四月一週目、夜の伊賀路と湯気の饅頭
四月一週目。
伊賀へ入ってからというもの、博之は本当にこまめに休んだ。
「ちょっと待って」
「またですか?」
「またや」
少し登っては休む。
水を飲む。
また歩く。
今度は石に腰かける。
「大旦那、夕方には着く予定なんですが」
「予定は予定や」
「このままやと日が暮れますよ」
「無理して倒れるよりええやろ」
「それはそうですけど」
奈良の僧たちも、最初は笑っていた。
だが、日が傾き始めると、さすがに少し心配になってきた。
「もう少しです」
「その『もう少し』何回目?」
「今度こそ本当にもう少しです」
「信用ないわ」
博之は杖代わりの棒を握りながら、足を引きずるように歩いた。
夕方に着く予定だった宿のある集落は、結局、日が落ちても見えてこない。
「……夜やん」
「夜ですね」
「俺、頑張ったよな?」
「休憩も頑張ってました」
「それ褒めてへんやろ」
その時だった。
暗くなった山道の先に、ぽつぽつと明かりが見えた。
「あれ何?」
「松明でしょう」
やがて声が聞こえてくる。
「おーい!」
「こっちですぞ!」
集落の者たちだった。
到着が遅いので心配し、何人かが松明を持って迎えに来てくれたらしい。
「大旦那!」
「ほんまに来られたんですな!」
「遅いから何かあったんかと思いましたぞ!」
博之の顔が一気に明るくなった。
「迎え来てくれたん?」
「そら来ますわ!」
「ありがたい……」
半分は感動。
もう半分は、ようやく歩かなくてよくなる喜びだった。
「ここからどれぐらい?」
「ほんの少しです」
「ほんまのほんの少し?」
「今度はほんまです」
「よかった……」
集落へ入ると、そこには思った以上に人が集まっていた。
「大旦那や!」
「伊勢松阪屋の?」
「ほんまに伊賀まで来たんや!」
子供たちまで起きて待っている。
「お前ら寝ててええのに」
「大旦那見たかった!」
「どんな人かと思って!」
「普通のおっちゃんやで」
「大旦那です!」
奈良の僧がすぐ訂正し、周囲に笑いが起きる。
博之は満身創痍だった。
足は痛い。
腰も重い。
肩まで妙に張っている。
それでも、待ってくれていた人々の顔を見ると少しだけ元気が出た。
「ほな、せっかくやし何か食べてもらおか」
「大旦那、今から?」
「蒸籠持ってきたやろ」
「寝るんでは?」
「蒸すだけ蒸してから寝る」
持ってきた蒸籠を出し、火を起こす。
肉餡を包んだ饅頭。
小豆餡の甘い饅頭。
それに、地元で用意してもらった菜や根菜も切って一緒に蒸す。
「何ですの、これは」
「最近、伊勢松阪屋でやり始めた新しい飯や」
蒸籠を重ねる。
しばらくすると、夜の冷たい空気の中に白い湯気が立ち始めた。
「おお……」
子供たちが近づく。
「熱いから触るなよ」
「ええ匂いする!」
「まだやまだ」
頃合いを見て、蓋を開ける。
ぶわっと湯気が広がった。
「うわあ!」
その声だけで、博之は少し報われた気がした。
「まず肉の方」
紙に包んで渡す。
「熱いぞ」
一口食べた男が目を見開く。
「うまっ」
「ほんまや!」
「これ、手で食えるんですな」
「そこがええねん」
次は小豆餡。
子供や女衆に特に受けた。
「甘い!」
「こんなん食べたことない!」
「伊勢ではこんなん売ってるんですか?」
「まだ試してるとこや」
さらに蒸した野菜。
塩。
味噌。
それだけでも十分うまい。
「これ、ただ蒸しただけですか?」
「そう」
「うまいなあ」
「地元の野菜がええからや」
博之は笑った。
「伊勢のもん持ってきて自慢するだけやったらおもろないやろ。ここのもん使って
うまいもん作れた方がええ」
集落の者たちは、何度も頷きながら食べていた。
「大旦那がわざわざ来て、新しい料理まで食わせてくれるとはなあ」
「宴会しましょうや!」
「酒も出します!」
「今日は盛大に!」
その言葉を聞いた瞬間。
博之は両手を合わせた。
「ごめん」
「え?」
「風呂入って寝かせて」
一瞬、静かになる。
「宴会は?」
「明日」
「酒は?」
「明日」
「せっかく大旦那が来たのに」
「俺もう限界やねん」
奈良の僧たちが吹き出した。
「途中で何回休んだと思ってるんです?」
「数えるな」
「夕方着く予定が夜ですからな」
「それでも着いたやろ!」
博之は足をさすりながら言った。
「今日は湯入って、足伸ばして、布団で寝たい。それが一番のご馳走や」
地元の者も笑い始める。
「ほな湯、用意しますわ」
「ありがとう」
「明日は宴会ですよ」
「朝の俺に聞いて」
「逃げる気ですやん」
「足が動いたらな」
そう言いながら、博之は湯屋の方へ向かった。
道中は散々だった。
予定は遅れた。
足も腰も痛い。
それでも、松明を持って迎えてくれた人がいて。
子供たちが笑って。
伊勢松阪屋の新しい饅頭を、山の中の集落で「うまい」と食べてもらえた。
「……まあ、来てよかったな」
湯に浸かりながら、博之は小さく呟いた。
ただし。
「帰りは絶対、伊賀越えせえへん」
その決意だけは、さらに固くなっていた。




