大名家に挨拶に行った後寺社仏閣回りをする。炊き出しをしながら先々で頭を下げて回る
大名方への年賀の挨拶が一通り終わると、博之は今度は寺社仏閣を回り始めた。
北畠様、九鬼様への挨拶はもちろん大事だった。だが、実際に町に根を張るには、
寺や神社への顔出しを欠かすわけにはいかない。
正月の寄進は年末ほど大きくはない。だが、銭の包みを少しずつ用意し、
弁当と握り飯も持っていく。さらに、寺の境内や神社の脇で大鍋を借り、
温かい豚汁を炊いて振る舞った。
「明けましておめでとうございます。去年は本当にお世話になりました。今年もよろしくお願いします」
博之はそう言って、深く頭を下げた。
湯気の立つ鍋から、豚汁が椀に注がれる。大根、ごぼう、ねぎ、豚の脂、味噌の香り。
寒い正月には、それだけで人が集まる。
子どもたちは握り飯を受け取り、年寄りは豚汁をすすって、ほっとしたような顔をした。
寺の和尚は、博之の様子を見ながら穏やかに笑った。
「こちらこそ、去年はおいしい飯と、たくさんの寄進をいただきまして、ありがたいことでした」
「いやいや、商売させてもらってる身ですから」
「うちで協力できることがあれば、いたしますよ」
「ありがとうございます」
博之が頭を下げると、和尚は続けた。
「旦那のところは、もうかなり大きな商いになっておりますな。雇っている者も多い。
ならば、読み書きだけでなく、計算も必要でしょう」
「まさにそこが困っております」
博之は苦笑した。
「飯を作る者は増えましたけど、数字を見られる者がまだ少ないんです」
「商いは数字を読めねばなりませんからな」
「はい。帳面を見る者を育てないと、私の頭が先に壊れます」
和尚は笑った。
「世間話がてら来てくだされば、いつでも歓迎します。読み書き、簡単な算用くらいなら、
こちらでも手伝える者を見繕いましょう」
「本当にありがたいです」
「それだけのことを、松坂屋さんはしてくださっていますから」
さらに和尚は、少し声を落として言った。
「地元の者たちにも、話はしておきます。農作物を持ってくる者も出るでしょう。形の悪い大根、
曲がったごぼう、余ったかぶ。そういうものでも、旦那のところなら飯に変えられるでしょう」
「はい。漬物にも汁にもできます」
「なら、足元を見るのでもなく、高く買いすぎるのでもなく、うまく回るように話をつけておきます」
「丁寧に言うていただいて、本当にありがとうございます」
博之は深く頭を下げた。
寺や神社とつながることは、ただ寄進をするだけではない。
人を紹介してもらう。
読み書きを教えてもらう。
地元の農家とつないでもらう。
困っている者の話を聞く。
飯屋が町に溶け込むための道が、そこにあった。
しばらく世間話をした後、博之は少し申し訳なさそうに言った。
「今年は、あまり頻繁にご挨拶に来られないかもしれません」
「ほう。お忙しくなるのですか」
「はい。年賀の挨拶で九鬼様と話しましたら、伊勢と津の港の方でも横丁ができるかもしれない
という流れになりまして」
和尚は少し目を丸くした。
「もう伊勢と津ですか」
「まだ分かりません。ただ、九鬼様に、鮪の食い方を考えていると話したんです」
「鮪を」
「はい。捨てられがちな赤身の端を、ねぎと生姜、野菜出汁と小魚出汁で大鍋にして食わせる。
港でその日のうちに煮るなら、飯になるんじゃないかと」
和尚は感心したように頷いた。
「また、捨てるものを飯に変えるわけですな」
「そうです。それがちゃんとした飯になって商売できるようなら、伊勢や津の港で店を出す際に
口利きしてやる、と九鬼様から言っていただきまして」
「九鬼様にそこまで言わせるとは、なかなかですな」
「飯のおかげです」
「本当に、飯の勢いというのはすごいものですな」
和尚はしみじみと言った。
「九鬼様に重宝されるというのは、簡単なことではありませんよ」
「ありがたい話ですが、その分、動く場所が増えます」
博之は苦笑した。
「ですので、私自身が来られない時は、古参の者に紋付き袴を着せて寄越します。
もし挨拶の頻度が少ないとか、何か粗相があるとか、そういうことがあれば、遠慮なく本店に
手紙を送ってください」
「手紙を」
「はい。松坂の本店でも、近くの拠点でも構いません。届けば、改めて弁当を持たせて
挨拶に行かせます」
「そこまで言ってくれるなら、こちらも安心です」
「その時に、読み書きや数字も少し教えていただければ、なおありがたいです」
和尚は笑った。
「ちゃっかりしておりますな」
「すいません」
「いえ、それでこそ商人です」
神社でも、似たような話になった。
博之は寄進の銭を納め、握り飯と弁当を渡し、境内で豚汁を振る舞った。
「去年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ。松坂屋さんの飯は、評判がよろしい」
「ありがとうございます」
「今年は伊勢や津にも行くとか」
「まだ話だけでございます。ただ、港の飯を少しずつ形にしたいと思っております」
「港の飯?」
「魚のあら汁、すり身串、鮪の大鍋、海老殻の出汁。港でしか出せない飯です」
「面白いことを考えますな」
「飯のことしか考えられませんので」
そう言うと、神社の者も笑った。
いくつかの寺社を回るうちに、博之は同じことを何度も話した。
去年の礼。
今年の挨拶。
商いが広がり、本人が頻繁には来られないかもしれないこと。
古参を寄越すこと。
粗相があれば本店へ知らせてほしいこと。
読み書き、算用を教えてほしいこと。
農作物や働き口のない者がいれば、つないでほしいこと。
そして、飯は必ず持ってくること。
どこでも反応は悪くなかった。
「正直に言うてくれるのがええ」
「松坂屋さんなら、飯に困る者を拾ってくれる」
「今年も炊き出しを楽しみにしています」
「子どもたちが、あの混ぜ飯を覚えてしまいましたわ」
そう言われるたび、博之は頭を下げた。
正月の空気は、まだどこか浮き立っている。だが、その裏では今年の商いがもう始まっていた。
寺社を回り終えた頃、ヨイチが横で言った。
「旦那、今日もよう頭下げましたな」
「頭下げるだけで敵が減るなら安いもんや」
「飯も出してますけどね」
「飯も出す。銭も出す。話もする。そしたら、困った時に少し助けてもらえる」
「それを隠さず言うところが旦那ですわ」
博之は笑った。
「今年は、俺一人では回りきれん。だから、皆に覚えてもらわなあかん」
寺社への挨拶も、炊き出しも、寄進も、読み書きのお願いも、農家とのつなぎも。
すべてが、伊勢松坂屋の根になっていく。
博之は帰り道、空を見上げた。
伊勢。
津。
港。
今年はさらに忙しくなる。
だが、まずは足元からだ。
温かい豚汁を食べた子どもたちの顔を思い出しながら、博之は静かに呟いた。
「今年も、飯でやるしかないな」
ヨイチが笑う。
「旦那は、それしかないですからね」
「それでええ」
そう言って、博之は松坂の本店へ戻っていった。




