年末帳簿と戦う博之。3月無一文だった男が年末までに積み上げ施して74.5万文で終える。感慨深い。年越しの飯でも考えるか
年末の数日間、博之は帳簿と戦っていた。
挨拶回りから戻った後、最初こそ「もうどんぶり勘定でええんちゃうか」と逃げようとしていたが、
書記の者たちに囲まれ、ヨイチに茶を出され、お花に静かに見守られ、結局逃げ道はなかった
「旦那様、ここを見てください」
「見たくない」
「見てください」
「はい……」
そんなやり取りを何度も繰り返しながら、店ごとの売上、港の仕入れ、街道沿いの拠点、湯あみや、
布団、寄進、炊き出し、採用、屋敷、薪、油、米、味噌、魚、卵、漬物、すべてを一つずつ
拾っていった。
前回の手元は、六十万九千文。
そこから、年末までの売上をまとめる。
横丁、街道、港、握り飯屋、天ぷら、親子丼、すり身串、弁当、田楽、団子。全部を合わせると、
利益ベースで四十三万四千文ほど。
そこに湯あみの分が五万八千文ほど乗る。
合わせて、ざっくり四十九万文。
その数字を聞いた瞬間、博之は思わず筆を置いた。
「……どえらい数字やな」
ヨイチが横から覗き込む。
「もう飯屋の数字ちゃいますね」
「飯屋や」
「飯屋にしては、でかすぎます」
そこから出ていくものを引いていく。
北畠様、九鬼様、長野様への年末の挨拶と寄進。道中の寺社仏閣への寄進。伊勢郊外の寺と
神社への五千文ずつ。炊き出しの米、味噌、魚、油。弁当、握り飯、すり身串、親子丼、
天ぷらに使った材料。
さらに、新しく雇った六十人分の初期費用。
湯浴み、着物、寝具、飯、最低限の道具。
ざっくり十万文。
そして、人件費。
二百人近い所帯となれば、半月でも重い。
ざっくり二十万文。
そこに、薪、炭、油、魚、卵、漬物桶、弁当箱、屋敷の維持、港や街道の運搬費など、
細かなものが積み重なる。
それでも、計算の最後に残った数字は、十三万六千文の増加だった。
博之はしばらく黙った。
「……また増えとるな」
ヨイチが笑う。
「増えてますな」
「これまた、いろんなものに回せるな」
「丸ごと寄進したら、また返ってきますよ」
「それも困るな」
博之が真顔で返すと、ヨイチは肩をすくめた。
「贅沢な悩みですわ」
「そうやな」
たしかに贅沢だった。
三月には、まともに飯を食うだけでも必死だった。半月働いて、ようやくボロ小屋で豚汁屋を始めた。その時の博之には、六十万文どころか、十万文ですら夢のような銭だった。
それが今や、十三万六千文増えても「困る」と言っている。
「けどな」
博之は帳面を見ながら呟いた。
「何かあった時の種にはせなあかん」
金は怖い。
だが、金がなければ人を守れない。
火事、疫病、夜盗、戦。
屋敷を失った時、米が高騰した時、誰かが怪我をした時、店が一つ潰れた時、
立て直すには種銭がいる。
「全部吐き出すのは違うな」
お花が頷く。
「はい。残す銭も必要です」
「伊勢の港の方は、なんかいけそうな気がしてきたよな」
博之がヨイチを見る。
「横で聞いてて、どうや」
「いけそうっす」
ヨイチは即答した。
「九鬼様のところも、北畠様も、長野様も、飯を食うたらだいぶ態度変わりましたから。
港の話は、たぶん通りますよ」
「やっぱりそう見えるか」
「見えます」
伊勢の港。
津の港。
港に魚がある。魚に飯の種がある。すり身串、あら汁、あら大根。さらに握り飯、田楽、
団子、弁当、蜂蜜饅頭。
飯で港に入り、そこから人を雇い、横丁を作る。
道が見え始めていた。
「でも、年末に新しく何か作るのはやめとこう」
博之は言った。
「業者も職人も嫌がるやろ」
「そらそうです」
「この十三万文は、ひとまず貯める」
ヨイチが目を丸くした。
「旦那が貯めるって言うた」
「俺でも貯める時は貯める」
「珍しい」
「うるさい」
ただ、頭の中ではすでに次の絵が浮かんでいた。
「津の郊外でもやり始めたら、またあぶれた者を雇って、寝起きする場所を作らなあかん」
「伊勢郊外と同じようにですか」
「そうや。今度は道すがらの小さい拠点やなくて、腰を据える拠点や」
松坂でやったように。
伊勢でやろうとしているように。
津でも、飯に困る者を集め、飯を食わせ、寝床を用意し、読み書きを教え、横丁を作る。
「古参を入れてやらなあかんな」
「誰を出すか、また揉めますよ」
「揉めるやろな」
博之は苦笑した。
「でも、行きたい者も出てくるやろ」
「出ますね」
店を任される。
拠点を作る。
丸に井の紋付き袴を着て、別の土地で商いをする。
それは、かつて飯も食えなかった者たちにとって、立派な出世だった。
「年越しは、持ち回りで飯炊きやな」
博之はふと話を戻した。
「屋敷ごとに飯を炊いて、年越しの汁物を出す。港はあら汁。郊外は豚汁。城下は親子丼を少し。
街道の者には握り飯と田楽」
「また飯ですか」
「うちは飯屋や」
ヨイチは笑った。
「結局そこに戻るんですな」
帳面の最後に、数字が書き込まれた。
六十万九千文。
そこに十三万六千文が増える。
合計、七十四万五千文。
博之はその数字をしばらく見つめた。
「七十四万五千文……」
言葉にすると、さらに現実味がなくなる。
「三月の無一文状態から、ようここまで来たな」
本当にそうだった。
自分でも呆れるほど、運が良かった。
豚汁が売れた。
田楽が売れた。
親子丼が受けた。
天ぷらが当たった。
混ぜ飯が伸びた。
湯あみまで金を生み出した。
布団を売れば完売し、寄進すれば評判になり、飯を振る舞えば口利きが生まれる。
「施したら、勝手に返ってくるわ」
博之がぼそりと言うと、ヨイチが笑った。
「ほんま、変な阿呆神みたいなんがついてますよ」
「阿呆神てなんや」
「旦那が阿呆みたいに飯を配るから、阿呆みたいに返ってくる神様です」
「それ、褒めてへんやろ」
「半分褒めてます」
お花が穏やかに笑った。
「でも、施したから施し返されているだけかもしれませんね」
「そうかもしれんな」
博之は少しだけ静かになった。
あの時、誰かが飯をくれたら。
あの時、誰かが寝床をくれたら。
あの時、誰かが「働くか」と声をかけてくれたら。
そういう思いが、ずっと自分の底にある。
だから飯を出す。
敵を作りたくないからでもある。
評判が欲しいからでもある。
でも、それだけではない。
単純に、腹を空かせている者を見ると、寝覚めが悪い。
「私らも、それで救ってもらった身ですから」
お花が静かに言った。
「予想よりだいぶ大きくなって、形もおかしくなっていますけど」
ヨイチが続ける。
「飯屋なのか、湯屋なのか、布団屋なのか、港商人なのか、よう分からんですからね」
「飯屋や」
博之はすぐに言った。
「全部、飯のためや」
お花は笑った。
「でも、面白いですね」
「面白いか」
「はい。面白い人生かもしれません」
その言葉に、博之は少し照れたように顔を背けた。
「まだ一年も経ってへんけどな」
「だからこそです」
外では、年の瀬の風が冷たく吹いている。
だが、屋敷の中には飯の匂いと、人の声と、帳面の重さがあった。
七十四万五千文。
それはただの金ではない。
二百人の暮らしと、いくつもの横丁と、これから向かう伊勢、津、港への道だった。
博之は帳面を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「ほな、年越しの飯を考えるか」
ヨイチが呆れたように笑う。
「やっぱり最後は飯ですか」
「最後も最初も飯や」
博之はそう言って、台所の方へ歩いていった。




