寺社仏閣の挨拶を終えると楽しい楽しい帳簿の時間が待っていた。いやいやながらも向き合う博之。書記の展開も話す。伊勢、津にも行ってもらうぞ
寺社仏閣への正月の挨拶を終えて、博之が本店へ戻ると、奥の部屋で初期の者たちが待っていた。
帳面の束。銭の包み。各横丁から上がってきた売上札。米、味噌、魚、油、薪、布団、湯浴み、
寄進、炊き出しの記録。
それを前に、書記の一人がにこりともせずに言った。
「旦那様」
「……なんや」
「楽しい楽しい、帳簿の時間でございますよ」
博之は露骨に顔をしかめた。
「正月早々、それ言うか」
「正月だからこそです。早よ初期の面々を揃えてください」
「わかった、わかった」
博之は渋々座った。
だが、すぐに帳面へ向かうのではなく、集まった書記の者たちを見回した。
「先に言うとくことがある」
その声に、皆が少し姿勢を正す。
「初期の者は、これからもっと大事になる」
「また急に何ですか」
「伊勢と津や」
部屋が少し静かになった。
「伊勢と津にも行ってもらうことになるぞ」
「え?」
書記の者たちは、思わず顔を見合わせた。
「伊勢はまだ郊外からや。津は、郊外より港の方が早いかもしれん」
博之は続けた。
「九鬼様との話で、港筋は思ったより道が開きそうや。鮪の鍋、すり身、あら汁、海老殻の出汁。
その辺が形になったら、伊勢と津の港で横丁をやる話が出てくる」
「本当にそこまで行くんですか」
「行くかもしれん。だから準備がいる」
博之は帳面の束を指さした。
「お前らは、帳簿を見るだけやない。これからは教えることも仕事に入る」
「教える?」
「そうや。新しい拠点へ行く古参に、銭の数え方、仕入れのつけ方、売上のまとめ方、
寄進や炊き出しの出金のつけ方を教えなあかん」
書記の一人が、少し嫌そうな顔をした。
「それ、めちゃくちゃ大変ですよ」
「知ってる」
「分かってます?」
「分かってるから言うとる」
博之は少し笑った。
「もちろん、古ければ古いほど給金は上げる。帳簿を見られる者、教えられる者は、
さらに上げるつもりや」
その言葉に、何人かの表情が少し変わった。
「給金上がるんですか」
「上げる。責任が増えるからな」
それから博之は、少し意地悪く笑った。
「ただな、新しい拠点で『銭をたくさん持って行ってこい』って言うたら、みんな喜んで行くやろ」
「行きますね」
「店主見習いやって言われたら、みんな浮かれます」
「せやろ」
博之は頷いた。
「けど、そのあとで、この帳簿の面倒くささを徐々に味わうんや」
書記の者たちが、思わず笑い出した。
「それは間違いないですね」
「一件二件の店を自分で見てるだけなら、なんとかなるんですよ」
「でも、横丁になって、人を雇って、仕入れ先が増えて、寄進もあって、炊き出しもあって、
湯浴みまで絡むと、地獄です」
「ほんまそれや」
博之は茶をすすった。
「そいつらが、そのうち泣きながら俺のところに愚痴りに来るのが目に見えるわ」
「旦那、その時は笑って迎えるんでしょう」
「笑うやろな」
「ひどい」
「でも教える」
お花も横で静かに頷いた。
「伊勢の郊外も、まだ小さいうちはよいですが、人を雇い始めると難しくなりますね」
「そうや」
博之は答えた。
「地元の農家から野菜を買う。松坂とは値段が違う。何をいくらで買うか、古参が判断せなあかん」
初期の者が続ける。
「形の悪い大根を安く買うのはよくても、高く買いすぎたら噂になります。逆に買い叩いたら
嫌われます」
「そういうことや」
「誰から買ったかもつけないと、あとで揉めますね」
「つけろ」
「傷んでいたら断る基準もいります」
「いる」
別の書記の者が眉をひそめる。
「それに挨拶回りもあります。寺社、神社、近所の店、農家、漁師、顔役。帳簿だけ
見てても終わりません」
「だから気苦労が増える」
博之は言った。
「津の方は、おそらく郊外より港が早い」
ヨイチが横から口を挟んだ。
「話を聞いてる感じでは、九鬼様の口利きで港の方が先に動きそうですね」
「そうやろ」
「そうなると、港の帳面を見られるやつが必要です」
初期の者が真剣な顔で言った。
「魚の仕入れ、すり身、あら汁、鮪の鍋、海老殻の出汁。松坂城下とは全然違います。
魚は傷みますし、その日のうちに売るものが多い」
「点と点を線にせなあかん」
博之は頷いた。
「港で買った魚が、すり身串になったのか、あら汁になったのか、まかないになったのか、
捨てたのか。そこが見えへんと、数字が崩れる」
「旦那、それを分かってるなら逃げないでください」
「嫌や」
また場が笑った。
「笑ってる場合じゃないんですけどね」
書記の者が言う。
「ほんまに、初期の仕事も帳簿を見る者の仕事も増えます。責任者が『もういい』ってなる
気持ちも分かりますよ」
「分かるやろ」
「分かります。店を持つのは嬉しい。でも、帳面、仕入れ、挨拶、寄進、人の面倒、全部来ますからね」
「だから人を育てる」
博之は静かに言った。
「俺一人ではもう無理や」
その言葉に、部屋の空気が少し変わった。
いつもの冗談ではない。
本当に、もう一人で回せる段階ではなくなっている。
「だから寺社仏閣に頭下げてきた」
博之は続けた。
「読み書きだけやなく、算術も教えてくれと頼んできた。和尚さんも神社の者も、
協力できることはすると言うてくれた」
初期の者たちは、少しだけ安堵した顔になった。
「それなら助かります」
「うちらだけでは全然無理です」
「字を読める者、数を数えられる者を増やさんと、詰みます」
「そこは頑張れよ」
博之が言うと、書記の者たちは一斉に苦笑した。
「旦那も頑張ってください」
「俺は飯を考える」
「帳簿も見てください」
「嫌や」
「駄目です」
ヨイチが茶をすすりながら笑った。
「旦那、今年は飯だけやなくて、人づくりの年ですな」
「そうやな」
博之は少し真面目な顔で頷いた。
「伊勢、津、港。そこに飯を持っていくには、飯を作る者だけやなく、数字を見る者、頭を下げる者、
人を教える者がいる」
お花が静かに言った。
「それができたら、伊勢松坂屋は旦那様一人の店ではなくなりますね」
「それがええ」
博之は帳面を見た。
「俺一人で知ってても意味がない。みんなができるようにならな、俺が倒れたら終わる」
しばらく沈黙があった。
それから書記の一人が、帳面を開いた。
「では、そのためにも、まず今の数字を見ましょう」
「やっぱりそこに戻るんか」
「戻ります」
博之は大きくため息をつき、筆を取った。
「ほな、やるか」
「はい。楽しい楽しい帳簿の時間です」
「楽しくない」
そう言いながらも、博之は茶をすすり、紙の上に目を落とした。
伊勢へ行くために。
津へ行くために。
港へ広げるために。
そして、拾った者たちが、いつか誰かを拾えるようにするために。
面倒な帳簿と、向き合わないわけにはいかなかった。




