一月前半。店は大きく増やさなかったから従来より簡単に計算できた。ざっくり83万文。読み書き算数ができないと先がない
一月の前半は、思ったよりも静かに過ぎた。
もちろん、伊勢松坂屋の中が本当に静かだったわけではない。松坂の町場、郊外、港、街道沿い、
津と松坂の間の小さな拠点。どこも火を焚き、飯を炊き、客をさばき、人を雇い、金を動かしている。
ただ、博之からすると、今回は大きく新しい店を増やさなかった。
それが、帳簿を見る上では大きかった。
「……今回は、まだ見れるな」
博之が帳面を前にそう言うと、初期の者が横で苦笑した。
「旦那様、それでも十分多いですけどね」
「いや、店を増やしてないだけで、だいぶ楽や」
売上をまとめる。
松坂の郊外の横丁。松坂の町場。港横丁。街道沿いの店。握り飯屋。天ぷら。親子丼。
すり身串。弁当。田楽。団子。豚汁。
それらを合わせて、ざっくり四十五万文。
さらに湯浴みの収入が五万文ほど。
合計で、五十万文の利益。
横で見ていたヨイチが、思わず息を漏らした。
「相変わらず、これすごいっすね」
「まあまあ、ここから見とけ」
博之は、少し嫌そうに次の数字へ移る。
「人件費、二十四万文」
「だいぶ上がってきましたね」
「そら二百人近いからな」
古参、店主見習い、料理人、下働き、用心棒、帳簿を見る者、湯浴みを見る者、仕入れに行く者。
飯を作るだけではない。人が増えれば、仕事も増え、当然ながら銭もかかる。
「新しく雇った者の初期費用が、二万四千文。
「今回は少ないですね」
「三割辞めるのは相変わらずやからな」
博之は帳面を指で叩いた。
「毎度毎度、雇っては三割辞める。その流れを考えたら、今回は新しい屋敷は構えんでええ」
むしろ、今後は人を松坂に抱え込むだけでは済まない。
伊勢へ出す。
津へ出す。
港へ出す。
新しい拠点には、ただ飯を作れるだけの者では足りない。読み書きができる者、帳面を見られる者、
土地の寺社に頭を下げられる者が必要になる。
「そろそろ言わなあかんな」
博之は低く言った。
「何をですか」
「読み書き、算用をやる気ない者は、別にクビにはせん。飯作れるなら飯作ってくれたらええ。けど、
これから先、重宝されるのは、飯もできて、字も読めて、数も見られる者や」
ヨイチが頷いた。
「でかくなってきましたからね」
「そうや。食いぶちに困ってる者を雇うのはええ。うちはそういう店や。けど、どうせ身寄りが
ないなら、ここで踏ん張って、字も数も覚えた方がええ」
「松坂に残るだけなら、そこまでいらんかもしれませんけどね
「そこが悩ましい」
博之は腕を組んだ。
松坂は、設備が整ってきた。
屋敷がある。湯浴みがある。布団もある。飯も安定している。寺社とのつながりもある。
町場には人も多く、商いも回っている。
「松坂にいたいという気持ちも分かる」
博之は言った。
「湯浴みもあるし、布団もあるし、飯もある。そら居心地ええわな」
「伊勢や津へ行ったら、また一からですからね」
「そうや。けど、ずっとここにおったら、上が詰まる」
お花が静かに言った。
「松坂に定住したい者も出てくるでしょうね」
「それもありや」
博之は頷いた。
「松坂の町の者と縁ができて、結婚して、家庭を持つ。それも悪くない。うちの中だけで固まるより、
よっぽどええ」
ただ、伊勢松坂屋としては、人を育て、外へ出す流れも必要だった。
松坂で育った者が、伊勢へ行く。
津へ行く。
港へ行く。
そこでまた、飯に困る者を拾い、横丁を作る。
「そうせんと、うちは松坂で膨らみすぎる」
博之は呟いた。
帳面はさらに続く。
家賃、仕入れ、薪、炭、油、魚、卵、漬物、弁当箱、湯浴み、布団、道具、運搬。諸々の経費が
十四万四千文。
そこに、正月の挨拶回り、寺社への寄進、炊き出し、弁当、握り飯、豚汁の材料などが重なる。
「挨拶と施しに使った分を考えると、九万四千文くらいです」
初期の者が言う。
「まあ、正月やからな」
博之は頷いた。
「北畠様、九鬼様、寺社仏閣。あそこは削るところちゃう」
「削ったら後で高くつきますからね」
「そういうことや」
計算の最後に、数字が出る。
前回の手元、七十四万五千文。
今回の純増分を加えて、八十三万九千文。
部屋が少し静かになった。
「八十三万九千文……」
ヨイチが低く呟いた。
「また増えましたね」
「細かい上下はあるやろ」
博之は筆を置いた。
「ざっくり八十三万文やな」
「ざっくりで済ませる数字ちゃいますよ」
「細かいところはお前らが見る」
「出た」
書記の者たちが笑う。
だが、博之の顔は完全には明るくなかった。
「十万文ほど増えたと言うても、多分すぐ消える」
「伊勢と津ですか」
「そうや」
伊勢の郊外。
伊勢の港。
津の港。
どこか一つ本格的に動かすだけでも、銭は飛ぶ。
屋敷を借りる。
米を入れる。
味噌を入れる。
薪を入れる。
湯浴みを作るかもしれない。
寺社に寄進する。
周りに飯を配る。
古参を出す。
新しく人を雇う。
そして、しばらくはトントンか赤字を覚悟する。
「もうじき、伊勢神宮の方にも挨拶に行く」
博之は言った。
「その時にも銭は使う」
「神宮さんは、さすがに軽くは行けませんね」
「軽く行けるわけないやろ」
博之は苦笑した。
「伊勢は特別や。寺社や周りの顔役にも、ちゃんと筋を通す。銭も飯も持っていく」
「それでまた評判になって、銭が戻ってくるかもしれませんよ」
ヨイチが言うと、博之は嫌そうな顔をした。
「その流れ、ほんま怖いな」
「でも今までずっとそうです」
「分かってる」
博之は茶をすすった。
金は増えた。
だが、金だけが増えたわけではない。
人も増えた。
責任も増えた。
行ける場所も増えた。
挨拶しなければならない相手も増えた。
そして、帳簿を見る者の負担も増えた。
「今年は、人づくりやな」
博之がぽつりと言う。
「飯づくりではなく?」
「飯も作る」
「結局作るんですね」
「当たり前や」
博之は少し笑った。
「けど、飯を作れる者、数字を見られる者、頭を下げられる者。これを育てなあかん」
お花が頷く。
「伊勢と津へ行くなら、なおさらですね」
「そうや。俺が全部行って全部頭下げて、全部飯作って、全部帳簿見てたら、先に俺が死ぬ」
「それは困ります」
「俺も困る」
部屋に笑いが広がった。
だが、笑いながらも、皆分かっていた。
八十三万文という数字は、ただの成功ではない。
次の拠点を作る種銭であり、二百人を食わせる備えであり、伊勢と津へ伸びるための足場だった。
「ほな」
博之は帳面を閉じた。
「今回は大きく動かんかったから、まだ見れた。次に伊勢や津を動かしたら、また地獄や」
「その前に帳簿見る者を増やしましょう」
「そうやな」
「読み書きと算用、強制ですね」
「強制までは言わん」
博之は少し考え、苦笑した。
「けど、覚えた者から飯が変わる。給金が変わる。行ける場所が変わる。それはちゃんと言う」
ヨイチが笑った。
「旦那、うまいことやる気出させますね」
「飯屋やからな」
「関係あります?」
「ある。腹が満ちたら、次は欲が出る」
博之は茶を飲み干した。
「その欲を、字と数に向けさせるんや」
一月前半。
伊勢松坂屋は、大きく店を増やさなかった。
だからこそ、今の形が見えた。
松坂に溜まる人。
外へ出すべき古参。
増え続ける帳簿。
そして、伊勢と津へ向かうための種銭。
博之は帳面の上に置いた筆を見つめながら、静かに呟いた。
「八十三万文か
ヨイチが横で言う。
「旦那、今年も忙しくなりますな」
「去年よりな」
博之は苦笑した。
「まずは、うまい飯と、読める帳簿や」
そう言って、また新しい紙を取り出した。
そこには、こう書いた。
――読み書き算用、覚えた者から道が開く。




