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1月のある夜。新作のお披露目があった。みんな興味津々。鯛のあら汁に伊勢エビの出汁追加。マグロの鍋の旨さに驚く

ある夜、博之はまた古参の者たちを集めた。

場所はいつもの飯会の部屋だった。火鉢が置かれ、膳が並び、奥の調理場では下ごしらえを

していた者たちが慌ただしく動いている。

 古参たちは、もう分かっていた。

 旦那が夜に飯会を開く時は、だいたい何か新しい飯が出る。

「今日は何ですか」

「また変なもん作ったんですか」

「旦那の変なもん、だいたいうまいから怖いんですよね」

 そんな声が飛ぶ中、博之は少し真面目な顔で言った。

「今回の飯がうまかったら、津と伊勢の港町に横丁を作る話が動くと思ってくれ」

 その一言で、部屋の空気が変わった。

「津と伊勢の港……」

「ほんまにそこまで行くんですか」

「行くかもしれん」

 博之は頷いた。

「九鬼様の口添えがあれば、港筋は思ったより早く動くかもしれん。けど、

 そのためには港でしか出せへん飯がいる」

 そう言って、下の者に合図をした。

 まず運ばれてきたのは、湯気の立つ汁椀だった。

「一つ目は、あら汁や」

 古参の一人が首を傾げる。

「あら汁は前にも食べましたやん」

「まあ飲んでみろ」

 博之がそう言うと、皆は椀を取り、汁をすすった。

 次の瞬間、何人かが目を見開いた。

「……なんやこれ」

「前のあら汁と違います」

「魚の味だけじゃないです。なんか、奥がすごい」

「海老ですか?」

 お花が静かに言った。

「正解や」

 博之は少し得意そうに笑った。

「伊勢海老の殻や。頭、殻、尻尾を砕いて煮立たせて、出汁を取った。それをあら汁に混ぜた」

 ヨイチがもう一口すすり、うなった

「コクがすごいっすね」

「味が一段上にいくやろ」

「いきます。これ、上等な飯ですよ」

「毎度毎度使えるわけやない」

 博之は言った。

「伊勢海老の殻が手に入った時だけや。身は高く売ったらええ。うちは殻を出汁にする」

「やり方は難しいんですか」

 調理を手伝った古参の一人が、少し困ったような顔をした。

「海老の殻を煮て、野菜の出汁を取って、生姜、ねぎ、大葉を入れる。言うたらそれだけや」

「旦那、それだけって言いますけど、加減が難しいんです」

「そこは感覚で覚えろ」

「出た」

 ヨイチが笑った。

「味の調整はしゃあない。けど、大事なのは“こういうやり方がある”ってことや」

 博之は椀を指さした。

「殻は捨てるもんやと思ってたら、そこで終わりや。けど、煮たら出汁が出る。出汁が出るなら

 飯になる」

 古参たちは椀を見つめた。

 魚のあら汁に、海老の殻出汁を加える。

 たったそれだけで、港の汁物が別物になる。

「これ、港で出したら絶対受けますよ」

「値段変えられますね」

「“今日は海老出汁入りや”って言えますわ」

「それや」

 博之は頷いた。

「毎日の飯やなくて、当たりの日の飯や」

 次に運ばれてきたのは、大鍋だった。

 蓋を開けると、ねぎと生姜の香りがふわりと広がった。汁の中には、赤黒く煮えた大きめの

 魚肉が沈んでいる。

「二つ目は、鮪や」

 部屋がざわつく。

「鮪って、あの鮪ですか」

「脂が強くて、傷みやすいやつですよね」

「毒味ですやん」

 博之は顔をしかめた。

「毒味ちゃうわ。ちゃんと火は通してる」

「でも、ちょっと怖いです」

「作ったもんやから食うてみろ」

 皆はおそるおそる椀を受け取り、汁をすすった。

 まず、ヨイチが黙った。

 次に侍の一人が鮪の身を箸で崩す。

「……臭みがあんまりない」

「ほんまや」

「ねぎが効いてますね」

「生姜も強いです」

「赤身が肉みたいですわ」

 誰かがそう言うと、皆が一斉に鮪の身を食べ始めた。

 ほろほろに煮えた鮪は、魚でありながら、どこか肉のような食べごたえがあった。

 ねぎは柔らかくなり、汁に鮪の旨味が染み出している。

「普通に食えますやん」

「いや、うまいです」

「これ、飯いりますよ」

「混ぜ飯にも合いそうです」

 博之は皆の反応を見て、少し安心したように息を吐いた。

「よかった。これは、鮪の端の赤身を使う。脂がきついところは無理に使わん。

 傷みそうなものも使わん。使えるところだけを、港でその日のうちに大鍋で煮る」

「去年のすり身天と同じですか」

 お花が言った。

「そうや」

 博之は頷いた。

「値がつきにくい魚を飯に変える。すり身天は、アジやイワシの小魚や端の身。これは、鮪の端や」

 その瞬間、何人かの顔つきが変わった。

「鮪って、取れる時は量ありますよね」

「捨てるようなところが飯になるなら、すごいです」

「港の人ら、驚きますよ」

「九鬼様も喜びますわ」

 ヨイチがにやりと笑った。

「旦那、これまた錬金術ですやん」

「そうなると思ったから、九鬼様に話した」

「これなら、伊勢と津の口利き、ほんまに動きますよ」

「動くかもしれん」

 博之は落ち着いた声で言ったが、目は少し輝いていた。

「だから、港の店を増やさなあかん」

 すり身を作る店。

 あら汁を炊く店。

 鮪を大鍋で煮る店。

 魚の塩焼き。

 握り飯。

 弁当。

 浜すり身串。

 それぞれが港横丁の顔になる。

「海老出汁の日は、あら汁の値段を少し変えてもええ」

「鮪鍋は?」

「港限定や。町場には持ち込まん。保存が怖い」

「それがええです」

「火を通して、港で食わせる」

 ただし、飯がうまいだけでは横丁は作れない。

 博之は、皆が勢い立つのを見ながら、手を上げた。

「ここからが大事や」

 部屋が静かになる。

「新しい土地に横丁を作るには、銭がいる。寺社への寄進もいる。近所への挨拶もいる。

 働く者の寝床もいる。米、味噌、塩、薪、油、漬物桶。全部いる」

 さらに、食材の供給も問題だった。

「松坂で作った漬物を、そのまま全部持っていくわけにはいかん。伊勢なら伊勢、津なら津で、

 大根やきゅうりや茄子を仕入れて、そこで漬けなあかん」

「農家との関係がいりますね」

「そうや。関係ができてへんかったら、たくあんすら漬けられへん」

 古参たちは、さっきまで鮪鍋で盛り上がっていた顔を少し引き締めた。

「九鬼様の口添えがあれば、港筋は進むかもしれん。けど、大拠点を作るのは難儀や」

 博之は言った。

「俺を見てたら分かるやろ」

 するとヨイチが、わざとらしく首を傾げた。

「旦那、ただ飯持って挨拶回りしてるだけじゃないですか」

「ちゃうねん」

 博之は即座に反論した。

「見えへん努力があんねん」

「見えませんね」

「この姿なき努力を見たら、世の中の女みんな泣くぞ」

 その瞬間、部屋がどっと笑った。

「泣く前に笑います」

「旦那、それ自分で言うところがあかんのです」

「見えへん努力を見せる努力をしてください」

「うるさいわ」

 博之も笑った。

 だが、笑いながらも、古参たちは分かっていた。

 飯を作るだけなら、博之は天才的だ。

 だが、その飯を土地に根づかせるには、挨拶、寄進、人材、帳簿、仕入れ、寺社、地元との

 関係がいる。

 それを覚えなければ、伊勢にも津にも行けない。

 お花が静かに言った。

「でも、この鮪鍋と海老出汁は、港の飯として強いですね」

「ああ」

 博之は頷いた。

「これができれば、伊勢と津の港へ行く理由になる」

「そして、行った先でまた人を雇う」

「そうや」

 ヨイチが笑った。

「また飯で人を拾うわけですね」

「飯屋やからな」

 博之は鮪鍋をもう一口すすった。

 ねぎと生姜の香り。

 鮪の赤身の旨味。

 海老の殻から取った濃い出汁。

 港にしかない飯が、確かに形になりつつあった。

「次は、お披露目やな」

 博之が言うと、古参たちは一斉に頷いた。

「九鬼様に食べてもらいましょう」

「伊勢の港でも出せます」

「津でも絶対いけます」

「その前に、帳簿と仕入れ表も作れよ」

 博之が釘を刺すと、皆が少し嫌そうな顔をした。

 その顔を見て、博之は満足そうに笑った。

「うまい飯の裏には、面倒な帳面があるんや」

 ヨイチがため息をつく。

「年明け早々、現実に戻されましたわ」

「それが商いです」

 お花が笑う。

 夜は更けていく。

 古参たちは鮪鍋を何度もおかわりし、海老出汁のあら汁をすすりながら、

 伊勢と津の港に思いを馳せた。

 飯で道を開く。

 今年もまた、その一歩が始まろうとしていた。

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