博之45歳。三月三週目、遊びの六百万文と伊賀の道
三月三週目。
「旦那様、帳面合わせです」
「はいはい。今週はいくら?」
ヨイチが帳面を広げた。
「商いの利益そのものは、だいたい三千八百万文です」
「順調やな」
「ただし今回は、各地へ渡した催しの銭や、その追加費用がかなり出ております」
「おお。遊び費な」
「その名前で帳面につけるのは嫌です」
「士気向上費」
「最初からそう言ってください」
ヨイチは指を動かした。
「各地の催し、景品、材料、追加の飯などを合わせて、ざっくり六百万文ほど」
「結構使ったな」
「旦那様が『おもろいことしろ』と何か所にも銭を置いてきたからでしょう」
「でも三千八百万稼いで、六百万使ったんやろ?」
「そうです」
「ほなええやん」
最終的な帳面上の蓄えは、およそ八億九千七百万文。
博之は数字を聞いて、しばらく黙った。
「……もう八億とか九億とか言われても分からんな」
「分からなくならないでください。大旦那でしょう」
「一万文落としたら慌てるのにな」
「その感覚だけは残しといてください」
そして今回、銭以上に面白かったのが各地から届いた報告だった。
「蟹江では魚のさばき競争をやったそうです」
「おお。蟹江らしいやん」
「魚をきれいに、早くさばいた者へ景品。終わった魚はそのまま皆で食べたと」
「ええな」
「亀山は薪割り競争です」
「地味やな!」
「かなり盛り上がったそうです」
「盛り上がるんや」
「一番きれいに割った部門と、一番多く割った部門まで作ったそうで」
「俺よりちゃんと考えてるやん」
熱田では甘味作り勝負。
小豆や粉を使い、それぞれ工夫した菓子を出して、客や女衆に選んでもらったという。
「それ、饅頭の新しい餡も出てくるんちゃう?」
「実際、胡麻を混ぜたものが評判よかったと」
「ほら。遊びから飯出てきたやん」
博之は得意げに胸を張った。
さらに今津の方では、漁師と料理人で魚料理対決。
漁師は「魚を知っている強み」。
料理人は「調理を知っている強み」。
同じ魚を使わせたら、まったく違う料理が並んだらしい。
「おもろいやん」
「旦那様が考えなくても、皆さん考えますね」
「……それ言われるとちょっと寂しい」
「望んだことでしょう」
「そうやけど」
当然、成功ばかりではない。
「こちらは餅つき大会」
「うん」
「人が集まりすぎて、途中で餅がなくなりました」
「それはしゃあない」
「酒を出した拠点では盛り上がりすぎて、翌朝かなりの人数が遅刻しました」
「酒は次から減らせ」
「人気投票をやったところでは」
「おお」
「本気で喧嘩になりました」
「何でやねん」
「『あいつに負けるはずがない』と」
「松坂でもそこまでならんかったぞ」
博之は笑いながら報告書を受け取った。
「でも全部、帳面と報告に書いてあるんやろ?」
「はい」
「ほなええ」
「いいんですか?」
「次直したらええやん」
餅が足らなかったなら、次は数を読む。
酒で失敗したなら、量を減らす。
人気投票で揉めるなら、次は別の競争にする。
「失敗したこと隠してへんのが一番ええわ」
「では催しは続けます?」
「続けたらええ」
「また六百万文かかるかもしれませんよ」
「毎回六百万使えとは言うてへん!」
ヨイチが笑った。
「ほどほどにな」
「それ、旦那様が言います?」
「俺やから言うねん」
そして博之は帳面を閉じた。
「それより伊賀や」
「はい」
「もう四月すぐやぞ」
遊びの話とは別に、こちらは先に進めておきたい。
「大工事はいらん」
「分かっております」
「山削ったり、立派な街道作ったりしたらあかんで」
「そこまでやれば本当に領主の仕事です」
「俺、領主ちゃうからな」
必要なのは、人が歩ける最低限。
伸びた草を刈る。
倒木をどける。
崩れている足場を少し整える。
小さな沢で危険なところだけ板を渡す。
水場がある場所には、目印を置く。
「俺が歩くためだけちゃうぞ」
「奈良のお坊さん方や商人も使えますからね」
「そう。先々絶対役立つ」
草津側が使いにくくなった時にも、伊賀を通れる道が一本生きていれば違う。
「ただし地元の者にはちゃんと話通してな」
「はい」
「勝手に山いじったら揉めるから」
「そこは先に伊賀の者と相談させます」
「金は出す」
「またですか」
「道には出す」
ヨイチはため息をついた。
「遊びにも出す。道にも出す。旦那様、ほんま銭使うの好きですね」
「八億九千七百万文あるんやろ?」
「そういう時だけ数字覚えてるんですね」
「使うために稼いでんねん」
「では足腰も使ってください」
「……何の話?」
「伊賀越えです」
「歩いてるやん」
「女衆と喋りながら一刻歩いて、荷車で帰ってくるやつですか?」
「継続が大事や」
「もう二週間もありませんよ」
博之は少しだけ目をそらした。
「まあ……道が良くなったら歩きやすいやろ」
「旦那様のための道路整備になってません?」
「みんなのためや!」
「はいはい」
三月も残りわずか。
各地では、博之のいないところで勝手に催しが生まれ、勝手に失敗し、勝手に次を考え始めていた。
そして博之自身は。
四月の伊賀越えを前に、道の整備ばかり進めながら。
肝心の自分の足だけは、相変わらず少し心許なかった。




