表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

78/232

夜の飯会の食べ物は味の調整が必要やな。紙で書くことを指示。見通しも立ったので伊勢神宮に行く

その夜の飯会で出した海老出汁のあら汁と、鮪のねぎ鍋は、おおむね好評だった。

 ただ、博之はすぐに商品として出せるとは思っていなかった。

「味は見えた」

 博之は椀を置きながら言った。

「けど、九鬼様に出すまでには、もうちょっと整えなあかん」

「整える?」

「出汁の調整や」

 生姜をどれぐらい入れるか。ねぎをどの段階で入れるか。鮪の赤身をどれぐらい煮るか。

 海老殻の出汁をどこまで濃くするか。味噌だまりを入れすぎるとくどい。薄すぎると臭みが残る。

「俺がやったら感覚になる」

 博之は言った。

「それやと、俺しかできへん飯になる。そんなん意味ないやろ」

 お花が頷いた。

「紙に書きながら、何度か作らせるのがよいですね」

「そうや。生姜これだけ、ねぎこれだけ、煮る時間これだけ。全部、試しながら書け」

 調理場の者たちは少し緊張した顔で頷いた。

 ヨイチが笑う。

「旦那が珍しく、感覚を人に渡そうとしてますね」

「珍しく言うな」

「でも大事ですわ。旦那だけが作れる飯では、伊勢にも津にも持っていけませんから」

「その通りや」

 博之はそう言ってから、少し話題を変えた。

「その間に、わしは伊勢神宮へ参る」

 部屋が少し静かになった。

「いよいよですか」

「いよいよというほどでもない。まずはお参りや」

 博之はそう言ったが、皆分かっていた。

 ただの参拝ではない。

 伊勢へ根を張るための下見であり、挨拶であり、商いの種探しでもある。

「紋付き袴で行く」

「当然ですな」

「それと、紋付き袴を百着作る」

 ヨイチが目を丸くした。

「百着?」

「これから拠点が増える。挨拶回りでいるやろ」

「まあ、伊勢、津、港となると要りますね」

「二万文出す」

 さらに博之は続けた。

「焼印も二百個作る。一万文」

「焼印ですか」

「店で使う弁当箱や木札にも押せるし、辞めていく古参にも渡せる」

 皆が不思議そうな顔をした。

「辞めていく古参に?」

「そうや」

 博之は少しだけ真面目な顔になった。

「これから、うちを辞める者も出る。家族ができる者もおる。松坂の町に嫁ぐ者もおる。

 自分で小さな飯屋をやりたい者も出るかもしれん」

 それは、伊勢松坂屋が大きくなった証でもある。

 拾った者たちが、ずっと店に残るとは限らない。

 むしろ、外へ出て暮らせるようになるなら、それは一つの成功だった。

「その時に、丸に井の焼印と、着物につける印を選別代わりに渡す」

「選別ですか」

「ここの志を継いでくれ、という意味や」

 博之は言った。

「伊勢松坂屋で働いていた者やと分かれば、変なことはせんやろうと少しは

 思ってもらえるかもしれん。今の勢いが続けばな」

 ヨイチが静かに頷いた。

「信用の印ですな」

「そうや。もちろん悪さしたら取り上げる。けど、ちゃんと働いて、ちゃんと辞める者には

 渡してもええ」

 お花が少し柔らかい顔をした。

「それは、ありがたいと思います」

「女衆は特にな」

 博之は続けた。

「うちで働いて、銭を持ち出してるやろ。稼げる女は、松坂の町でも大事にされると思う。

 結婚して子どもができたら、一回は店を離れなあかんかもしれん」

「はい」

「でも、紋と焼印があれば、家で細々と弁当を作ることもできるかもしれん。混ぜ飯を

 売ることもできるかもしれん。戻ってくるのもありや」

「同じ待遇にするかは分からない、ですね」

 お花が微笑む。

「そこはな」

 博之も笑った。

「けど、うちの印を出した者としては、ある程度は面倒を見る」

 ヨイチが少し感心したように言った。

「旦那、本当に女運はないですけど、面倒見はええところが好きっすわ」

「女運は余計や」

 お花も笑う。

「私も、来世なら惚れるかもしれません」

「なんで来世やねん」

 その一言で、部屋に笑いが広がった。

「今世では無理なんか」

「今世は、旦那様は飯と結婚されていますから」

「それ言われたら何も言えん」

 博之は苦笑し、茶をすすった。

 そうして笑いが落ち着くと、話は再び伊勢へ戻った。

「伊勢は、二つ見たい」

 博之は地図を広げた。

「一つはお城の方。もう一つは神宮や」

「規模が違いますね」

「違う」

 博之は頷いた。

「お城の方なら、二つ横丁くらいは見える。けど神宮は別や。四つ横丁ができるぐらいの大きさがある」

 参宮客。

 商人。

 旅人。

 寺社関係者。

 荷運び。

 地元の者。

 松坂とは人の流れが違う。

 しかも、値段も変わる。

 神宮近くでは、同じ握り飯でも松坂とは値が違うかもしれない。弁当も、田楽も、

 蜂蜜饅頭も、すり身天も、客層によって値段を変える必要がある。

「神宮は、正直ややこしい」

 博之は言った。

「けど、やれるなら大きい」

「いきなり横丁ですか」

「いや」

 博之は首を振った。

「いきなり四つ横丁なんて無理や。まずは一軒か二軒や」

「何を出します?」

「混ぜ飯、弁当、田楽、蜂蜜饅頭。あと、すり身の天ぷらを少し」

「港の飯を神宮でも?」

「出し方次第や。浜すり身串として売るんやなくて、珍しい魚の揚げ物として少し出す」

 ヨイチが頷いた。

「参宮の人は、物珍しいものを食べるかもしれませんね」

「そうや。けど、神宮近くでは神宮近くの顔役がいる。寺社、商人、宿、茶屋。そこを踏まなあかん」

「また挨拶ですな」

「そうや」

 博之は少し嫌そうな顔をしながらも、どこか楽しそうだった。

「飯を出す前に、頭を下げる。飯を持っていく。銭も出す。話を聞く」

「旦那の得意なやつですね」

「得意ちゃう。必要や」

 そう言いながら、博之は紋付き袴の支度を命じた。

 百着の袴。

 二百の焼印。

 それはただの道具ではない。

 伊勢松坂屋が松坂を越えて、伊勢へ、津へ、港へ広がるための印だった。

 飯の作り方を紙にし、味の加減を下の者に任せ、紋と焼印を整え、そして自らは神宮へ向かう。

 博之は立ち上がった。

「ほな、伊勢へ行く準備や」

 ヨイチが笑った。

「今年も忙しくなりますな」

「去年より忙しいぞ」

 博之はそう言って、地図の上の伊勢のあたりを指でなぞった。

 そこには、まだ見ぬ横丁の影があった。

 握り飯の湯気。

 田楽の味噌の香り。

 蜂蜜饅頭の甘さ。

 そして、港から届くすり身天。

 伊勢松坂屋の次の飯場が、少しずつ形を持ち始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ