことは真似できませんけどね」
「馬鹿にしとるやろ」
「半分は」
「半分はあかんやろ」
二人はそんなことを言いながら、本店へ戻っていった。
そしてその夜、博之は古参たちを改めて集めた。
九鬼方での炊き出しの結果を伝えるためだった。
部屋には、店主見習い、帳簿を見る者、料理人、港横丁の者、伊勢郊外に関わる者たちが
集まっていた。皆、どこか期待した顔をしている。
博之は座るなり、静かに言った。
「正式に、九鬼様の方から話をもろた」
部屋が静まる。
「伊勢の港、行けそうやぞ」
その瞬間、空気が弾けた。
「ほんまですか!」
「港ですか!」
「伊勢の港に横丁ですか!」
ヨイチが手を上げて皆を落ち着かせる。
「まだ決まったわけやない。けど、道は見えた」
博之も頷いた。
「津は、長野様の領分が絡むから、もう少し話がいる。けど、まず伊勢や。伊勢の港は、
九鬼様の口添えがあれば動かせるかもしれん」
古参たちの目が輝いた。
松坂から伊勢へ。
郊外ではなく、港へ。
それは、伊勢松坂屋にとって大きな一歩だった。
「ただし」
博之はすぐに釘を刺した。
「伊勢の郊外より、伊勢の港の方が先に行けそうやけど、やることは松坂の横丁とは違う」
「港飯ですね」
お花が言った。
「そうや」
博之は頷いた。
「団子を作るとか、鶏を焼くとか、それもできるかもしれん。けど、主役は港飯や」
博之は指を折った。
「鮪のねぎ鍋。浜すり身天。あら汁。海老殻出汁の港汁。この辺を丁寧にやる」
「親子丼は?」
「卵の流れができるまでは無理や。伊勢の港で卵を安定して使えるようになるには時間がいる」
「田楽は?」
「出せる。けど目玉にはならん」
港で勝つなら、港にしかない飯がいる。
鮪を大鍋で煮る。
魚の端をすり身にする。
あらを大根と炊く。
海老殻で出汁を取る。
それが、九鬼方の心を動かした飯だった。
「ただ、人が難しい」
博之は言った。
「向こうで新たに雇うとなると、また半分ぐらい辞めるかもしれん」
部屋の熱が少し落ちる。
「半分ですか」
「松坂でも三割辞める。伊勢は神宮がある。仕事できるやつは神宮近くで働くかもしれん。
港で雇っても、続くかどうかは分からん」
ヨイチも続けた。
「しかも港飯は難しいです。魚は傷みます。鮪はその日のうちに煮る。あらは臭みを抜く。
すり身は内臓や血の臭いところを取る。適当にやったら客が離れます」
「だから、松坂から古参を出す」
博之は言った。
「最初は現地の者だけで回さん。港飯を分かってる者、帳面を見られる者、寺社や漁師に
頭を下げられる者を連れていく」
「誰を出すんですか」
「これから選ぶ」
その言葉に、何人かが背筋を伸ばした。
伊勢の港へ行く。
それは苦労もあるが、出世でもあった。
新しい土地で、伊勢松坂屋の紋付き袴を着て、飯を出す。
漁師、商人、寺社、参宮客、神宮へ向かう人々。その中で名を売る。
胸が高鳴らないわけがない。
「伊勢神宮の方はどうなんですか」
誰かが聞いた。
博之は少し笑った。
「神宮は、まだまだや」
皆が少しがっかりした顔をする。
「ただ、完全に閉ざされてるわけでもない」
博之は続けた。
「神宮の方では、いきなり横丁は無理や。けど、港飯が評判になれば、端の方で一軒か二軒、
名物を出す道はあるかもしれん」
「名物ですか」
「そうや。参宮客は、珍しい飯を食ったら喋る。国に帰っても喋る。そこで、
すり身天や海老出汁飯、蜂蜜饅頭あたりが噂になれば、一軒入れるかもしれん」
「鮪鍋は?」
「鮪は動かせへん」
博之はきっぱり言った。
「あれは港飯や。保存が怖い。神宮近くで出すなら、港で評判を作ってから、別の形にせなあかん」
「すり身天ならいけますか」
「いけるかもしれん。揚げたてを出すか、弁当に少し入れるか。そこは考える」
古参たちは、もう目を輝かせていた。
伊勢の港。
その先の神宮。
松坂から始まった飯屋が、ついに伊勢の中心に近づきつつある。
「でも、浮かれるな」
博之は言った。
「伊勢は松坂と違う。安く出せばええ場所やない。神宮近くは高く売る場所や。
安すぎると周りの店に嫌われる。港では漁師との関係がいる。寺社にも挨拶がいる。
帳面もややこしい」
「つまり、また挨拶回りですね」
ヨイチが言うと、博之は嫌そうな顔をした。
「そうや」
「旦那の得意なやつです」
「得意ちゃう。必要や」
それでも、場の空気は明るかった。
誰かが言う。
「伊勢神宮への道、近づいてきましたね」
その言葉に、皆が頷いた。
直接ではない。
いきなり神宮の中へ入るわけではない。
けれど、港を押さえ、名物飯を作り、噂を流し、端の一軒を狙う。
道は見えた。
「まずは伊勢の港や」
博之は言った。
「鮪鍋を安定させる。海老出汁も紙にする。すり身天も、誰が作っても同じ味に近づける」
「人も選ぶ」
「帳簿も作る」
「仕入れ表も作る」
古参たちが口々に言い出す。
博之はそれを見て、少しだけ満足そうに笑った。
「そうや。飯だけでは港は取れん」
ヨイチが横でぼそりと言う。
「でも、飯があるから取れそうなんですよね」
「そうやな」
博之は頷いた。
去年の三月、無一文に近い男が、松坂の外れで豚汁を炊いた。
それが今、伊勢の港へ向かおうとしている。
神宮の端に、名物飯を出す夢まで見え始めている。
「えらいところまで来たな」
博之が呟くと、ヨイチが笑った。
「まだこれからですよ、旦那」
「分かっとる」
博之は茶をすすった。
「だからこそ、今から準備や」
古参たちは、もう完全に浮き立っていた。
伊勢の港。
港飯。
神宮への道。
その言葉だけで、胸が熱くなる。
今年の伊勢松坂屋は、ただの松坂の飯屋では終わらない。
飯で海へ出る。
飯で伊勢へ入る。
その予感に、誰もがワクワクを止められずにいた。




